第5話 あのワンルームで 【最終話】

「もちろん。どんなこと?」

「淳くんはこのお仕事長いの?」

「んー……そろそろ五年かな? その前はサラリーマンやったり、ホストやってた時期あるよ」


 ホスト、そう言われると妙に納得してしまう。


「……初恋はいつだったの?」

「えっとね、幼稚園のとき先生に恋してた……ってありきたりすぎ?」


 案外さらっと答えてくれて、きっと他のお客さんも同じような質問をするのだと思った。それじゃあ、と続ける私に彼が耳を傾ける。


「高校のときは好きな子とかいた?」


 彼がどんな子と付き合っていたのかは噂で知っていた。

 放課後の教室で当時の彼女を膝にのせてじゃれあっていたのを友達と見かけたこともある。だけどやっぱり彼なのだと、さらに確定材料を増やしたいわけじゃなかった。


 私だって、当時何度も目が合った。

 隣のクラスだから合同授業の時間でペアになったこともある。けがをした彼にばんそうこうを渡したことも。恋愛漫画だったら、恋に発展するような場面が結構あったように思う。

 もし、私が田中美香だと気づいていながら今ここにいるのだとしたら、アダルトサイトの広告によくある漫画のように、奇跡みたいなことが起こるのではないだろうか。

 絶頂の余韻と密着する体で、浅ましくも期待していたのだ。ありえないことを。


「いたよ」


 淳くんは腕の中の私をじっと見つめた。視線が絡まって、ちゅっとキスをされる。


「高校生にしては落ち着いた雰囲気で、ブラスバンド部に所属してて、すごく頑張り屋さんな子だった。でもちょっと子供っぽいところがあったり、笑った顔が可愛くて……告白もできなかったんだけどね。思い出してみるとみかんさんにちょっと似てるかも。その子、卒業前に家の都合で海外へ行っちゃってそれっきりなんだけど……」


 スラスラと答える淳くんに、すうっと体の中心から覚めていく感覚がした。足元に絡みついていた波が引いていく。

 淳くんは嘘をついている。

 私たちの高校にはブラスバンド部なんてなかったし、卒業前に海外へ行くため中退した子もいない。そんな子がいれば次の日には噂でもちきりになるくらい田舎の狭い場所だったから。


 客の私が、気持ちよくなれる嘘をセラピストとしてついてくれている。

 本当に、なにひとつ、私のこと覚えてないんだ。

 最初から分かっていたことなのに、なぜか胸が痛んで、腑に落ちた。

 私の青春に淳くんはいたけれど、彼の青春に私は全く存在していなかった。ただそれだけのこと。

 当然か。私は長塚淳くんではなくて、ジュンくんを買ったのだから。


「みかんちゃんの初恋はどんなだったの?」

「んー……忘れちゃった」


 なにそれずるい、とジュンくんが拗ねて私の頬を指で押した。


「ジュンくんはさ、子供欲しいって思ったことある?」


 たぶん、性感マッサージを受けた客がセラピストに聞く話題ではないだろう。


「深く考えたことないなぁ。子供は好きなんだけどね」


 そうなんだ、と相づちを打つ。


 私は、子供が欲しかったのか。それとも、愛されたかったのか。

 そんなことを考えていたら視界がぼやけてきて、疲労感からベッドに体が溶けていくような気がした。

 あっ、とジュンくんが声をあげる。みかんさん、と呼ばれたけれど返事をするだけで目を開ける力がない。


「誕生日おめでとう、みかんさん」


 頭を撫でられて、唇になめらかで柔らかいものが当たった。

 私は三十二から三十三になったのだ。

 ひとりではない、このワンルームで。ありがとう、と返事をするよりも先に、私は睡魔に負けて眠りに落ちた。



 早朝。目を覚ますとジュンくんがにこりと微笑んでこちらを見つめていた。

「寝顔が可愛くてずっと見てられる」と言われて、変な顔をしていなかったかなと今更恥ずかしくなった。体がべたついてちょっと気持ちが悪い。

 シャワーを浴びるかと聞かれ、うん、と返事をするとジュンくんはテキパキと動いて準備をしてくれた。


「ジュンくん寝れなかったよね、ごめんね」

「俺もちょっと寝たよ。それに七時までしか一緒にいられないんだもん。みかんさんを堪能しておこうって思って」


 そんなふうに言われると余計に申し訳なくなって、私はジュンくんが準備してくれたバスルームに一人で入ることにした。

 シャワーで念入りに体を洗いながらふと、自分がものすごく冷静でいることに気づいた。


 ジュンくんに触れられる。あれは私の中でセックスではなく、紛れもなくオナニーだった。挿入を伴わないオーラルセックスというものがあるのだから、セックスだと言われると理解はするが私の中では違った。 

 優しく丁寧に扱われ、ベッドの上で横になっているだけで過去一番に気持ちいい、極上の快楽を与えてもらえる。綺麗な顔の男が確かなテクニックで完璧にもてなしてくれる。

 それは互いを思いあい、多少の気遣いがあって慣れるまでぎこちなく営まれるセックスとは全く違うものだった。

 最高に気持ちよかった。またしたいか、と聞かれれば多分はいと答える自信がある。でも、私がずっとしたかったのは、あの浦安のワンルームで望んでいたのは後者のセックスだった。

 母の声が蘇る。


『子供のことを考えるとタイムリミットもあるじゃない』


 分かっている。だけど、私がしたかったのは妊娠するためのセックスではなく、愛し合い、求めあうセックスだった。

 それをしていたら、偶然で必然的に子供を授かる。それは母を見ていて、当然だと思っていた。けれど、それがものすごく高い理想であることを私は結婚してから思い知らされた。

 この虚しさは多分、オナニーでは埋められない。


「みかんちゃん、大丈夫?」


 眠ってしまったのではないかと心配して扉をノックしたジュンくんに私は「もう出るから平気」と返して、お湯に肩まで浸かった。


『ほぐしたいのって、体だけじゃないと思うんだ』


 ジュンくんが居酒屋で言っていた言葉をあれは本当だったなと思う。心が少し軽い。

 もう波は遠くへいってしまったような気がして、寂しいような、満たされたような不思議な感覚だけが残っていた。


 朝日がまぶしい。いつもの土曜日ならまだベッドの中にいる時間に、私はジュンくんと手をつないでホテルを出た。


「また会えると嬉しいな」


 綺麗な顔でジュンくんは次の予約を強請った。


「解れたみたい、ありがとう」


 答えになっていない気がするけれど私が今、彼に言えるのはそれだけだった。

 ジュンくんと別れて、ひとり新宿駅へ向かう。

 ふと、スマホを見るとホテルにはいったときに設定した機内モードがオンのままだった。オフにすると母からの不在着信が一件と友達から数件、それから珍しく後輩からのメッセージが入っていた。

 休日に仕事の話かと渋々開けば、まず可愛い犬のスタンプが目に入ってきて、思わずふっと笑ってしまった。


『美香先輩、お誕生日おめでとうございます! 昨日はしつこくしてすみませんでした! しつこいついでに飯行きませんか? もちろん奢ります!』

『仕事の話じゃないですけど、美香先輩と話したいって思ってます』

『もちろん仕事についても教えてください!』


 数分置きに送られている、まるで野球部員の挨拶のように元気な文面に目じりが下がる。

 素直に可愛い、と思った。

 昨日までの私なら、おばさんをからかって、とか卑屈になっただろう。でも、今はなぜか心に余裕があった。

 なんて返そうか、素直にありがとうと伝えて、そのまっすぐな下心に乗ってみようか。

 あれこれ考えているうちに、こんな時間から営業しているラーメン屋を見つけた。途端、ぐうっとお腹が悲鳴を上げる。そういえば昨日の夜はほとんど食べず、激しい運動をしてしまった。普段なら朝からラーメンなんて食べないけれど、醤油のいい香りが鼻腔をくすぐって、たまらず店へ足を進めた。


 早く会いたいな。そう心の中で呟いたのはどちらに対してなの分からない。ただその声は妙に甘えていて、誰かにもたれかかるようだった。 解れた胸の内は想像していたよりもベリーみたいな濃いピンク色で、どろどろとしている。


 私は母とは違う、けれど確かに私はあの母の血を引く娘なのだと、あのワンルームに誰かの影を想像して目を細めた。



  了



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女性用風俗で高校の同級生を買った話 ねこうめ @kuronekoume

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