第22話 世に真の光明を!

 カスティリナが動く。

 たん、たん、たんっと三歩。それでセクリートを奪い返すつもりだった。

 だがさっき靴についた血がまだ乾いていなかった。三歩めで滑る。転んで石の床でほおぼねを打った。

 滑ったのは右足だったので左足で跳ね上がり、腕をぐ。

 空振りだ。だが、その振った腕の上を同じように滑っていったものがある。

 刀だ。セクリートを引っ立てていた男が、カスティリナが起きたところを撃とうと刀を大振りしたらしい。

 カスティリナは身を翻すと左腕を男の体とセクリートの背中のあいだに滑りこませた。

 着ている乗馬服の袖がめくれ、少年の初々しい肌がカスティリナの腕を滑る。

 その肌が滑らかでするっとしている。なんだか腹が立って少年の体を左腕でそのまま投げた。

 「おー」

 倒れる声まで間が抜けている。

 カスティリナのすぐ左に名も素姓も知らないあの内気な少女がいる。

 感じる。

 今度は「紅の水晶」を抜くのをためらうつもりはなかった。

 だが、少女はすっと離れて行った。そう感じた。

 その少女の動きの反対側に突き飛ばされたようにカスティリナの体が動いた。

 前を何か白いものが繰り返しひるがえる。

 それが何か、気にしている余裕はない。

 体が壁に強くぶつかる。大男十人分の力で投げ出されたようだ。

 だが自分で走ったに違いないのだ。

 目の前には男の顔があった。

 宿に来た男だ。そうに違いない。

 しかし人の顔がこうまで変わるものか。

 さっきまで落ち着き、冷ややかに人を見下すように見ていたこの男は、いまは血走った目をき、口を横にいっぱいに開き、幅の広い片刃かたばとうを両手で中途半端に振り上げ、肩で息をしていた。

 そうか。

 いま走ったのでこの男の振り回す刃から逃れられたのだ。

 しかも、目の前にこの男の振り回す片刃刀の白いひらめきが見えていたということは、後ろ向きに走ったらしい。

 そんなことが自分にできるといままで思っていなかった。

 賊はその男の後ろでカスティリナを遠巻きにしている。近づいてこない。

 カスティリナが怖いのではない。

 カスティリナを追ってやたらと刀を振り回していたこの男が怖いのだ。

 カスティリナは壁際に追いつめられている。男はあと刀を一振りすればカスティリナを仕留められる。

 ところが男は刀を止めたまま動かさない。

 向こうの壁にあの内気な少女がいた。うつむき加減でカスティリナを見て、すっと天井を見上げ、それきり影があいまいになって消えた。

 いや、それはすすと苔とかびが作った壁の汚れに灯明の揺らぎが揺れてそれらしく見えただけだ。

 幻にもならない幻、見間違いだ。この少女がカスティリナに姿を見せたことは一度もない。

 カスティリナはとっさにわき祭壇さいだんの横に駆けこんだ。灯明とうみょうの明かりが届かなくなり、賊どもはカスティリナを見失う。

 賊どもはカスティリナが逃げたと思ったのだろう。

 床に倒れているセクリート少年に目を戻した。

 セクリート少年は体を動かしている。だがまったくむだだった。逃げられもしないし、縛ってある縄がほどけもしない。

 宿を訪ねてきた男といっしょにここに戻って来たうちの一人が進み出て、セクリートのほうに顎をしゃくって言った。

 「そいつを先に始末……」

 いや、言おうとした。途中で声が止まる。

 「女はどこだ」

 宿を訪ねてきた男が声を立てた。

 いままでの声とは違う。

 憔悴しょうすいしたというのがぴったりだろう。濁った声だ。

 「えっ? 女はどこだ?」

 その仲間の男も含めてびくっとする。びくっとして、脇祭壇の横や主祭壇の後ろを捜す。見回す。

 セクリートに手を出すどころではない。

 宿を訪ねてきた男は身を震わせていた。中途半端に振り上げていた刀をいま肩の上まで振り上げる。握る手に力をこめている。

 「そこだ!」

 手下の一人が叫んで、指さす。

 指さしたのは、壁の上のほうだった。

 いまにも切れそうな煤けた縄を伝って、カスティリナはそこまで上っていたのだ。

 「上から屋根へ逃げる気か!」

 宿を訪ねてきた男がいまいましそうに言う。

 「いしゆみを持て。弩を。弩を」

 男が震える声で命じた。

 賊どもが散発的に弩をカスティリナのほうに向けて放ちはじめた。

 だまが飛んできた。

 カスティリナは気にしないことにした。手軽に持ち運べる小型の弩で上向きに撃ってもそうかんたんに当たるものではない。

 どちらにしても逃げようはない。それよりも早くはりに取りついてしまうことだ。

 小指の横できゅんと音がし、梁の石の表面が弾けた。あっと目をつぶって手を振る。

 その手が縄に触れた。

 ほかの縄とは手触りが違っている。冷たい。

 縄に見えても細いはがねの針金を束ねたものだ。

 これだ。

 弩のたまはあいかわらず飛んできて、カスティリナの周囲で乾いた音を立てている。

 カスティリナはつかんだ縄に左手を預け、両脚を梁に立てて体を斜めにし、下を見下ろした。

 足許にはシュロという幻獣の像の首がある。

 その幻獣像の口が縄の先端をくわえていた。

 ここまで人の背丈の五倍ほどの高さがある。

 これならば、兵士か傭兵か鳥打ちの名人でもないかぎり、下から狙ってカスティリナの体に弩の矢を当てることはできまい。

 やはりあの宿を訪ねてきて女主人を脅していた男の顔がいちばん目立つ。

 若いと思っていたが、意外と歳は取っているように見えた。カスティリナを下から見上げている。

 若い娘をほとんど真下から見上げるなんて。

 カスティリナは声を張り上げた。

 「世に真の光明こうみょうを! あふれんばかりのまばゆき光を!」

 声が壁から壁へと響きわたる。

 自分の声は、こんなに通りのよい、強い声だったか。

 カスティリナは壁を蹴り、自分の左手を支えていた鋼の縄をその両脚で蹴った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る