第2章 新しい一夜(ひとよ)


     1


 あまりにそっくりすぎてすぐにわかった。

 陣内千尋の生き映しだ。

 名前は確か、

「鬼立、さんですね」

 年下なので呼び捨てでもよかったが初対面なので一応。

 大学の図書館。

 17時。

 春。

「なんですか」鬼立が分厚い本から眼を上げた。

「あの、法学部ですよね? 俺もそうで」

「はあ」

 嘘だとバレたか。

「て、すいません。ちょっと声を掛けたかっただけです」

「僕に用なら出ますが」

 ここは図書館だと言いたいらしい。

 図書館から出て桜並木。といってもとっくに散っていて葉っぱになっているが。

「ご用件は」

「警察官希望だとお聞きしたので」

「あなたもそうなんですか?」鬼立の顔がぱっと明るくなった。「僕は警察庁を目指していまして」

 キャリアか。

 現場に来てくれた方が助かるんだが。

「俺はそんなにデキがよくないので、国家公務員は無理そうですね」

「一緒に頑張りましょう」

 そう真っ直ぐな眼線で見つめられると困るんだが。

「あ、すみません。はじめての人に」

 名前。

 言おうかと思ってやめた。

 連絡先の交換もしなかった。

 同じ学部なら講義で一緒になるからまた会えるだろうと高を括らせた。

 鬼立との出会いはそれだけ。

 そこから10年。

 まさか再会できると思わなかった。

 陣内千尋もたまには気が利く。

 俺の前に吊るしたニンジンでしかないとしても。

 少しはやる気になった。















      2


 K美術館の学芸員。今回の燕薊幽の展示を主催した人物その人。

 那賀川ナカガワ静海せかい

 年齢32歳。身長168センチ。黒縁眼鏡の神経質な印象の男。

「私ではありません」

 彼は犯行を否認した。

 彼の自宅を調べたが、燕薊幽の人形は発見されなかった。

 しかし、彼が燕薊幽の熱烈なファンであることは、部屋を訪れれば一目瞭然だった。

 燕薊幽が過去に展示した作品のポストカード。展覧会の図録。撮影可能な作品の写真。それらを隠すことなく部屋のあちこちに飾ってあった。

「怪しまれるから普通隠すでしょう? 私はやっていないんです。だから隠す必要もない」

 なるほど確かにそうだ。

 警察署取調室。

 11時。

「どうなんだ? お前が言ったから連れてきたのに」鬼立が言う。

「学芸員はK美術館以外にもいるだろ?」

 H美術館。

 L美術館。

 S美術館。

 それぞれ学芸員を連れてきた。

 内二人が女性だった。

 彼らにはアリバイがあった。それぞれ昨日の夜、家族や恋人と一緒にいたという証拠があった。

 那賀川にだけ、アリバイがなかった。

「やっぱり那賀川なのか」鬼立が言う。

「ちょっと話させろ」

 取調室の中に入った。

 那賀川が顔を上げた。

「陣内という。ワケあって警察の協力をしている一般市民だ」正面に座った。

 捜査員がドアの脇に移動した。

 鬼立が隣に立つ。

「私はやってないんです」

「やったかやってないかは警察に聞いてもらえ。俺は燕薊幽の話をしに来た」

 那賀川の表情がぱっと取り替えられた。

 不快から更に不快へ。

「あなたが何を知っているんですか」

「燕薊幽は俺の知り合いだ」

「え、嘘でしょう」

「嘘じゃない。今回の展覧会にも正式に招待された」俺は関係者用のチケットを見せた。

「え、これは」確かに関係者に配るように発行したチケットだが。といった顔で那賀川が固まる。「でも」

「正直に話したほうがいい。お前は人形が欲しかった。そのために燕薊幽の展示を自分の勤める美術館でできるようにごり押した」

 那賀川は何も言わない。

「他の学芸員からも裏が取れてる。那賀川さんが強く押すから熱意に折れた、てな」

 那賀川は黙っている。

「K美術館の人形だけ中指がないことを知ってるか」

「それがなんですか」那賀川が口を開いた。

「知ってるんだな?」

 那賀川がはっと口を押さえた。

「なんで知ってるんだ?」念押しで聞いた。

「そ、そんなの知ってるに決まってるでしょう。うちの美術館に展示してるんですから」

「じゃあこれが何かわかるか」仕方がないので切り札を出した。

 テーブルに、

 人形の指を置いた。

「これが取れたのは、最初に遺体が発見される直前だ。つまり、最初の遺体の犯人はこれがこうなることを知ってたことになる。こうなるのを知ってたのは、これを作った制作者とこれをよく知ってる熱狂的なファンてことになる」

 過去どこかで展示したときに見たのだろう。

 左手の中指が取れるのを。

「燕薊幽の人形のすごいところは、人形を作ろうとしていないところだ。明らかに人形を超えた人間を創ろうとしている。人間と錯覚するほどのリアルさだ」

「いちいち知った風な口ですね」

「言ってるだろ。知り合いだって」

 中指が取れることを知っていた人間が黒だ。

 取調室を出る。

「決まりか」鬼立が言う。

「大人しく落ちればなんだが」

 11時。

 S美術館。

 緑の屋根。白い壁。白のような外見の建物。

 燕薊幽は2階の展示室を利用して作品を作っていた。

 畳の上に人形の腕と足が転がっているのでかなり不気味な光景だった。

「そちらは警察の方ですか」燕薊幽は手を止めずに言う。

 鬼立のことだ。

「聞かれて困る内容なら言うな」

「聞かれて困るのは私ではありません」燕薊幽が顔を上げる。「いいのですか」

「鬼立。悪いが」

「事件の解決につながるんだな」鬼立が言う。「仕方ない。コーヒー飲むのにそんなに待てない」

 鬼立が展示室を出て行った。背中を見送った。

 燕薊幽が人形の首を畳に置いて脚を崩す。

「やっと話せる」燕薊幽が母国語で喋った。「随分お利口そうなことやってる」

「うるさい」俺も合わせてそっちの言葉で喋った。

 燕薊幽は赤い唇を月のように裂いて、俺の左手を取る。「K美術館のだけ。招待状を出すときに思いついた。もともと取れたわけではない。お前が来るのに合わせて取れるようにした」

「つまり、今回の展示で初めて取れたってことか」

 そうすると、以前の展示で那賀川が見ているというのはあり得ない。

「何が起こってる?」

「K美術館の男。私の人形を盗んだ。別にそれはいい。でも代わりを用意する必要はない」

「那賀川か」犯人は。

「私に個人的に接触してきた。だから相手はした。何をしたかは知らない」

「洗脳したんだろ?」

「結果的にそうなってたならそうかもしれない」

 なるほど。

「お前のせいじゃねえか」

「やったことまでは知らない」燕薊幽がとぼける。

「那賀川以外にもやったのか」

「学芸員とは話した」

 他の美術館の学芸員にも、もう一度話を聞いたほうがよさそうだ。

「わかった。もういい」

「あの男、割と好み」燕薊幽がニヤリと笑う。

 鬼立が戻ってきた。「終わったか」

「やり直しだ」

 警察署取調室。

 那賀川が正面に座っている。

「燕薊幽に何を言われた?」

「何も」那賀川が言う。

「人形をやるから、代わりを用意するように言われたな?」

 那賀川が俺を見た。

 鬼立が息を呑む。

「人形はどこにある? ホテルのスタッフに金を渡して、燕薊幽が留守の隙に他の部屋に運ばせたな?」

 那賀川が俺を見ている。

「もう一度聞く。お前は人形欲しさに代わりを用意して展示室の人形とすり替えた」

「すり替わってないんですよ」那賀川が言う。「アレは人間では真似できない。何度やってもダメだった。違う。アレにはならなかった。だから同じところに置いてみたんです。でもやっぱりニセモノだった。アレは私には作れない。できない」

「だから盗んで真似しようと思ったのか」

「真似なんて。できるわけない。アレはニンゲンだ」

 落ちた。

 あとは警察に任せればいい。














     3


 13時。

 同じ蕎麦屋で昼食を取って湖畔を散歩する。

「解決か」鬼立がずっと我慢していた言葉を言う。

 警察署を出てからすぐに蕎麦屋に入ったので事件のことは何も語れなかった。

 遊歩道を歩きながらなら、会話の内容を聞かれることもないだろう。

 晴れ。

 相変わらず夏の日差し。

「燕薊幽に誑かされた那賀川の犯行だ」

「なんでわかった?」鬼立が言う。

「燕薊幽の作品には人を狂わせる力がある」

「本気で言ってるのか?」

「現にそうなってるだろうが」

 鬼立が顎に手を当てて唸る。

 俄かには信じがたいといった様子で。

 湖畔にはカリンの木が植わっている。羊の彫刻が点在する公園があったり。温泉が吹き出す間欠泉があったり。

 遊覧船とスワンのボート。

 鬼立は遊覧船がいいと言ったが、個人的な話がしたいならスワンにしろと言ったら釣られてくれた。

「男2人で乗るか?」鬼立はまだ納得していない。

「いまならなんでも話すが?」

 時間は30分。

「燕薊幽とお前の関係は? おっと!」

 スワンが揺れた。

 見た目と違ってなかなかにハードな乗り物だった。

「もうちょっと落ち着いて漕げ」鬼立が言う。

「足が止まってる奴に言われてもな」

 他にスワンは2艇程度。湖上は混み合っていない。

「お前との関係はなんだ」

「親子だ」

「は?」

「あっちはそうは思ってないし、俺もそう思ってはないが」

 燕薊幽は人形を作るときの偽名だ。

 彼女の本名は、陣内千尋も知らない。

 しかし、陣内千尋が名付けた名前がある。

「ベイ=ジン。北京に本拠地があるんだとか」

 気に入った人間を人形にする趣味がある。

 今回のお気に入りは。

 まずい。

「戻るぞ」

「なんでだ。聞きたいことはまだ終わってない」鬼立が言う。

「じゃあ戻るまでに聞け。それと足を止めるな」

「お前の目的はなんだ」

「姉貴がいる。燕薊幽によく似た。いや、顔は似てないが、やってることが似てる。そいつの凶行を止めたい」

「その姉貴はどこにいる?」

「捜してる。国内にはいると思うが」

「それで長野に?」

「長野だけじゃない。いろんなところに行かないといけない」

 スタート地点が見えてきた。

「質問はあと1つくらいだが」

「お前はなんだ?」鬼立が俺を見ながら言う。

「最後の質問がそれか」

「燕薊幽の仲間なのか」

「違う。それだけははっきり言える」

「そうか。ならいい」

 ボートを返して岸に戻る。

 足元がぐわんと揺れた。真っ直ぐ立つのに少し時間がかかった。

 空。

 雲。

 風。

「満足したか」

「お前の中に正義を感じた」鬼立が言う。「だからもういい。そのうち全部吐かせる」

「出来んのかよ」

 鬼立は不満そうに俺を睨んだが何も言わなかった。

 警察署に連絡した。

 那賀川はまだ署内にいる。よかった。署内にいる限りさすがに燕薊幽は手を出せまい。

 中年の刑事に、くれぐれも那賀川から眼を離すなと伝えた。

「帰るのか」鬼立が言う。

「帰る前にちょっとゲームはどうだ」

 K美術館から湖畔を反時計回りに4km離れたH美術館。

 別館。アトリエをイメージしたゆったりとした展示室にそれはあった。


  「人形 No.7」

   燕薊幽(えん けいゆう)


 おかっぱの黒い髪。白い肌。黒い眼。桃色の唇。

 これが一番日本人に見えた。

「これがなんだ?」鬼立が小声で言う。場所を配慮したのだろう。

 他にも客がいる。

 が、この展示室に入るや否や「怖い」「気持ち悪い」と言って、碌に見もせずに退散してしまう。

 かえって好都合か。

「よく見てみろ」

 鬼立が人形を上から下まで凝視する。

 前面を見てから、人形の後ろに回る。

「あ」

 人形の背中に記号が印字してあるのを発見できたようだった。

「&?」鬼立が間抜けな声を上げる。

「メモしておけ」

「憶えられる」

 H美術館から湖畔を時計回りに、K美術館を経由する形で行った道を戻った。

 S美術館。

 1階の突き当たり。照明が一段階暗くなっている空間。


  「人形No.4」

燕 薊幽(えん けいゆう)


 白色の長い髪。白い肌。緑の眼。紫色の唇。

「よく見てみろ」

 鬼立が言う通りに上から下から、前から後ろから人形を検分した。

 3分経過。

「ない」鬼立が断言した。

「これで全部の人形を見たわけだが」

「何が言いたい?」鬼立が苛立った様子で言う。

「メモしてなくても憶えてるんだろ? 燕薊幽の人形のシリアルナンバを端から言ってみろ」

「は? お前さっき言ったのと」

「憶えてるって言ったよな」

 鬼立が困ったような顔をして両手を挙げた。「降参だ。クイズは苦手なんだ」

「お前が得意なことは何なんだよ」ケータイのメモを表示させる。「これ見ろ」


 K美術館 No.2

 H美術館 No.7 &

 G美術館 No.8

 S美術館 No.4


「結論から言ってくれ」鬼立が痺れを切らしたようだ。

 空間が声を反響させる(鬼立の声がでかいだけかもしれない)ので美術館の外に出た。

 ポーチは目立つので、美術館の壁沿いに駐車場を移動した。ちょうど日陰なので心地よい。

 車椅子の客をやり過ごしてから鬼立に言う。「俺が見た限り、人形に何らかの希望や文字が入ってたのはH美術館の7番だけ。&が背中に入ってた。つまり、Hの背中に&を付けろと言ってる」


  H &

  H AND

  HAND


「ハンド。手か」鬼立が言う。「他は?」

「お前ちっとは自分の頭を使えよ」ケータイで湖の地図を表示させる。「美術館の配置はいいな? 実は湖畔にはもう二つ美術館がある。今回の人形展示はなかったが」

 K美術館とH美術館の間に、I記念館。

 S美術館とL美術館の間に、N美術館。

「アルファベットは全部で6つ。H美術館から反時計回りに、I、K、S、N、L。並び替えると単語になる」

「Hは抜くのか」鬼立がメモを取りながら言う。

「Hはハンドで使ったろ」

 鬼立がメモをボールペンでつつきながら考える。それを上から見てるのが面白かった。

「お前、大学の第二外国語、フランス語だったろ」

「だったらなんだ」鬼立は苛々すると何かをつつく癖があるらしい。ボールペンが紙面をつつく音が已まない。

 変な奴だ。

「ドイツ語だ。linksで左」

 鬼立が驚いたような感心したような表情を見せる。

 見た目と裏腹に、案外表情が豊かなのが面白い。

「最後のクイズだ。人形のシリアルナンバ、全部足して、二桁になったらそれを一桁になるまで足してみろ」


  2+7+8+4=21

  2+1=3


「3?」鬼立が計算を終えた。

 そこそこ時間がかかった。暗算も得意でないらしい。

「はい。ここまで出たヒントを全部合わせてみろ」


  手

  左

  3


「あ」鬼立が感嘆の声を上げる。「左手中指か」

「んで、これ」

 俺は左手にしていたグローブを外した。

 俺にも、

 左手の中指がない。

「怪我でもしてるんだと思ってたが」鬼立が直視しないように言う。

「これをやったのが、姉貴だ」

 鬼立が俺のない中指に焦点を合わせる。

「姉貴が食いちぎった」

 鬼立が顔をしかめた。

 グローブを戻す。

「これよりひどいことをしてるかもしれない。だから俺は止めたい」

「協力する。私に出来ることがあれば」

 そうやってすぐ信用するのが。

 いいところでもあり悪いところでもある。

「姉貴の話をしてやる」













     4


 姉の名は、永片エイヘン円伝えんで

 名字が違うのは、その時々で違う名を名乗っているから。

 永片でナガカタと読むときもある。

 名前は重要じゃない。

 姉は俺と一緒に陣内千尋に引き取られた。

 でも陣内千尋は、姉の狂気に恐れを成して病院に閉じ込めた。

 姉は脱走した。

 それきり姉とは会っていない。

 でも陣内千尋に引き取られる前に、欲しかったというただそれだけの理由で俺の左手中指を噛み切っている。

 その狂暴性はホンモノだ。

 姉は、病院で出会った男に恋をした。

 だからおそらくその男のそばにいると思う。

 男が拒んでいない限り。

「男ってのは? どこにいるかわかってるのか」鬼立が言う。

 15時。

 ホテルに戻ってきた。

 疲れた。冷房を強めにセットしてベッドに倒れ込む。

「調べればわかるだろうが、もう死んでるんじゃねえかな」

「なんで」

「あいつが普通に人を愛せるとは思えなくてな」

 つまり、手掛かりの意中の男を探しても意味がない。

 その男はすでにいなくなっている可能性が高い。

 それなら最初から姉を探したほうがいい。

「見つかりそうなのか」鬼立が言う。ベッドサイドの椅子に座っている。

「じゃなくても見つけねえと。あれはあれで苦しんでるんだろうし」

「だいじなんだな」

「たったふたりの姉弟だからな」

「俺には兄弟がいないからわからないな」鬼立があ、と口を押さえる。「いまのはなしだ。私だ、私」

「別に俺でいいけどな」

「とにかく」鬼立が誤魔化しの咳払いをする。「私はお前の監視を命じられた。お前は姉を見つけたい。お前が正義を遂行する限り、私はお前に協力する」

 鬼立が握手を求めてきたので、その手を引っ張ってベッドに仰向けにさせた。

「なにす」

「正義を遂行する限り協力してくれるんだろ? 俺の都合にも付き合ってくれよ」

 少なくとも腕は細かった。頭の上で両手を押さえる。

 顔を至近距離で見つめる。

「私にそうゆう趣味はない」鬼立の鉄壁の眼鏡がずれる。

「俺だってねえよ。少なくとも、趣味じゃあない」

「じゃあ放せ」

「言ったろ。趣味じゃないって」耳に向かって息を吐く。「趣味程度じゃなくて、本気だっつう意味だよ」

 鬼立が足で抵抗しようとしたので、関節を押さえた。

「放せ。冗談にしてもほどがある」

「だからさっきっから冗談じゃねんだってゆってんだろ」

 ネクタイを緩めて、第一ボタンを外す。

 第二ボタン。

 第三ボタン。

 そこから手を入れて胸部を撫でる。

「やめろ」

「やめるよ」手を引き抜いて、

 安心したところを。

 唇にむしゃぶりついた。

 まともに発声できないほど奥まで舌を走らせた。

 口の周りを唾液でべたべたにしてから離れた。

 鬼立は生理的に泣いていた。

「吃驚したか」

「冗談にしたって、お前」

 まだ冗談だと思っているらしい。

 弱ったな。

 まだ、早かったか。

「俺を遠ざけるためだとしたら間違ってるからな。こんなことくらいじゃ」鬼立が上体を起こして、口の周りを手の甲で拭う。

「じゃあどこまでやったらいなくなるんだ」距離を詰める。

 鬼立が怯えたような眼になる。

 やめた。

 やめよう。

 そうじゃない。

「悪かった。犬に噛まれたとでも思って忘れてくれ」

 血迷った。

 どうした。

 事件が終わったからこれでお別れだと思ったからだろう。

 惜しい。

 いなくならないでほしい。

 そばにずっといてほしい。

 ああ、俺も。

 姉と同じ血を引いている。

 朝4時。

 こっそり先にチェックアウトしようとしたが。

「どこに行く?」鬼立は起きていた。

 違う。

 眠りが浅いのか、俺が起きた衣擦れの音で起きたらしい。

「どこって」

「帰るのか」鬼立が言う。

「事件も終わったしな」

 照明は付けていないがカーテンの隙間から薄明かりが漏れている。

 表情はなんとなくわかる。

 鬼立がサイドテーブルに置いていたメガネを掛けた。

 裸眼よりこちらのほうが鬼立らしい。

「眼鏡ないと見えねえのか」

「近視だ」鬼立が答える。「先に帰るならそう言えばいい。そんなこそこそせずに」

「これ以上一緒にいたら何するかわからねえ」

 鬼立の顔が赤くなった気がしたが、暗いからよくわからない。

「あの先、てこと、か」鬼立がたどたどしく言葉を選ぶ。

「お前童貞だろ。悪かったな」

「うるさい」

「俺もそうだよ」

「は?」

「生憎とな、女に興味がねえんだ」

「別に聞いてない」

 朝で頭がもうろうとしてて訳のわからないことを言っているのが自分でわかっている。

「俺の監視なんざしなくたって、お前の正義とやらを遂行できる仕事はごまんとある。だから断ったっていいんだ。お前の上とやらに言っといてやんよ」

「待て」

 部屋を出る。

 鬼立は部屋の外までは追って来なかった。

 早朝すぎてチェックアウトできなかった(フロントに誰もいなかった)ので、ロビィで待つことにした。

 まさか再会できると思ってなかった。

 だからちょっと焦った。

 段階を飛ばし過ぎた。

 また会えるかもしれないのに。

 もう会えないかもしれない。そっちのほうが怖くて。

「随分早い」燕薊幽(比較的地味めのデザインのドレス)が隣に座っていた。母国語で話す。

「帰るわ」

「まだ解決していない」

「お前が誑かして学芸員がやったんだろ?」

「大まかに言うとそうだ。しかし、細かくは違う」

「俺にどうしろって?」

「私が疑われている」

「だろうな。やったんだから」

「私はあの男と話しただけだ」

「だから話して虜にして自分の人形にしようとしたんだろ」

「アレは人形にはなりたくないと言ってきた」

「諦めるのか」

「まだ機会はあるが、連れていかれたらどうしようもない」

 警察に逮捕されたら、那賀川を人形にする機会を失うと言っている。

「手伝え」

「俺のメリットは」

「似たような事件を立て続けに起こしてやれる」

「なるほど。でかいメリットだな」

「頼んだぞ」燕薊幽はドレスの裾を引きずらないようにゆっくり遠ざかった。

 と言われてもな。

 ここからできる冤罪。

 那賀川を解放して。

 別の奴に罪を着せるか。

 学芸員はまだいる。

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