十分先の未来

やがみこうたろう

十分先の未来

「十分後、あなたは私にキスをします」

 放課後の空き教室、小悪魔のような笑み。彼女の美花は得意そうに僕に言った。

「急になんだよ、未来予知か?」

 懐疑的な眼差しを向ける僕。突然キスだなんだと言われても、気分だとか、雰囲気だとか、そういうものって大切だと思わないか?

「そうよ。私にはわかるの」

 彼女が、髪を耳にかきあげる仕草。その瞬間、ふんわりと柔らかくていい匂いがする。

「嘘だね。確かに、君は僕には似合わないぐらい美人だ。だけど僕だってそう簡単に口付けを許すような安い男じゃない。君のいうことが嘘だって証明してやるさ」

 彼女はますますいい気になって、不敵な笑みを浮かべながら僕に宣誓した。

「いいじゃない、受けてたつわ。あなたが私にキスをしたら私の勝ちで、キスしなかったらあなたの勝ちね。負けた方には……そうね、ジュースでも買ってもらおうかしら」

「君の方が随分不利だと思うけど?」

 挑発気味に僕が言う。勝負に夢中になっている彼女の姿も子供のようで可愛い。

「あら、そうかしら。何せ私には未来予知が使えるのよ。あなたが考えてることも、これから何をするのかも、全部わかっちゃうのよ」

「それは恐ろしい能力だね。その力を使って、明日の天気でも教えて欲しいな」

「明日の天気? そんなの天気予報を見ればいいじゃない」

 予想に反して現実的な回答だ。確かにそうなのだが、僕が言いたいのはそういうことじゃなくてだな……まあいいか。

「それに、明日の天気のことなんか知らないわ。私が知ってるのはあなたのことだけ。あなたに関することならなーんでもわかるわ。だって私はあなたの彼女だもの。もう三年になるわ。三年も付き合ってたら、あなたが考えることぐらい私には全部お見通しなの」

 上機嫌に彼女が言う。初めて出会った時は、二人とももっと奥手で、ぎこちなくて、冗談なんて言い合える仲じゃなかったのに。月日がこんなにも人を変えてしまうんだな。

「さて、じゃあ何から当ててあげよっか?」

 自信満々で彼女が言う。

「じゃあ手始めに、僕が一番好きな食べ物は」

「ホワイトソースのグラタン。常識よ」

「嫌いな乗り物は」

「コーヒーカップ。目が回るから」

「子供の頃熱中していたものは」

「恐竜の折り紙を折ることね。その頃から手先が器用だったのよね」

 軽々と僕についての質問に答えていく彼女。

「そんな簡単な質問ばかりじゃつまんないわ、もっと当て甲斐のある質問にして」

 頬杖をついて退屈そうにする彼女。艶を帯びた唇を尖らせる。

「わかったよ。じゃあ僕が明日行く場所は?」

「駅前のカフェね。そこで勉強することになってるから。私と」

 なぜか僕を責めるような視線。もちろん勉強の予定を忘れてなどいない。

「ああ、そういえばそうだった。これは簡単だったね。それじゃあ、今日夜寝る前にすることは?」

「それって、女の子に言わせること?」

「誤解を招くような言い方をするな!」

「冗談よ。読書ね。ちなみに本の題名は『ロビンソン・クルーソー』」

「なんで知ってるんだよ? それは今日借りた本なのに」

「ふふん。だから言ったでしょ。なんでもお見通しだって」

 教室には僕たち二人だけだ。穏やかな時間が流れている。窓の外はゆっくりと夕暮れのオレンジに染まっている。いつも通りの放課後。こんな何気ない日常が、いつまでも続いていてほしい。なんとなくそう思う。

「どうしたの? ぼうっとした顔して。じゃあ逆に、私が当ててあげる、今の君の気持ち。あなたは今、私とキスをしたいと思っています」

「いや、それを認めたら僕の負けじゃないか! だいいち、僕はそんなこと考えていないって、最初にそう言ったはずだ」

「おかしいわね、でも本当はあなたはしたいはずよ、キスが、すっごく、とっても! だって予言通り、君はもうすぐキスをすることになってるから」

 無茶言うな。そんな簡単に人の感情を変えられたら困る。

「いいや、僕は断じて、絶対に、そんなこと思わないぞ。だってそういう勝負じゃないか」

 彼女はしょんぼりとした顔をする。まるでおもちゃで遊んでもらえなかった子犬のようだ。

「ともかく、君は僕の考えてることを当てられなかった。この勝負、僕のものだね」

 彼女は膨れ面をして、僕に言った。

「わかりました、負けを認めます。あなたは私にキスしたくないのね」

 さっきまでの威勢はどこへ行ったのか。それに、先程までの彼女とは裏腹に、どこか寂しそうな表情。こんな顔を見るのは久しぶりだ。彼女は俯き加減で、いつもの明るい喋り方とは違う、少し憂いを含んだ言い方で話し始めた。

「そう。本当は私、あなたのこと何にも知らないの。ずっと一緒にいたから、好きな食べ物とか、趣味とか、大体のことはわかる。でも、いつも一緒にいるのに、横にいるあなたが、今どんなこと考えてるんだろうって、そればっかり悩んじゃうの。一緒にいてつまらないと思われてたらどうしよう、とか、本当は、無理して私に合わせてくれてるのかな、とか、いろんなことが頭の中をぐるぐる回って、ときどき……」

 何か言いかけて、口をつぐむ。彼女は僕の方から目を逸らして、窓の外の、夕闇が迫る空を眺めた。遠くの山の向こうで、太陽が一日で一番赤く見える時間だ。

「今だって……必死にあなたが何を考えてるか考えてるわ。でも結局、人の心ってわからない。どれだけ頑張っても、あなたの心の中までは覗けない。どんなに親しくなっても、どんなに一緒にいても」

 僕は彼女と一緒にいて、退屈したことなど一度もない。無理をして付き合っていた記憶もない。むしろ、毎日が夢のように楽しくて、幸せだと思っている。でも、それを彼女にどうすれば伝わるのだろう? 一心同体という言葉がある。でも、人の心はそんなに簡単なものじゃない。いつも一緒にいる人の気持ちすら、実際は何もわかっていないのだ。彼女がこんな気持ちでいたことも。僕は知らなかった。

「ねえ、あなたは私のこと、好き?」

「ああ、大好きだよ。当たり前じゃないか」

「本当に?」

「本当だ。保証する」

「本当に好き? 本当に好きなら、それを証明して見せて」

「じゃあ神に誓って言うよ」

「でも、あなたは私の最初の言葉を信じてくれなかった。だから、言葉だけじゃ信じられない。本当に好きなら、好きって私にわかるようにして」

 僕は彼女にキスをした。

「……ふふ。ね、言ったでしょ。私の言った通りになるって」

 赤面しながら彼女は言う。目を背け、赤くなった耳を撫でながら笑みをこぼす。夕日はもう一欠片ほどしか残っていない。教室にはいつの間にか影がさし、一日が終わろうとしている。

「帰ろっか。もちろんジュースもお願いね?」

 空っぽの教室を出る二人の足音が響いていた。


(完)

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