第5話


「で、なんで俺たちは月曜から終電間際まで酒を飲んでいるわけ?」


 その日の夜、俺は桜野に連れられて門前仲町の居酒屋にいた。定時に上がってからずっと飲んでいるから、普通に酔っ払っている。今3軒目です。腕時計に視線を落とすと、もうすぐ日付が変わろうとしている。今日は月曜日、あと4日も仕事がある。ため息しかでない。


「分かってないなー。終電まで待たないと会えないよきっと」

「明日も仕事だぞ? 俺、内勤だから直行とかできないわけ。この辛さわかる?」

「わかんない。細かいことは気にしちゃダメだよ」

「全然細かくないし、桜野は適当すぎるって」


 彼女いわく、目的は一つ。俺が助けた女性に会いたいとのことだった。

 素性も何も知らない人を、この大都会東京で見つけ出そうなんて正直頭が沸騰しているとしか思えない。砂漠でダイヤモンドを見つけるみたいな作業でしかない。


「そもそも、俺は別に会いたいなんて言ってない」

「向こうが会いたがってるよ」

「はぁ? んなわけないだろ」


 桜野は芋焼酎のソーダ割りを水のように飲んでいる。3軒目だというのに顔色一つ変えないなんて化け物か。かと思えば、急に「どうして言い切れるの?」と俺の瞳を覗き込んでくる。取引先に色仕掛けでもやってるんじゃないのかってぐらいあざとい。恥ずかしくなって視線をそらす。


「俺はあの人の覚悟を邪魔したわけ。無責任に生きろとか言っちゃった適当男だぞ」

「だったら責任取れば良いじゃん。わけだし?」

「おまっ……はぁもう良いよ」


 傷口に塩を塗り込んでくる。一周回ってもう痛くない。本当に良い性格をしているな。今から取引先にコイツの悪魔の一面をリークしてやろうか。ちくしょう。


「私が思うに、終電に飛び込もうしたってことはブラック企業の従業員に違いないよ。日々の業務に嫌気が差して、それで」


 さっきまでグラス一杯だったソーダ割りを飲み干した桜野は、勝手にプロファイリングしてみせる。


「うんまあそうかもしれないけどさ。あんまり詮索せんさくしない方が良いと思う」

「どうして?」

「いろんな事情があると思うし」

「……春日君、内勤になって何か大人しくなったね」

「内勤は関係ないだろ」


 俺が薄すぎる芋焼酎の水割りに口づけると、桜野は「いいやある!」と俺の発言を真っ向から否定した。


「営業の時はもっとガツガツいってたじゃん!」

「仕事の時はだろ。プライベートは変わってないって」

「元カノナンパしたくせに?」

「それはまあ……その場のノリだろ」

「なら今日もノリだね! はい、私の言い分が正しい!」


 桜野はその高いコミュ力に加えて、頭の回転も早い。俺が言った言葉に対して屁理屈でも言い返してくる。これを繰り返されると、さすがに俺も疲れる。盛大にため息をついて、グラスに残った水割りを一気に飲み干した。全然焼酎の味がしない。


「てかなんでそんな元気なわけ? 俺もう帰りたい」

「うん帰ろー。そろそろ終電だし、東西線へレッツゴーだね。あ、私奢るから良いよ」

の間違いだろ。1軒目と2軒目は俺が奢ったからな」

「そういうの、言わない方がモテるよ」

「本当うるさいな?」


 コイツと付き合うヤツは一体どんな精神耐久力をしているのだろうか。美人だからって手を出したら絶対後悔するタイプだな、これは。


「今バカにしたね? 分かるよ?」

「何言ってんだよ」


 会計していた桜野が、いきなり振り返ってきた。視線が痛い。エスパーかよ。

 奢ってくれた礼を言って店を出る。今日は雪が降りそうだと天気予報で言っていたが、そうとは思えないほど比較的暖かい夜だった。


「アラサー二人、クリスマス前になにやってるんだろうね」

「やっと気づいた?」

「まあ良いじゃん。こういうとしがあってもさ」


 明日はクリスマスイブだが、桜野は予定ないのだろうか。別に誘うとかではないけど、妙に言葉に力がないのが気になった。多分深い意味はないんだろうけど、そういう思わせぶりな一面は男を狂わせる。


「帰ろう。明日も仕事だしさ」

「その前に案内してよね。昨日の場所まで」

「はいはい分かったから」


 どうせ居ないに決まっている。さっさとホームまで行って解散しよう。

 でも桜野の家は確か……逆方面じゃなかったか? かすかに見えた希望に、思わず頬が緩んでしまう。


「あ、今日は実家西船橋に帰るから問題ないよん」

「くそたれ!」


 コイツはことごとく俺の希望を打ち砕いてくる。そういうことも全て織り込み済みなわけか。やっぱり優秀だな。呆れるほどに。

 改札を通ってホームに向かう。見慣れた景色だというのに、妙に浮ついてしまう。きっと一人だったらこうはならないだろう。


「この間はどの辺りで待ってたの?」

「えっと……確かこの辺だったかな……」


 そう言いながら全然違う場所を指さすと、桜野は目を細めて俺の瞳をえぐってくる。


「な、なんだよ」

「この期に及んで見苦しいね。ま、スマホ見れば分かるかなー」

「わ、分かったから! やめてくれ!」


 コイツのことだ。きっと大音量で流すに違いない。それだけは絶対に避けなければならない。大人しく従うしかないのか……。

 あの日は確か、かなり酔っ払っていたから人混みを避けるように一番端の乗り場で待っていた。てか乗り場なんて俺は適当に選ぶタイプだし、それはこの間の女性にとっても同じじゃないか。全く同じ場所に立つなんてするだろうか。


「――いない」


 間違いない。俺が待っていた隣の乗り場には、いまサラリーマンが2人だけ立っている。あの時のような、虚ろで悲しい雰囲気はそこになかった。


「そっかー」

「……リアクションそれだけ?」

「それ以外言いようがないよ」

「散々振り回しやがって。一応、俺は傷心なんだぞ?」

「あはは分かってるよー。だから酒で流してあげようとしたんじゃん!」

「話の論点をすり替えるな」


 桜野はニヤニヤと笑いながら俺の隣に並ぶ。結果的に先週と同じ乗り場で待つことになったわけだが、隣の乗り場には相変わらず顔を赤らめたサラリーマンしかいない。平日の頭から本当お疲れ様です。


「でも残念だなぁ。あの動画じゃあ女性の顔まで分からなかったし」

「実際、俺も酔ってたから覚えてないわ」

「のっぺらぼうだったら面白いよね」

「あのな……もういいわ。ほら、電車来るぞ」


 なんだかんだで彼女も疲労感があるようで、さっきから会話が適当になっている。長々と話すような話題でもないと考えていたら、ちょうど終電を知らせるアナウンスが鳴り響いた。


「はぁー明日も仕事かぁ。早く帰って寝れば良かったなぁ」

「もう一生一緒に飲み行ってやらないからな」

「えへへ嘘だよぉ。ねてやんのぉ」

「酔ってるな。終点まで寝てろよ」

「じゃあ西船橋にしふなで飲もうよ」

「アホか。ほらこっち来い」


 電車とともに錆びた風が吹き付ける。最初の頃は都会の匂いって感じがして新鮮だったけど、今は無機質すぎて少しだけ悲しい気分になる。

 ホームドアが開き、続けて電車の扉が開く。先週と同じように数人が降りてくるが、あの時みたいな視線は感じない。乗客が降り終わったことを確認して、俺は桜野と一緒に電車に乗り込んだ。空いている席に彼女を座らせて、俺はつり革に掴まる。ほんの数駅だから酔っているとはいえ、これぐらいは余裕である。

 出発を知らせるアナウンス。機械音が鳴り響く中で、俺の視線は先ほどまで立っていたホームにある。


 明日からまた、憂鬱な現実に引き戻される。逃げるためにも、少しだけ瞼を閉じようか――なんて。


 そんな俺の思考は、一気に覚醒していく。ドアが閉まりゆく中で、視界に入る黒い影。地面を蹴るハイヒールの音が俺の耳まで届き、長い髪を揺らして電車に向かって走ってくる。そしてその人は――ドアの寸前で地面に倒れ込んだ。


 俺は、俺は――。

 気がついたら、彼女の前に立っていた。もう終電はない。

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