17

 その日の夜。晩ごはんを済ませた俺は、上下セットのジャージに着替えた後、玄関でランニングシューズの紐をきつく結んでいた。


「いつも言ってるけど、車には気をつけなさいね」


 たかが一時間で帰ってくるランニングなのに、母さんはこうして見送りにくる。「大丈夫だよ」と無愛想に返事をすると、再び後ろから声がした


「冬樹って今、彼女とかいるの?」


「え、は?」


 唐突な質問に、思わず顔だけを振り向かせてしまった。晩ごはんの時から、なんとなくなにかを聞きたそうな顔はしていた。また部活のことだと思っていたが、まさかこんなことを聞かれるとは思ってなかった。


「付き合ってる子がいるんでしょう?」


「……いないけど、なんで?」


「でも、一緒にいるところを何度も見たって奏子かなこが……あ」


 奏子とは、千夏の母さんだ。ふたりは学生時代からの仲だから、しょっちゅう会っては色々な情報を交換している。おそらく奏子おばさんに見られたのは、遥香と一緒にいたところだ。やましい関係ではないとはいえ、こういう質問をされると鬱陶しく思えてしまう。


「べつに母さんには関係ないだろ」

 

 俺は冷たく突き放して、そのまま家を出た。人通りの少ない通りを走っていると、誰かが手を振っていた。俺と同じようにジャージを着ている千夏だ。


 千夏は、最近ランニングに同行するようになった。本人いわくダイエットのためだという。千夏は元から運動神経がいいから、俺のスピードにも余裕でついてくる。


「あのさ、奏子おばさん、俺のことなんか言ってた?」


「なんかって、なにが?」


「いや、なんか色々と……」


「だから、色々ってなによ?」

 

 自分から聞いたくせに、俺は千夏の追及に黙り込んだ。奏子おばさんはお喋りだから、きっと千夏にもあれこれと聞いているのは間違いない。


 だけど、俺は千夏にも直接的な質問はしにくい。母さんに干渉されたくないのと同じで、千夏に対しても身内のように感じているからかもしれない。


 遥香のことを聞かれないために、話題を変えた。


「夏の地区大会、出るんだろ?」


「うん。でも、県大会までは進めないだろうから、そこで引退かな」


「高校では、高跳びやんないの?」


「やるわけないじゃん。六月の大会で最後だよ。森川先輩も卒業しちゃって、走高跳びは実質私ひとりだから、寂しく引退ですよ」


「大会、応援に行ってやろうか」


「え、うそ、本当にっ!?」


「うん。いつだっけ?」


「六月五日!」


「忘れなかったら、みんなで行くよ」


「言ったね? 本当に本当に来てよ?」


 思わず『みんなで』なんて言ったけど、みんなって誰だ?


 クラスメイト? 遥香? それとも秋人か?


「冬樹は高校で陸上やらないの?」


「やるわけねーじゃん。だったらバイトする」


「バイト! 私もする!」


 ランニングコースから外れて、秋人が万引きした書店へと続く道を走る。あいつの足跡はない。秋人はあれ以降、店には行っていないようだ。


 あの日、千夏と一緒に夕飯がてらマックで食事をし、近くの文房具屋に向かおうとしたところで偶然秋人の足跡を見つけた。


 それで鉢合わせをしたら驚くだろうと思って、予定の文房具屋には立ち寄らず、あの書店に向かった。


 そこでまさか、あんな場面に出くわすとは夢にも思ってなかった。


 俺にとって秋人は、誰よりも完璧な存在だ。


 成績優秀で、周りの信頼も厚く、無口なところもあるが、気のいいやつだ。そんな、あいつの心の綻び。誰にも言えない悩みのストレスを、ああして解消していたとするなら、秋人を苦しめているのは、きっと遥香への恋心だ。


 秋人だったら、女子なんて選び放題だろうに、遥香じゃなきゃダメな理由が、あいつにはたくさんあるんだろうと思う。


「あ、見て見て、星がいっぱい!」


 千夏の視線に合わせて、夜空を見上げる。そこには、満天に輝く星が浮かんでいた。


 星というのは、昼間でも同じように空にあるらしい。日中は太陽の明るさによってかき消されているが、夜になると空が暗くなるため、星が見えるようになるそうだ。


 昼間の星のように、同じ場所にあっても俺たちの目に映らないものは、世の中にはたくさんあるのかもしれない。


 だけど反対に、見えなくてもいいのに見えてしまうものだって、世の中には数えきれないほどあるんだろう。


「千夏には、一生見えなそうだよな」


「え、なんの話?」


 足跡が見える〈思春期病〉。心が安定して、自立心が身につけば、自然と治っていくと言われているが、なんだか俺は大人になっても、足跡が見えていそうな気がしている。

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