第7話


 クリスマスイブである。ただ相変わらず時計の針は午前10時を指し、これから始まる長い一日を遠回しに演出する。

 だがまあ、この年末の雰囲気は誰にも変えることができない。あと少しで正月休暇に突入するせいか、慌ただしい中に少し浮き足立っている雰囲気がある。この特有の空気感は、現実から離れられる気がして好きだった。


「なあなあ春日君」


 そんな年末の空気感にやられている沢渡正近さわたりまさちかは、揚々と話しかけてくる。シャツ姿に派手なネクタイ。これでも部長で、俺の上司に当たる人だ。ただ面倒見が良く、メリハリがしっかりしていて一緒に働いていて楽しい人だった。


「どうしました?」

「どうしました、じゃないよ~。さっきから気づいているくせに~」


 部長は俺から視線をずらしながら言う。その先には、色々あって何かがあった。


「何の話ですかね。俺には仕事をさぼってこんな所で油売ってる知り合いは居ないですよ」


 俺が所属する総務部には、来客用のソファや打ち合わせに使う会議室も常備されている。ソファに関しては俺たちが仕事をしている様子が見える場所にあり、実際社員の休憩スペースとして活用されることも多かった。

 そこに、朝からずっと居座っている人間が居る。そして俺に痛いほどの視線を送りつけている。


「でも9時からずっと居るよね。それでずっと君のこと見てるよね。もうこれってじゃないの? 話しかけては来ないけど」

「沢渡部長が注意していただけませんか。正直邪魔なんですよね。あと見てるんじゃなくて、睨み付けてるの間違いです。なのでラブでもなんでもないっす」


 冷静に返答すると、部長は分かりやすく嫌がる。


「ええ~。だって他部署の人だしぃ、桜野さん怖いしぃ」

「ギャルみたいに言わないでくださいよ」


 それにしてもテンション高いな……。酒でも飲んでんじゃないか、マジで。

 桜野には昨日久々に会ったが、もはやしばらく顔を見なくても良いぐらいの時間を過ごしている。終電まで付き合ったせいか、若干酒が残っている気がしないでもない。人のこと言えないな。


「そういや二人は同期だったっけ?」

「そうですよ。唯一の同期です」

「他にもいたよね?」

「といっても1人だけですけど。2年ぐらい前に辞めちゃいましたね」


 ソイツは男で俺とは違ってスゴイ真面目なヤツだった。ただ酒を飲むと性格が激変するから面白かった。絡み酒になって、聖夏をナンパするきっかけになったのも彼だったりする。

 聖夏、ねぇ。今なにしてるんだろ。連絡しようと思ったことは否定しない。ただ実際に彼女とのトーク履歴を見てみると、確かにどこか素っ気なさを感じる文面であると気づいた。フラれた後に。


「何かあったかい? 悩み事があるなら聞くからね。あ、言いたくなかったら言わないで良いから」


 なんてことを考えていると、いきなり部長の声が落ち着いたものになった。視線は俺の顔を見ていて、どうやらわずかに曇った表情を見逃さなかったらしい。なんだかんだ言っても、やはり頼りになる人だった。


「ありがとうございます」

「うんうん。若いって良いねぇ」


 別にもう若くはない。30歳だし。ただ謎の安堵感に包まれ、再びパソコンの画面に視線をやる。

 だが、その奥に何者かが立っているのが分かった。その正体は見上げずとも察しがついた。


「ちょっと」

「なあ桜野、そろそろ仕事したらどうだ?」

「私はこう見えてやることはやってるから良いの」

「そうかよ」


 桜野に話しかけられると、昨夜の出来事を思い出す。

 昨夜、と言ってもつい数時間前の出来事を思い出しながらパソコン画面に向かい合っていた。あの寒空の下で飲んだ缶コーヒーの味が、今でも妙に舌の上に残っている。


「春日君には昨日のことを報告する義務があると思うんだけど」

「報告しなかったっけ?」

「ラインも無視しておいて良く言うね。どう思います沢渡部長?」

「それは良くないなぁ。僕も気になるよ」

「ですよねぇ~!」


 このめ。部長まで巻き込みやがって、それこそ全く関係ないだろ。

 それにしても昨日終電まで飲んでいたというのに、元気なヤツだな。


「で、あの後どうなったの? 私を見捨てたぐらいだから色々あったんでしょ?」

「見捨てたってお前な……」

「私は一緒に帰りたかったのに違う女のために……」

「え、やっぱりラブ……?」

「部長、違いますから。桜野も適当なこと言わないでくれ」


 俺も大概だが、桜野の適当さには呆れる。第三者がいる場所で平然と嘘を吐くのだから、神経の図太さが垣間見える。ある意味、営業に向いている性格かもしれない。


「嫌だよ。私、教えてくれるまで帰らないから」

「あのね、今は勤務時間中ですけど」

には許可もらってるから大丈夫」


 思わず沢渡部長と顔を見合わせる。その驚きの展開に二人して苦笑いするしかなかった。

 権堂傑ごんどうすぐる。桜野が所属する営業部の部長だ。見た目は完全な体育会系だが、本人はそういうノリを一切やらないから部下からの信頼も厚い。俺が所属していた時もお世話になってたし、確かに権堂部長なら『遊んでこい』とか平気で言いそうだわ。


「ウチの会社、大丈夫なんですかね」

「まあほら、それだけ余裕があるってことさ」

「自暴自棄のようにも見えますけどね」

「あはは。まあ気負いすぎず働ける環境ってことだね」


 確かにそういう考え方も大事だ。

 仕事に追われて、仕事に疲れて、生きることに疲れてしまう――。何のために生きているのか、その本質を見極めないとこの負のスパイラルに陥って、そして。

 頭をよぎるのは、やはり昨夜のあの人だ。彼女もきっと、そういう考え方になってしまったのではないかと推察できる。名前ぐらい聞いておけば良かったな。昨日の態度を見る限り、教えてくれるとは思わないけど。


「少し離席します。すぐ戻りますので」

「うんうん。たくさん遊んでおいで」


 沢渡部長は笑いながら俺と桜野を見送った。出版社といえば中々に厳しい労働環境のイメージがあるが、ウチの会社はめちゃくちゃゆるやかだと思う。定時に帰ることもできるし、有休だって使いやすい。だから離職率も低く、優良企業だという自覚があった。俺も転職は考えたことがない。


「本当にしつこいな。営業成績が良い理由も納得できるよ」

「あんな場面見たら誰だって気になるって」

「……それもそうか」


 社員の休憩スペースにやって来た俺は、桜野に昨日の出来事を説明した。先週助けた女性が電車に乗り込む寸前でこけたこと、それを見て助けたこと、路地裏で少しだけ話したこと。そして――それ以上何もしていないことも。


「春日君って本当に男気ないよね。普通名前ぐらい聞くでしょ?」

「いやあのさ、別にそういう目で見てないって。俺、プロポーズに失敗してフラれたばっかなわけ。そういう気になれないって」

「だからこそ、他の女性で上書きすれば良いのに」

「あーなるほど。これは桜野が肉食すぎるだけだな」


 男勝りの発想である。彼女が言うことも理解はできるけど、ただ彼女にフラれたわけではない。本気で結婚を考えて、想いを伝えるために準備してきた相手が、俺を置いて遠くへ行ってしまった。

 あぁ聖夏。いま何してるんだろう。もう海外に行ってしまったのかな。こっちはクリスマスイブだっていうのに、彼女でもなんでもない同期に『男気がない』って責められているよ。


「今から言うのは全部私の勘ね。だから適当に聞いてて」

「どうした急に」

「良いから良いから」


 適当に、と言われたから頬杖を付いて彼女を見る。まるで先生の話を聞く気が無い生徒みたいで、桜野は呆れた様子でため息をついた。


「前にも言ったけど、きっとその人は春日君に感謝してると思うな」

「だと良いな」

「うん、だからね、きっと春日君と飲みに行きたいって思ってるんだ」

「うん?」


 完全におもちゃを見つけた感じだな、このやろう。

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