第2話 最悪、本人だ

 【クラブダーリン】から決済完了のお知らせと、カード会社からクレジット利用通知が同時に届いた。

 ジュンくんからは『今日お会いできるのが楽しみです』と絵文字付きのメッセージが入っている。私もです、なんて浮かれて返すのは気恥ずかしくて、数時間がたった今もまだ返信ができていない。


「うおっ、美香先輩なんか今日雰囲気違いますね」


 終業後、会社の化粧室から出たところで営業先から戻ってきた後輩に出くわした。私は平然を装って「お疲れ様、おかえりなさい」と仕事用の笑みを浮かべる。


「そうかな。あ、例の件、先行で工場に発注かけておいたから。納期分かったら共有するね」

「ほんとですか! お願いしとけばよかったって思ってたんですよー助かります! ありがとうございます」


 彼は営業で、私は営業事務だ。サポートはして当然だと思っているし、周りからもそう思われている業務でこんなに素直に感謝されると毎回どう反応すればいいのか困ってしまう。

 素直に嬉しい、と伝えると「本当に感謝です」と人懐っこい顔で返されるから余計に悩んで、結局いいえ、と曖昧に笑って濁す。

 彼にじっと、物珍しいものをみるような目で見られていることに気付いて首を傾げた。


「やっぱり、今日の美香先輩いつもより綺麗です」


 心臓が変な音で軋んだ。


「やだ。おばさんをからかわないでよ」


 さすが営業、口が上手いんだねと軽く流せばよかったと言った後に気付く。顔が熱い。


「いやほんとですって。どっか行くんですか?」

「はいはい、ありがとう。そんなとこかな」


 じゃあもう行かないと、と無理矢理切り上げて駆け足で会社を出た。

 大学を卒業したばかりの後輩に綺麗だと褒められて受け流す余裕もなかった。後輩は明るく営業としてもすでに優秀で上司から期待され、同期とも仲がいいらしい。そんな人当たりのいい人だから、いつもと違うメイクや服装をみて社交辞令を言ってくれた。

 ただそれだけだと分かっているはずなのに、確認せずにはいられず、私は最寄り駅の秋葉原駅の化粧室に駆け込んだ。

 変じゃないだろうかと鏡に映る自分を凝視する。そこには普段着慣れない淡い色の服に歩きにくい七センチのヒールを履いた女が不安げにこちらを見ていた。


 今日に備えて、先週末は久々にデパートに服を買った。グレージュのシャツに店員に勧められてアイボリーのロングタイトスカートを選んで、上下セットの下着も準備した。昨日は美容院でいつもよりワンランク上のトリートメントをして貰った。

 初めて会う、もしかしたら今日が最初で最後になるかもしれない相手にハズレの客だ、と思われたくなくて揃えた結果だ。我ながら結構見栄っ張りだと思ったけれど、いつものネイビーのシャツにウエストがゴムになっているスカートよりはマシだろうし、パーティー用の服ではないのだから、これからいくらでも着ることができる。会社に着ていってもいい。


 誰かにどう見られるかを気にして服を選んだのはもう随分と久しいことでこれが正解なのか分からない。そもそも正解なんてあるのだろうか。

 そんなことを考えていると、週末だからか、駅の化粧室には同じように化粧を直す人が増えてきた。後ろに人が並んだので少し横にずれて鏡の前に隙間を空けるとするりと隣に人が収まった。ちらりと盗み見たその人の服は淡い色の上下に私より高いヒールを完璧に着こなしている。彼女も誰かと待ち合わせをするのだろうか。少なくとも、風俗店のセラピストではないだろうけれど。


 セラピストのジュンくんとの待ち合わせは十九時に新宿三丁目駅を指定した。待ち合わせまでまだ時間がある。

 手持ち無沙汰になり会社で直したばかりのリップを塗り直して、無意味に鞄の中の整理をしてからお手洗いを出た。

 

 秋葉原駅から同駅内の岩本町まで歩いて都営新宿線に乗ると十分弱で新宿三丁目駅へ到着した。

 地下から地上へ出てスマホで時間を確認すると待ち合わせまで十五分ある。

 ジュンくんに到着の連絡をしようかと思ったが、急かすようなので目印になる自分の服の特徴を送った。

 これなら移動中のように伝わるだろう。暇つぶしにゲームでもしていようかと思ったそのとき。


「あの……みかんさんですか?」


 前方から覗うように声を掛けてきた男性に、えっ、と一瞬戸惑った。

 人違いか客引きかと訝ったけれどすぐに自分が美香、の本名からみかんというニックネームで予約したことを思い出す。


「あっ、はい、そうです」

「よかった。ジュンです、はじめまして」


 顔を上げて、ジュンくんを見た瞬間、心臓がひゅっと冷たい悲鳴をあげた。

 宣伝写真通りの高身長に黒髪、それから人懐っこい声とモデルのような綺麗な顔に質の良さそうなダークネイビーのジャケットがとてもよく似合っている。

 記憶の中の制服姿の男の子に色気を足した、他人の空似というにはあまりに無理がある姿。

 私の心臓はずっと嫌な音を立て続けている。


 ――最悪。


 目の前に立っているのは、紛れもなく高校の同級生だった長塚淳くんだ。

 もう記憶になかったはずの声までもがリアルに蘇るのは今、その声を聞いたばかりだからで、元同級生を性感マッサージのセラピストとして指名した紛れもない事実が誕生してしまった。


「みかんさん? 大丈夫ですか?」

「え……あっ……はい、大丈夫です。すみません」


 思わず俯いてしまう。

 新しい下着なんて買ってなにを浮ついていたのだろう。そんなことをする暇があるなら、もっと彼についての情報を調べておくべきだった。 今の時代SNSがあるのだからモザイクの下の顔くらい事前に分かったかもしれないのに。そうすればセラピストを変更することだってできたし、いや、そもそも性感マッサージを受けたいなんて思わなかったらこんなことには……。

 後悔先に立たず、とはよく言ったもので、本人を目の前にやっぱり帰りますと言うわけにもいかず、挙動不審にただ自分の手元ばかりを見ている。

 今日のために塗ったくすみピンクのマニキュアがものすごく滑稽に映る。


「あ……もしかしてがっかりさせちゃいました? 俺、顔出ししてないから、イメージと違いましたか」


 長塚淳くんはっきりショックを受けたと、伝える声色で私の爪先を撫でた。


「いえっ、そんな! イメージ通りというか……その、かっこいい、です」


 自分でも何を言っているのだろうと思う。私が彼に気付いたように、顔と声が一致することで記憶が蘇ってしまうのではないか怖い。もうすでに気付かれているかもしれない、そう思うだけで呼吸が浅くなった。 

ところが彼は私の言葉に大げさなほどほっと息を吐いた。


「よかったあ。俺もみかんさん綺麗な方でびっくりしました。今日のお相手、俺のままで大丈夫ですか?」


 えっ、と顔を上げてしまって再度目が合った。

 そうだ。彼は私に声をかけてくれるときに服装と顔を見ているはずだ。そのうえで『はじめまして』と言った。つまり、私が高校の同級生の田中美香とは気づいていない。

 最悪、気づかれていたとしても彼はプロとして気づかないふりをしてくれる。

 都合がいいけれど、そう考えるとなぜか頭の端で走馬灯のような計算が駆け巡った。

 セラピストのチェンジ不可のはず。当日キャンセルの場合お泊まりコースだから一万円かかるし、なにより三十三歳になる瞬間をあのオナニーばかりしているワンルームで一人迎えることになる。それだけは絶対に避けたい。年をとる瞬間、誰かの体温を感じたくて予約したのだから。この判断は正しいはずだ。


「緊張しちゃってすみません。ジュンくんでお願いします」


 恭しく差し出された手は同年代の男性とは思えないほどすべすべとしていた。元夫の手は肌寒い時期になるともっとガサガサしていた気がするし、結婚してからは外で手をつなぐことなんてほとんどなかった。

 ものすごく久々に感じる男性の体温にむずがゆくなりながら、私たちは予約している店へと向かった。

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