第3話 電気を消して
店は、駅から三分ほど歩いたところにある居酒屋を選んだ。以前友達と来たことがある店で、料理も雰囲気もよく気に入っていた。
その友達は関西に転勤してしまったため、今日この店で鉢合わせる子こともない。週末だから絶対に混むだろうと予約して正解だったと店に入ったときの混雑状況をみて思う。予約時に指定した二名用の個室は席が横に並んでいる造りになっていて、ジュンくんに促されるまま私は奥の席へ座った。まるで学校の教室で机同士をくっつけて話すような距離感だ。
「ここは串焼きと焼酎がおいしいんですよ」
「わあっ、悩むなー。俺焼酎好きなんですよ」
知っている。プロフィールにお酒は何でも好きで特にワインと焼酎と書いてあったから。だからこの店を選んだ。ワインの善し悪しは正直、この年になってもわからないし、自分が普段好んで飲むこともないからただ高価な飲み物という印象が強く選択肢の一つとしては避けたかった。その分、焼酎はまだ安心できる価格帯な気がする。
悩んだ末、一杯目は大分の麦焼酎の水割りと、おすすめの盛り合わせを注文した。
「みかんさんは普段からお酒よく飲むんですか?」
「ううん。ほとんど飲まないですね。疲れたなって思ったときにストレス発散で缶ビール一本飲むくらい」
そのほとんどが実の母からの電話によるものだとは言えない。
絶妙なタイミングで焼酎が届いて、静かにグラスを合わせて乾杯する。ジュンくんを真似るように口をつけると、体が水分を欲していたのかごきゅっと大きく飲み込んでしまった。空っぽの胃が高アルコールに犯されていく。
薄暗い個室で、すっと覗き込むようにジュンくんが目を細めた。暖色のライトが大きな黒目を艶やかに照らして、雰囲気が一気にしっとりとしたものに変わる。
「そっかあ。疲れちゃうって、仕事?」
「……そういうときもあるかな。あと私、離婚してるし、そういうのでときどき、色々」
自然と敬語は解けていた。自分でもびっくりするくらいするすると口から言葉が零れていく。
普段は自分から離婚した話なんてしない。仲のいい友達は知っているからわざわざ蒸し返したりすることもないし、会社では気を遣われるのが嫌でその手の話題は避けるか、いっそ軽口で流すようにしている。
こんなふうに、重くて相手の慰めを待つようないやらしい言い方はしない。
「みかんさん、もし嫌じゃなかったら辛いこと、吐き出して? ほぐしたいのって、体だけじゃないと思うんだ」
テーブルの上で彼の手が重ねられた。やっぱりすべすべしていて、指の間に逞しい指が割り込んでくる。
なんとなく求め合うセックスをするときに互いの脚が絡み合う状態に似ているなと思った。
今の私は、いや、もっとずっと前から私は欲求不満なのかもしれない。女としての性欲も、承認欲求のようなベトベトとした被害者意識も、三十路でバツイチで恋人もおらず独身生活も大して楽しみきれていない私という卑屈さが胸を圧迫して、ずっと満たされないでいる。
私はテーブルの上で彼の手を握り返した。店員が串焼きを運んできたがそれには目もくれず、じっと見つめ合う。
「つまらない愚痴なんだけど、聞いてくれる?」
「もちろん。みかんさんのこと、もっと知りたい」
彼の親指が肯定するように私の手の甲を撫でる。それだけで見栄でパンパンに塞がった胸が少し緩むような気がするのだから単純だ。
カランッとグラスの中で氷の溶ける音が響く。
「私、二十七のときに結婚して一年半前に離婚しているの。原因は……夫の浮気。四年の結婚生活のうち三年は完全なセックスレスだった。でも子供がほしくて……妊活の相談をした矢先に浮気が発覚して、ああ私以外の女なら抱けるんだなって思ったら怒る気にもなれなかった。別れて、独身ライフ楽しんでやるって意気込んでたら誕生日直前に飼ってた猫が死んで。もうおばあちゃん猫だったんだけど、もう全部いやになっちゃって」
終着点は最初からない。どんどん声が水っぽくなっていって、反対に舌はみるみる乾いていく。上手く言えないけれど、どうしようもなくこの感情に襲われて、やりきれない夜に何度も襲われて苦しい。誰かに名前の付けられないこの感情を分かってほしかった。分からなくても、ただ頷いてくれるだけでいい。
「辛かったね。すごくすごく、頑張ったんだね」
重ねていた指が解けて、背中を優しく撫でてから肩を引き寄せる。ジュンくんの唇が私の髪に触れて優しく甘い声が囁かれる。じわっと潤んだのは視界と、なぜかお腹の奥。なにも言わずに、猫みたいに彼に撫でられ続けた。
テーブルの上の串焼きは時間が経って、どんどん冷めて固くなっていく。せっかく美味しいのに、もったいないなという罪悪感と胸がいっぱいで固形物を胃にいれたくないという感情が入り乱れて、手を伸ばしてやめる。そういえば最近、これも多い。
「みかんさん、お腹空いてない?」
「うん……もういいかな。もったいないし、お店の人に申し訳ないけど」
「なら俺食べちゃってもいい? 串焼き好きなんだ」
「えっ、ならもう一皿別に注文するよ。それ冷めちゃってるし」
新しいものを選んで貰おうとメニューを取ったがそれより先にジュンくんは冷めた肉巻きピーマンを頬張った。ものすごく美味しそうに味わって、飲み込む。次から次へと、盛り合わせがジュンくんの形のいい唇に吸い込まれていくのをただ見ていた。
「うまいものは冷めててもうまいもん」
なんだか申し訳ないと、謝ると食い意地が張ってるだけ、と笑われた。 たぶん、私がもったいないなどと言わなければ彼は冷えた串焼きを食べることはなかったかもしれない。それでも最後まで心底美味しそうに食べる彼の横顔を見ていると、なんとなくじんわりと満たされていくのを感じた。
高校生の時、私のクラスで友達とお弁当を食べている姿を何度かみたことがある。あのときは遠くから盗み見ているだけだった。それが今、咀嚼音さえ聞こえるほど至近距離にある。
そうだ、これだけ近くにいるのだから、やっぱり彼も私のことに気付いているのかもしれない。そのうえで、プロとして振る舞ってくれているのだとしたらある意味それはロマンチックなのではないか。
お皿とグラスを空にしたジュンくんが私の耳元に口を寄せて、自然と体が密着する。
「もっと、みかんちゃんのこと知りたい」
いい? と綺麗な顔に微笑まれ、私は小さく頷いた。
ジュンくんと手を繋いで店を出るともう九時近かった。人はさらに増えていて、楽しげにはしゃぐ声や客引きの声が犇めいている。
――この後は、ホテルだよね。
ジュンくんが「行きたいホテルある?」と聞いてくれたので、事前に調べてあったホテルの写真を見せた。この店からほど近く、内装が綺麗でアメニティが豊富らしく、使うか分からないけれどミストサウナまでついているらしい。彼の手をとって、マップに従って歩いた。
そこはホテル街で、独特な灯りがギラギラと光っている。
「うそ……」
驚いたのは、目当てのホテルどころか、その周辺のホテルもすべて満室だったことだ。入り口の奥に待合室のようなスペースがあるホテルもあり、何組かのカップルが甘い雰囲気を醸し出していたがさすがにそこで待つ気にはならなかった。
今日は週末で店が混むのは当然だろうと居酒屋の予約は自然と思いついたのに、週末だからラブホテルが混むだろうなんて頭によぎりもしなかった。どれだけ自分がセックスから遠いところにいたのかものすごく実感させられる。
今更、徒歩圏内の綺麗なビジネスホテルの予約が取れるはずもなく、取れても近場で旅行ができてしまいそうな宿泊料だ。
「ごめんねたくさん歩かせちゃって……こんな混んでると思わなくて……」
「みかんちゃんが悪いんじゃないよ。んー……見せてくれたホテルほど綺麗じゃないし、フツーって感じのところなんだけど、そこでも大丈夫だったりする?」
私は情けなさから水っぽくなる視界で頷いた。すると彼は私の手をとって、子供のようにはしゃいでギラギラ光る夜のホテル街を駆け抜けた。一瞬、周りの目が気になったけれど、こんな場所では誰もが自分の相手以外は視界に入っていないと言わんばかりに無関心で逆にそれが心地いい。
ジュンくんが連れてきてくれたホテルは路地を入ったところにあって、確かに自分が想像していたラブホテルよりもかなりシンプルだった。ダブルサイズのベッドがぎりぎり入る広さのワンルームに壁掛けのテレビだけ。遊べるようなものはないし、もちろんサウナもない。
「みかんさん、お風呂たまったから一緒に入ろ」
部屋に入ってすぐ、マッサージについて簡単なカウンセリングがあった。そのなかでお風呂は一緒に入ってもいいかと聞かれたので思わずはいと返事をしてしまった。
「うん……」
すでに上半身を脱いでいるジュンくんが蒸気と一緒にバスルームから顔を出して誘う。
遠目で見ても綺麗で引き締まった体だ。よくみると腹筋が割れていて無駄な毛なんかもなくつるつるとしている。他人に見せることに全く恥じらいのない男の体だ。
ジュンくんを予約した日から簡単なストレッチはしてみているものの、そんなにすぐ体つきが変わるわけではない。私の体は彼と違って元夫とのセックスレスの期間を含めれば四年半も誰にも見せていない。気をつけていても肉のつきやすくなった二の腕や腹部は誰がどう見ても三十代の女の体で、それ以上でもそれ以下でもない。
許可を取ってからブラウスのボタンを外すのを手伝ってくれるジュンくんに私は強請った。
「明るいの恥ずかしいから……電気消して」
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