青の慟哭(秋人)

11

 大人たちは誰かと比べることはしないようにと言うくせに、俺たちを評価したがる。


 知らず知らずのうちに作り上げられていく「自分」という存在。


 周りからの評価によって形作られるたびに、自分の姿が薄れていくような感覚がしていた。


 街の外れにある小さな本屋は、二十時にシャッターが閉まる。俺は駆け込むように店内へと入り、書籍コーナーと隣接している文具棚の前で足を止めた。


 手に取ったのは、A5のキャンパスノートとシャーペン。それをレジに持っていくと、年配の女性が対応してくれた。


「いつもご贔屓にしてくれて、ありがとうね」


 顔を覚えてもらっているので、こうして必ず声をかけてくれる。一昨年、旦那さんが亡くなって以来、一人で店を切り盛りしているらしく、常連客になりつつある俺に、そのようなことも気さくに話してくれる。


「おまけの付箋もどうぞ」


「ありがとうございます」


 俺は会釈をして、店を出た。塾は週三日。時間は十八時から十九時半まで。勉強は得意だけど、好きか嫌いかで考えると、どちらでもない。


 ただ、学生でいる間の勉強は義務だと思っているので、個別授業がない日は塾の自習室で過ごし、日替わりで代わる講師に勉強を見てもらっている。

 

 街灯がぽつりぽつりと照らしている住宅密集地。いわゆる都市開発のために用意された大型分譲住宅街で、同じ造りの家が横一列に並んでいる中に、俺の自宅がある。


 【武井】と書かれた表札を横目に、玄関のドアを開けると、ちょうど二階から遥香が降りてきた。


「あ、お兄ちゃん。おかえりなさい」


 妹はジェラートなんとかという店で買ったという、モコモコした上下セットの部屋着を着ていた。勉強とは違い、そういう単語だけは何度聞いても覚えられない。


「お前さ、また自転車に乗っただろ?」


「乗ったよ。ふたりで使うためにお父さんが買ってくれたんだから、べつにいいでしょ?」


「そうだけど、なるべく自転車は使うなって言ってあるだろ」


「いくら私がぶきっちょでも転んだりしないから平気だよ」


「そうじゃなくて……」


「お母さんにおつかいを頼まれたからスーパーまで使っただけだよ。ほら、いつまでも玄関にいないで早く上がりな」


 遥香は滑りそうな靴下を履いて、廊下を駆けていく。その後を追うようにリビングに向かうと、晩ごはんのいい匂いが漂っていた。


「秋人、おかえり」


 両親の声が綺麗に重なる。


「うん、ただいま」


 うちの家族は仲がいい。両親の喧嘩も見たことがないし、遥香とは年が近いけれど、お互いを煙たく思うこともない。普通よりもずっと幸せな家族だと思う。


「でね、千夏ちゃんっていう先輩がいるんだけど、廊下で会うといつも声をかけてくれるんだ!」


 家族全員で囲む食卓。興奮しながら話す遥香のことを、両親は微笑ましく見ていた。学校のこと、友達のこと、勉強のこと。彼女はいつも楽しそうに報告する。


 一方の俺はほとんど自分のことは話さないが、両親からはとくに心配はされてない。あれこれ質問されるのが苦手なことも、学校生活をそれなりにうまくやっていることはわかってくれているんだろう。


「千夏ちゃんは美人で目立つから、なんで千夏先輩と仲良しなの~?なんて、クラスメイトの友達に聞かれちゃってね」


 遥香は、かなり豊永のことを慕っている。一年生にとって、先輩の知り合いがいるというだけで大きな後ろ盾になるし、豊永は顔が利くほうだから、遥香の味方になってくれてありがたく思っている。


「それなら今度その子をうちに呼んだらいいじゃないか。秋人と同級生なんだろう?」

 

 お父さんがおかしな提案をしたせいで、遥香はすっかりその気になってしまった。


「じゃあ、後で千夏ちゃんに聞いてみるね!」


 豊永をうちに呼ぶ? マジかよ。


 豊永とは冬樹を介して交流しているだけで、友達というわけじゃない。うちに呼ぶのは反対だったが、遥香の嬉しそうな顔に水を差したくなくて黙っていた。


 食事が終わると遥香は決まってアイスに手を出す。そして必ず父さんを共犯にする。思春期の娘と父親がアイスを食べながらバラエティー番組を観ている光景は、どこを切り取っても幸せ以外のなにものでもない。


「皿洗い、手伝うよ」


「あら、塾で疲れてるのにありがとうね」


 俺は腕まくりをして、スポンジに食器用洗剤を垂らす。手慣れたように油汚れを落としながら、テレビよりも小さな声で聞いた。


「最近、遥香、自転車に乗ってるらしいね」


「今まで乗れなかったから嬉しいのよ」


「今日もおつかいを頼まれて、スーパーまで行ったって言ってたけど」


「おつかいなんて頼んでないわよ? でも最近、学校帰りにしょっちゅう出かけてるの。街の探索をしに行ってるんだって」


「ふーん……」


 平静を装いながら、手に力を入れる。柔らかいスポンジがへこんで、汚れた泡が溢れ出てきた。


 俺は冷静になるために、さっさと自分の部屋がある二階に上がった。すぐさま開いたのは、塾で使っているノートだ。勉強に没頭すると、余計なことを考えずに済むから、ある意味自分にとっての心安らぐ手段となっている。そんな中、部屋のドアが軽くノックされた。


「お兄ちゃん、ちょっといい?」


 顔を覗かせてきたのは、遥香だった。


「……どうした?」


「色鉛筆って持ってたりする?」


「マーカーペンならあるけど」


「色鉛筆の茶色だけないかなって」


「ないよ」


「だよね……」


 遥香は昔から絵を描くのが好きだから、色鉛筆を使ってスケッチブックになにかを描いている。まあ、その絵は頑なに見せてはくれないけど。


「必要なら明日買ってきてあげるよ。いつも行く書店にたしか色鉛筆の一本売りがあった気がするし」


「本当に? わーい! ありがとう、お兄ちゃん!」


 遥香の表情と言葉はいつも素直で直結しているので、喜怒哀楽が非常にわかりやすい。一方の俺は人からよくなにを考えているかわからないと言われる。


「ていうか、なんでこんなに同じシャーペンがあるの?」


 遥香は部屋を見回して、ペン立てに並んでいるたくさんの半透明のシャーペンに目を付けた。新品のシャーペンが十本以上も並んでいるのだから、不思議に思うのも無理はない。


「このシャーペンで勉強すると頭が良くなるとか?」


「そうかもな」


「じゃあ、一本ちょうだい!」


「ダメ」


「えーこんなにあるのに?」


「うん、ダメ」


「もう、お兄ちゃんのケチ!」


 遥香はふくれっ面をしながら部屋を出て行った。俺は勉強中にだけかけるメガネをそっと外し、目頭を押さえる。


 この説明しづらい感情には少しずつ慣れてきたが、まだその感情とうまく付き合う方法を見つけられていない。


 ありふれた家族。ありふれた幸せ。なにもおかしいことなんてない。――俺以外を除けば。

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