わかれよ
家についてからも、頭の中の浅い部分でずっと実体のない感情が漂っていた。
なんなんだろう。見たいのに見ないほうがいいような、そんなことを前頭葉が語り掛けているような気がする。
「おかえりー」
間延びした妹からの言葉にも、んー、と軽く返答だけ残して部屋に戻る。
ママが私の不在中整えてくれていたらしきベッドに、ボスッと飛び込んだ。
漫画やドラマの世界でよく見るあのうつ伏せ寝は、実際苦しくてそう長く状態を維持できないことに、小学校の頃学校で怒られて帰り、ふて寝した時に気が付いた。
そんなしょうもない思い出が沸き上がると同時に、今日の大雅さんの落ち込んだ表情を思い出す。
まじかー、その声だけがやけに三半規管に居残りしている。
いや、好きだというあの弱弱しく自信のなさそうな声をただかき消そうとしているだけなのかもしれない。
なんだか妙に可哀想になった。
「愛彩、ご飯だよ」
「うん」
いつの間にか寝落ちしてしまっていた。ぼんやりとした視界に、まだ見慣れないシルエットが飛び込む。
眼鏡をサイドテーブルから取り、広いベッドから降りて柔らかい光の差し込むリビングに、つられた虫のごとく歩いていった。
「ごめん、めっちゃ寝ちゃってた。作ってくれたの?」
「いいよ。疲れてたんだろうと思って今日は俺が作った」
「やーさーしーいー」
嘘をつくのが得意な私だが、寝起きは自分の感情を騙すことすら難しいほどに弱体化する。
彼の優しさを心の奥まで享受し、ソファの正面に置かれたローテーブルへとよそわれたご飯を運ぶ。お茶碗がお揃いになったのは、まだここ最近の話だ。
「そうだよ、俺優しいんだよ。今度はあーちゃんが俺の好物作ってな」
「うんうん、ありがとう本当に。任せて」
眠気は頻出する欠伸とともに、少しずつ薄れていった。
珍しいな、とふと思う。
普段通りなら私が寝落ちしたら作らずそのまま、起きた私の手を引いてスーパーで出来合いのものを購入して、帰って食べるだけなのに。
そんな生活が当たり前になっていた最近に、飽き飽きしてきていたのに。
「水は?」
「ううん。昨日買ったお茶まだあるからいい」
「まだ飲み終わってないんか」
「悪いですかー」
被害妄想だわ、という彼の言葉を聞き流しながらテレビの電源を入れる。
夜の世界を謳歌して、蝶の如くふわふわと生きていた私は、彼に羽を掴まれた。
「暇なら飲みに行こ」
ナンパだったような気がする。その時の記憶は、アルコールに支配されていたため、殆どない。
普段ならついていかないような誘い文句でさえ、なぜかあの時は縋れる何かに見えて、頷いた。
そうして収集のつかない飲み方をした半年前が懐かしく脳裏に焼き付いている。
昨日は本当にごめんなさい、から始まったメッセージのやり取りは、いつしか頻繁な回数の電話に昇華し、自然とお互いが惹かれあっていった。
告白は、お互いの実家帰省が終わった翌日に、彼から伝えられた。
もちろん拒否する理由もなく、すんなりと交際に発展した。懐かしい。
もうあれから半年以上が経つのか。
「私の好きなとこ五個教えてよ」
「また?うーん」
「いいじゃん、最後聞いたの一か月以上前だよ」
「一か月前に言った分で満足してくれなかったのかあ」
「そうじゃないけどさー、お願い、ね?」
「今日はパス。前言ったんだから。てかそんなに頻繁に俺が愛情表現しないことわかってるだろ」
「えー」
好きなところを教えて、という質問は最近になっての私の口癖だ。
好きって言ってほしい。かわいい?ねえ髪の毛切ってみたの。メイクいつもと違うんだけどどうかな?ネイル変えたんだ。
ねえ、気づいてる?
いつからか私のことを褒めなくなった彼に、好きなところを求めるようになった。これが女の子の常だと思う。
「わかれよ」
不意に口をついて出た言葉は、お手洗いに席を立った彼には届かず、宙に散って消えた。消えなければいいのに。
匂いが漂って、白く煙みたいに残ればいいのに。
わかれよ、頭で反芻して、どっちなんだろうと考える。
別れたいのか、わかってほしいのか。
どっちでもいいや。何でもないこんなこと。
子供みたいじゃん、脳内に浮かんだわがままな高校生の頃の恋愛と自分の姿と一緒に、心の中で嘲った。
慣れない彼なりの手料理は、あんまりおいしくなかった。
可愛いな、と思えない私が一番可愛くないのかもしれない。
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