第22話 ひき逃げ
原杉博は入院している<原杉総合病院>の特別室のベッドの上でイライラしていた。
津田が顧問弁護士のくせにさっぱり示談成立の報告をしに来ない。それどころか法に触れるような真似をして警察からも弁護士協会からも睨まれてしまった。
父親の代からの顧問弁護士だが見切り時だと感じている。
指定した時間より大分遅れて津田弁護士が姿を現した。
「何か? 示談の件なら交渉中ですが……」開口一番津田はそう言った。
博はその言い方も気に入らなかった。 ――親父と懇意にしてるかと思って常に上から目線の物言い、俺を蔑ろにしやがって……
だからついついこっちも偉そぶって言いたくなる。
「あんた、ドアチェーンを切ろうとしたそうじゃないか?」
「ははっ、ちょっと脅しかけないと交渉にも応じてくれないんで、本気で切ろうなんて思っちゃいませんよ」
津田はしらじらしく笑って余裕のある所を見せるつもりなのだろう。
「相手は警察へも弁護士協会へも通報したらしいじゃないか、……俺の判断が間違っていたようだ。あんたにこの件、任せられない」博は努めて事務的に言った。
「へー、院長が直接交渉しようってんですか? ははは、無理ですよ。法律関係だってあるんです。わたしに任せてくれたらきっとお望みの結果をお持ちしますよ」
津田はソファで足を組んで踏ん反り返えり笑みを浮かべる。
博はじっとその姿を眺めていた。 ――虚勢もここまでくると哀れなもんだ……
そして、「いや、もう決めた。あんたを解任する。これは親父も了解済みのことだ。顧問弁護士契約も今月一杯の期限満了をもって終了する」
博は契約解除の通知書を津田の前にサラリと置いた。
津田はそれを手に取り、顔色を失い震えた。初めて博の本気度を理解したのだろう。
肩を揺らして「こんな仕打ちってあるのか……」博を睨みつけ博の胸に通知書を叩きつけ「覚えてろよ!」
捨て台詞を吐いて出ていった。
博はすぐに父親に言われていた弁護士事務所に結果を報告した。
入れ替わりのように鹿内がノックもせずに入って来た。
「おいおい、ノックぐらいしてくれ」博が冗談っぽく言う。
「あら、それは失礼。話があって来たんだけど……津田さん顔色変えて飛び出して行ったようだけどお話は終わったのかしら?」鹿内は軽く言ってソファに腰を下ろす。
博はそれに返事もせず、「休みでも欲しいのか?」
「ふふっ、良くわかったわね」鹿内が意味不明の笑みを浮かべて足を組むと、白衣の裾が割れて年の割には短めのスカートから昔は細くて奇麗だった脚を晒して言った。
「休み無しできてるからな、お前も。俺もだけどよ。で、一週間くらいか?」
博は痛む腹を押さえながらゆっくりと対座し、軽い気持ちで訊いたが、返事は思いも寄らぬものだった。
「えぇ、永久にね」
「はっ、永久って、寿退職ってか?」鹿内の本心が見えず、冗談で返した。
鹿内はタバコを取り出し天井に向けてふーっと煙を吐き出して、
「もう、うんざりなのよっ! 辞めさせてもらうわ」真面目な顔をして言った。
「冗談言うなよ。これまでお互いに協力してやって来たんじゃないか。何があったって言うんだ」
まだ鹿内の言う意味が良くわからなかった。
「何が『お互いに』よ、あんたが犯した女の後始末をどれだけさせられて来たかわかってんの、変態!」
「その分金を払ったじゃないか、それで文句はないはずだ」
「ばか言わないでよ。私も女よ、女の気持ちのわからないあんたには言ってもしょうがないけど、私も苦しかったのよ。それに、私には将来がある。先の見えたこんな病院にしがみついてもしょうがない。だから、レイプの証拠と彼女達の証言は録画してきっちりと保管してるし、あんたのやばい暴力団との癒着を示す証拠も沢山持ってるのよ、ダメだと言うならそれを警察へ出すわよ。そしたらどうなるのかしらねぇ、楽しみだわ。ふふっ」
鹿内がテーブルに写真をバラバラっと撒いた。
博のやった犯罪の証拠の数々だった。
博には信じられなかった。 ――まさか鹿内が俺に黙ってそんなことをしているなんて、……。
自分の言いなりになる女だと思ってた。
「お前って奴は……俺を裏切るのか!」
「ふん、五千万円。退職金に上乗せでね。それで証拠は隠滅してあげる」
鹿内は灰皿に寝かせたタバコをくゆらせたまま部屋を出ていった。
博はスマホを手にして呟いた。「野郎、ただで済むなんて思うなよ」
そして「おう、俺だ、頼みがある……」
*
小百合は入院中も退院してからも津田の影を感じなくなっていた。
顧問弁護士を解任されたことも聞いて、もう大丈夫だろうと思ったし、小川もそう言っていた。
帰りも時間が合えば一緒に帰ることもあったが、忙しい時などは一人で帰ることも。
ただ、ここ数日背後に人影を感じることがあった。
振返っても、立ち止まってしばらく様子を見ていても誰もいなかった。
家で夕食を取りながらテレビを観ていると「早瀬明さんを殺害したとして阿部賢(あべ・けん)三十三歳が自首したと警察の発表がありました。……」
突然の報道に驚いて小川に電話しようと思ったところへ電話が来た。
「理由はわからないが、<高井良龍商会>の組員のようだ。警察も発表はしたけど自白を信じちゃいないようだよ」
いきなり小川が言った。
「そう、一ノ瀬刑事が前に、暴力団ならトリックなんか使わないって言ってたから変だと思ってた」
「一ノ瀬が、何か背後にあって、それを隠すために敢えて組員に自首させたんじゃないかと」
「えぇ、私もそう思うわ。でも、驚いちゃった」
「ところで、身の回りに変わったことは無いか? あの弁護士は?」
「えぇ、あれっきりよ。……でも、……」
小百合は言って良いものか迷った。言えば、また小川を巻込んでしまう……。
「……『でも』どうしたんだ?」と、小川。
「ううん、何でもない」小百合は言う決断ができずに曖昧に答えた。
「『何でもない』じゃないだろ。何を言いかけたんだ? 気になるじゃないか、中途半端にさ」
「ごめん。……また迷惑かけちゃうかなと思って」
正直な気持ちを吐露した。
「ばか、そんな遠慮して、お前に何かあったら俺はどうすればいいのよ 一生後悔しなってか?」
そんなに荒い言い方をされた訳じゃいけど、小川の怒る気持ちが小百合には手に取るようにわかった。
「わかったから、そんな、怒らないでよ」
「おう、じゃ、何?」
「ここ二日くらい帰り道尾行されてるような気がしてて、でも、誰もいなかったから気のせいかもなの」
「そうか、いや、明日からまた一緒に帰ろう」
「うん、ごめんね」
ちょっとホッとした気持が小百合の心に隙を作ってしまった。
電話の後コンビニへ夜食を買いに出たのだった。店までは二、三百メートルほどだし、一旦帰って来たから尾行者がいたとしても、もう帰っただろうと判断してしまった。
そして、その帰り道だった。
コツコツと足音が後ろから聞こえた。
驚いて振り返っても人の姿は見えない。
怖くなって走る。
車道を渡ってしまえば家だ。辺りに人はいない。 ――大丈夫だ。もうすぐ着く……
横断しようとして左から車が近付いてくるのに気付き立ち止まった。
歩道の端に立っていると、いきなり車のライトが小百合を正面に捉え近付く。
えっ? 慌てて下がる。
が、なおも小百合を正面に置くようにしてエンジン音が高まる。
あっという間に車が縁石でジャンプしそのまま小百合目掛けて突っ込んでくる。
身体が動かなかった。「きゃーっ!」
いきなり腕を誰かに掴まれ強引に引っ張られ、ごろごろと転がった。
直後、ガシャーン!
轟音が響いて車が電柱に激突した瞬間が目に飛び込んできた。
フロントガラスを突き破って人が飛んだ。
車道に落ちたところを走って来たトラックに撥ねられた。
ギィィードンッ!
急ブレーキの音に衝突音が混じる。一瞬の出来事だった。
「大丈夫か?」
小百合は誰かに抱き起された。
「はい、ありがと……」礼を言おうとして相手の顔を見て驚いた。
「あ、佐々木さん、どうしてこんなところに?」
「え、ああ、それより白湯さん怪我は?」
「え、あ、大丈夫みたいです。ありがとう」小百合は自分の手足や身体を確認したが大きなけがは無かった。
「どうして?」
「ちょっと、白湯さんに相談があったんだけど、どうしようか迷って何日か尾けてたんです」
佐々木は済まなさそうな顔をして言った。
「え、そうなの、じゃ、あの足音は佐々木さんだったの?」小百合の心に驚きと安堵とが混在した。
「あ、聞こえちゃってました? すみません。怖がらせる積りは無くって、相談が、……」
佐々木が言いかけた時、警察官がきて、事情を訊かれた。
警官は、小百合が自分を目掛けて車が突っ込んできて佐々木に助けられた話をすると、興味深そうな顔を見せる。
数時間も事情を訊かれたうえ、「明日、午後一時に署の方へ来てください」
翌朝、SNSに<H総合病院の元顧問弁護士T氏が女性を轢き殺そうとして事故死!>と銘打って詳細が投稿された。そこには<H院長も関与か?>と小見出しもあって、小百合が出勤したときには報道関係者が<原杉総合病院>に殺到する騒ぎとなっていた。
小百合は課長に事情を話して午前中だけ仕事をして、昼に早退し警察署へ向かった。
取調室のような感じの狭い部屋で事故の話を訊かれ、小百合は一ノ瀬刑事の名前を出し、原杉院長とのトラブルから始まった一連の事件を話した。
死亡したのが、津田公広六十五歳と聞いて驚いた。
「じゃ、脅してもダメだから殺そうとしたってことなのね」小百合は呟いて警官を驚かせた。
その後は一ノ瀬刑事が担当してくれて話は早く済んだ。
――佐々木くんの話ってなんだろう? さくらと何かあったのかな? ……
小百合はそっちが心配だった。
夕方まで佐々木の相談事が気になって仕方が無かった。
小川も一緒にファミレスで待ち合せた。
小百合は佐々木の顔を見て真っ先に先日のお礼を言って、佐々木の照れ笑いを誘った。
少しの間その話をしてから、「さくらはどう?」と小川が訊いた。
「ああ、時々辛そうな顔をすることはあるけど、ずっとそばにいるから……」と、もじもじして言う佐々木。
「で、旭川へは何時行くの?」
「あぁ、もう下見には一緒に行って今は荷造りしてるんだ。再来週を予定してるんだけど、ちょっと問題が……」
佐々木は困ったような、恥ずかしさを誤魔化す様な微妙な顔をする。
「おい、何でも協力するから言えよ」小川が押す。
「うん、実は、さくらが、……妊娠したみたいで」
「えっ、まさか院長の?」小百合がは驚いて言ってしまってから、慌てて口を押えた。
佐々木はびっくりしたように目を見開いた後、「ははは、そうじゃないよ」と、照れ笑い。
「え、それじゃ、お前の?」と、小川。
佐々木が肯いたのを見て、「おめでとう。そんな良い話で言いずらそうにしてるから、もう、心配して損したわ」
小百合は心から祝いたかったし、さくらに会って直接「おめでとう」を言いたいと思った。
「でも、彼女、良く、その……あれができたな」小川がデリカシーを欠く質問をしてしまう。
すかさず小百合は口を尖らせて、「小川さん、そんなこと訊くもんじゃないわよ。いやらしい!」
「まぁまぁ、お二人さんとも仲良くしてくれ。俺たちの恩人なんだから」
「で、何か月? どっち?」小百合が訊いた。
「三カ月、まだどっちかはわかんないし、訊かない積りなんだ」と、佐々木。
その顔には幸せが満ち溢れている。
「じゃ、引越で無理させんなよ。俺達が手伝いに行くし、なぁ白湯」
「えぇ、もちろん、妊婦さんには無理させられないからね。私がその分頑張る。向こうまでついて行ってあげるわ」小百合が言うと、「ほんと、行ってくれると助かる。それを頼みたかったんだ。でも、本当に頼んで良いの?」佐々木はほっとした顔をして言った。
「えぇ、もちろん。小川さんも当然行くわよね。妊婦さんに負担かけられないもの」
三人の中に笑顔が溢れ、ビールで乾杯もし気分よく別れた。
「羨ましいなぁ」小川と二人になって小百合が呟く。
小川は何か言いたそうに口を開いたが、……
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