第6話
「うぇっ!? ちょ、ちょっと春日君!?」
つり革から手を離して、閉まりゆくドアを潜り抜けるように駅のホームに降り立った。駆け込み乗車ならぬ『駆け込み降車』である。
朝の通勤ラッシュだったら駅員から注意されるぐらい危険な行為だった。良くないことをしたという自覚があるせいか、心臓の鼓動が早くなっている。辛いわけではないのに息切れに近いあの感覚だ。
桜野の声はドアが閉まると同時に聞こえなくなった。電車が動き出す音が大きくなると同時に、俺の視線は地面に落ちている女性に向かう。スーツのスカートから覗かせる足は細くて綺麗だった。……いや、キモいからやめよう。
足元を見ると、ヒールの片方が折れていた。見たことある光景だが、やっぱり走ったのが良くなかったらしい。女性は片方の足首を手で押さえながら、うつむいたままである。
「立てますか?」
俺は一体、何をしているのだろうか。先週末に続いて2回も終電を捨てることになるなんて、思ってもいなかった。けれど、ここで見捨てたら後悔する――。なぜだがそんな気持ちが無視できなくて、とっさに体が動いた。
だって、この女性には見覚えがあったから。先週と同じような黒いコートを羽織っていて、パリッとしたスーツに長く伸びた黒髪。この人は、俺が無責任に助けてしまったあの人だって、そんな確信があった。
幸か不幸か、桜野の予想が当たったわけである。きっとこの人は、アイツが言うように会社に捕らわれている存在なのだろう。
「あの……?」
女性は一向に顔を上げようとしなかった。それどころか、両肩が震えているようにも見える。
なんてことを考えていると、女性がゆっくりと顔を上げる。その顔はお世辞にも――美しいとは言えなかった。と言うのも、涙で化粧がぐちょぐちょになっていて、頬に黒い涙の跡が付いていたからである。
その涙の理由は分からない。ただなんとなくだけど、足の痛みのせいではないと直感的に察した。
女性は何も言わなかった。いや、涙が止まらないせいで話せない、と表現するのが正しいと思う。それでも、先週とは違って俺の瞳を見つめたまま離そうとはしなかった。
「とりあえず、駅を出ませんか。終電、行っちゃったし」
いずれにしても、ここに居たって何もできない。それこそ駅員に出て行くよう促されるだけだ。
彼女は一瞬目線を落として、何も言わず立ち上がろうとする。しかし足が痛むようで、思うようにならないようだ。ただ俺が右肩を貸すと、少し悩んで素直に左手を乗せた。
「ごめんなさい」
先週とは違って、簡単にちぎれてしまいそうな声だった。『そんな謝らないでくださいよ』なんて軽々しく言うのは気が引けるぐらいに。だから「良いですよ」とだけ返す。彼女は肩にカバンを掛けて、右手に折れたヒールを持っている。
事情を話して改札を出る。先週と同じように周りの視線が刺さるけど、不思議と気にはならなかった。階段を登るのはさすがに疲れたけど、地上に出たら暖かな寒風が吹き付けた。
とは言え、ここに長時間立っていれば体も冷える。とりあえずはタクシーに乗ってもらうのが先決だろう。
「タクシー拾います。乗ってくださいね」
傍から見たら酔い潰れた女を介抱しているようにも見えるな。
駅を出てすぐにタクシーが数台停まっている。俺が近づこうとすると、喧噪の中でも彼女の声が耳を抜ける。
「あの、もう、いいです」
「えっ、あ、歩けますか?」
「大丈夫、だから」
真面目なトーンだった。立ち止まってみせると、彼女は俺の肩に回していた腕を外して、路地裏に向かってゆっくりと歩き出した。
「ちょ、ちょっと? お姉さん?」
「ありがとうございました。もう結構ですから」
「いやでも……」
俺がどうするべきか狼狽えていると、彼女は近くにあった自動販売機にもたれ掛かった。なんだよ。まだ痛いってことか。それとも俺が居なくなるのを待っているのだろうか。
妙な親切心というべきか、イタズラ心というべきか。俺の心をくすぐって、すぐ近くにあったコンビニに駆け込んだ。缶のコーンスープとホットコーヒーを買う。昔に比べて随分と高くなったと感じるが、今は別にどうでも良かった。それを両手に持って彼女の元に戻る。
「な、なんで戻って……!?」
女性は素直に驚いていた。相変わらず自販機にもたれて、つまずいた右足は地面から浮いている。右手にぷらぷらと折れたヒールを持っているその姿が、なんだか妙に様になっていた。
「そりゃあ戻りますよ。ほら、もうすぐクリスマスじゃないですか」
「はぁ……?」
心底何を言っているのか分かっていない顔だ。分かる、俺も同じだから。
だけど『見捨てられない』とか『放っておけない』って言葉を掛けるのは少し違った。彼女は別にゴミでもなんでもないし、社会を生き抜いているであろう大人だから、放っておけないという言葉で気を悪くする可能性もあると思った。
自販機の明かりで、彼女の顔がよく見える。やはり間違いなく、俺が先週助けた人である。その時と違うのは、涙で化粧が落ちかけていて、両頬には黒い涙の跡が残っていること。それに気づいているのかは知らないけれど、教えてあげた方が良い気がした。
「てなわけでクリスマスプレゼント買ってきましたよ」
ただのコーンスープと缶コーヒーだけど。選べるように差し出したけれど、彼女は俺の方を向こうともしない。コートの袖で両頬を拭いていて、どこか自暴自棄な感じだった。
「飲みませんか? 寒いじゃないですか」
「……別に頼んでいません」
「じゃあ飲んでくださいよ。お願いしますから」
これを『妙な親切心』と考えるのは、少し無理があるかもしれない。彼女の言う通り、存在を無視して一人で帰るのが自然なのではないか。
いいや、多分だけど、酒を飲んでいなくても同じようにしていたかもしれない。彼女に『無責任』と言われたことが引っかかっている以上、こうなることは避けられなかったはずだ。
「ほらほらぁ~選んでくださいよぉ~」
呑気に急かしてみると、彼女は呆れたようにコーンスープを手に取った。暖められていた手のひらが寂しくなる。対照的に、白い息をこぼした彼女の表情がすごく印象的だった。
「この間からなんなの」
缶コーヒーの蓋を開けると、彼女がつぶやく。独り言なのか、問いかけられているのか、呆れているのか、イラついているのか。その感情が読めない声だった。
回答するのであれば、別に何者でもない。偶然、俺の近くで死のうとした人間が、またしても偶然俺の前に姿を現しただけ。知っている人が目の前で倒れたら、そりゃあ手を差し伸べる。
「足、痛みますか?」
「……別に。平気です」
「まあ俺は相変わらず傷心中なんですけどね。ははは!」
虚しく乾いた笑いが響く。女性は目を合わせようともしない。俺の捨て身のボケが一切通用せず、涙が出そうになった。せめてボケとしては使わないと、本当にやり切れない。
缶コーヒーはこの短時間でぬるくなっていた。ブラックじゃなくて微糖にすれば良かったな。なんというか、今は甘い方が良かった。
「飲んだら帰りましょ。タクシー拾うまでは付き合いますから」
缶コーヒーを飲み干して言うと、彼女は食い気味に反論してくる。
「結構です。さっきからお願いしていないのに、なんなんですか」
「クリスマスだからって言ったじゃないですか」
「それが意味分からないって言ってるの」
「意味なんてないですよ。だって酔ってますし」
ハチャメチャな理論である。自分で言っておいてなんだが、まあひどい。
だけどまあ、クリスマスなんてそういうものだろう。なんとなくカップルが仲良くアレコレする日みたいになっているが、その本来の意味を分かっている人の方が少ないに決まっている。
「てか日付変わってるじゃん! てことは今日イブっすよイブ!」
「は、はあ……?」
「お姉さん欲しいもの無いんですか?」
「な、何?」
恥ずかしながら、クリスマスイブということに気づいてしまってテンションが上がってしまった。3軒目までに蓄えに蓄えたアルコールが全身を駆け巡る。どうして自分の口からそんな言葉が出たのかは分からないが、非常に適当な発言であるというのだけは分かった。
でも。彼女の口角が、ほんのわずかに上がったような気がして、少し嬉しくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます