18

 進路相談が増え、放課後に残ることが多くなった。来月からほとんどの高校の説明会が開かれる。担任からも受験シーズンが始まる九月頃までには志望校を決めておくようにと言われた。


 中三になったばかりなのに、次は高校生。それで高校に入れば、すぐに大学の話。そのスピードについていけない俺は、ずっとずっと置いてけぼりにされているような気分だった。


 担任との進路相談が終わって、図書室に向かった。窓際のカウンター席に腰を下ろして、先生が勧めてくれた学校のパンフレットを眺める。


 正直、高校は入れるところならどこでもいいと思っている。それを口にすると大人たちは大体『自分の将来のことなんだから真剣に考えろ』とか『自分の目標や価値観に合った学校を選ぶべきだ』と、最もらしい説教をしてくる。


 俺だって、ちゃんとした目標を持ちたい。


 だけど、やりたいことも、目指したい夢も見つからない。


 周りは、どんどん、志望校を決めていく。そこには、大人たちが言う「目標」がある。なんで、みんなそんなにしっかりしてるんだろう。まだ十五歳なのに、なんで大人みたいな考え方ができるんだろうか。


 見繕ってもらったパンフレットの中には、地元の高校のものもあった。俺は去年、家から近い場所がいいと言ったけれど、その気持ちは今でも変わっていない。

 

 学力は平均くらいだけど、駅から離れていることもあり、定員割れをする年もあると聞いた。


 募集人数に対して受験人数が下回れば、当然合格する確率は上がる。まあ、倍率が低くても合格基準点を大幅に満たしていない場合は不合格になるだろうから、受験勉強も適度には必要だ。


 そうやって適度に、なんてゆるい気持ちでいるから、俺はダメなんだろうな。だから、きっと〈思春期病〉にもかかった。


 だけど俺は今まで、なにかを自分で決めたことはない。陸上をやっていたのも自分の意思ではなかった。そう考えると俺って、なんでもいいんだなって思う。


「お隣、いいですか?」


 その時、誰かに声をかけられた。顔を上げると、そこには勉強道具を抱えた遥香がいた。彼女は受験生でもないのに、よく勉強をしている。きっと、遥香の中にも明確な将来のビジョンがあるのかもしれない。


「図書室って、静かでいいよね」


「そう? けっこう色んな声が聞こえるよ」


 換気のために開いている窓からは、運動部員たちの声が響いていた。陸上部だけじゃなく、多くの運動部が夏の大会を控えている。それこそ三年間の集大成として結果を残したいと思っている生徒も大勢いるはずだ。


 もしも陸上部を今でも続けていたら、俺はどんな気持ちでいただろうか。


「ねえ、冬樹くんはどうして走ることを辞めちゃったの?」


 俺の心を読んだみたいに、遥香からそんなことを聞かれた。今まで色んな人に部活を辞めた理由を尋ねられた。その度に誤魔化してきたけれど、ちゃんとこの場所で消化しなければ、俺は高校に行っても気持ちを引きずってしまうと思った。


「俺が陸上を辞めたのは、自分の先が見えたからだよ」


「先?」


 周りから期待されて挑んだ去年の春の大会。隣のレーンにいたのは何回か大会で一緒になったことがある弱小校の選手だった。


 予選なんて流しても余裕で通ると思っていた。そんな油断した気持ちでスタートを切ったが、途中で隣の選手が追いついてきた。


 なぜかその瞬間に、力が抜けた。結果的に他の選手にも抜かれ、予選敗退となった。


「俺はさ、途中で走ることを諦めたんだよ」


「……抜かれたのが悔しかったから?」


「いや、違う。余裕で勝てると思ってた相手に抜かれた時、その選手は一体どれだけ練習してきたんだろうって思った。俺はなにもしてなかったのに」


 努力なんてカッコ悪い。練習なんてしなくても俺は速いんだって、傲った気持ちでいた。だから、見下していた相手に抜かれた時、走る意味がわからなくなった。


 気づくと自分の足が止まっていた。俺はゴールすることなく第三レーンで立ち尽くしたまま、暫く動けなくなった。


「俺には目標どころか、進みたい道もない。あの大会で、自分の薄っぺらさにようやく気づいた。それが走ることをやめた理由だよ」

 

 あの大会をきっかけに〈思春期病〉を発症した。


 自分の進みたい道が見えない代わりに、自分以外の人が進む足跡だけが見えるようになってしまったというわけだ。


「人によってやってきた努力や目標にしてることが違うのは当たり前だよ」


「え?」


「誰かと比べて自分が劣ってるなんて思うのは間違ってると思う。その人のことが真似できないように、その人だって冬樹くんのことを真似ることはできないんだから」


 いつも優しい遥香が、珍しく強い口調になった。彼女の言葉は、光に満ちている。その言葉はうつむいていた俺の顔を自然と上に導く力を持っていた。


「遥香は……将来の夢ってある?」


「じゃんっ!」


 彼女は、俺に一冊のスケッチブックを見せてくれた。そこには、茶色の色鉛筆をふんだんに使ったイラストが描かれていた。


「これって、パン?」


「うん。私ね、この絵みたいなパンを作れるようになって、いつか自分のお店を開きたいの」


 スケッチブックには、ウサギのジャムパンに、クマのチョコレートパン。他にもネコやパンダやヒツジなど、可愛らしい動物をモチーフにしたパンが描かれている。


「この動物はなに?」


「ラッコだよ。え、もしかして、ラッコに見えない?」


「うん。カワウソかと思った」


「もお~~っ!」


 遥香に肩を叩かれて「ごめん、ごめん」と謝ると、どこからか注意を促すような咳払いが聞こえた。ふたりで顔を見合わせて、クスリと笑い合う。


「ラッコってね、手を繋ぎながら眠るんだよ」


「なんで?」


「潮に流されて離ればなれにならないようにするんだって。可愛いよね」


「へえ。だから、絵に描いてあるラッコも手を繋いでるんだ」


「うん。ラッコのパンを作ったら小さな子に人気が出るかな?」


「出るよ。あ、店の名前はどうする?」


「名前はまだ考え中なんだけど、『にこにこパン屋』とか『うきうきパン屋』とか、来た人が幸せな気持ちになれるようなお店を開きたいな」


「ははっ」


「あ、パン屋さんの名前がちょっと子供っぽいって思った?」


「違うよ。遥香らしいあったかい夢だなって思って」


「じゃあ、私がパン屋さんになって、このスケッチブックに描いてあるパンを作れるようになったら買いにきてくれる?」


「うん、もちろん」


 来年には高校生。その二年後には成人扱い。将来の夢はないけれど、未来の約束ができた。


 遥香の夢が叶う頃には、俺たちは何歳になっているだろうか。約束の印に指切りを交わした。彼女の小指と重なり合った瞬間、また自分の心に光が差した。

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