10
――夜の駅前はいつも騒がしい。飲食店の看板が無数に光り、数えきれないほどの大人たちが通りを行き来している。
それはまるで街灯に群がる羽虫みたいな、あるいは蜜を求めにやってきた蜂みたいな、子供が足を踏み入れてはいけない空気が漂っていた。
そんな雑踏の中、私はとある雑居ビルの前に立った。一階は歯医者、二階はフィットネスジム、三階は結婚相談所、四階はテナント募集で、最上部の五階には、小中高全科目の個別指導塾がある。
暫くビルの前で待っていると、学生服を着た生徒たちが次々とビルの階段を下りてきた。
「は、なんで?」
その中のひとりと目が合って、私は軽く右手を挙げた。
「アッキー、やっほ~!」
「なんでいるの?」
「冬樹からアッキーが通ってる塾の場所を聞いたんだよ」
「だからなんで?」
「ちょっと話せない?」
同じ塾生であろう女子たちが、私たちのことをじろじろと見ていた。「え、秋人くん、女の子といるんだけど」「嘘、彼女? やだあ……」どうやら、アッキーは塾でもモテているらしい。
「……場所だけ変えていい?」
「もちろん!」
近くにも公園があったけれど、アッキーは長話になるのが嫌なのか、人気がない通りの自販機の横で足を止めた。
「それで、なんの用?」
「まあまあ、ひとまず迷惑料として飲み物を奢ってあげよう。なにがいいですか?」
「ブラックコーヒー」
「うえ、中二なのにそんな苦いもの飲んでんの?」
一番下の列に並んでいるコーヒー。おじさんの絵が書かれた真っ黒な缶のボタンを押した。
コーヒーを受け取ったアッキーが缶のプルタグを開ける。砂糖が入っていないブラックコーヒーを躊躇なく飲んでいる彼は、本当に同い年か疑ってしまうほど大人に見えた。
「ねえ、アッキーって夏祭り行く?」
「え、まさか、話ってそれ?」
「いいから、行くか、行かないか」
「行かない。ていうか、塾」
「それって振り替え可能だったりしない?」
「できるだろうけど……。まさか誘われてる?」
「そうだよ。四人で行こうよ」
「四人って誰?」
「私と冬樹とアッキーと遥香ちゃん」
冬樹にわざわざアッキーの塾の場所を聞いたのは、先回りをして夏祭りの予定を組むためだ。今日一日何回も周りの人に対して自分勝手だって思ったけれど、私も十分、自分勝手だ。
「なんで四人? 冬樹とふたりで行けばいいじゃん」
「その冬樹が遥香ちゃんとふたりで行くかもしれないんだよ」
「……遥香と?」
アッキーの表情が変わった。いつも冷静なアッキーだけど、遥香ちゃん絡みになると余裕がなくなることには、もう気づいている。
「遥香ちゃんのことはアッキーから誘ってよ。お祭りはみんなで行ったほうが楽しいでしょ?」
自分勝手を通り越して、私はズルい。
*****
夏祭り当日。小さなお神輿を担いだ子供たちがお昼頃に街を回り、夕方五時頃から駅前で夜の祭りが始まる。私たちもその時間に待ち合わせをしていて、八時から打ち上がる花火を見て解散する予定だ。
「千夏、お昼ごはんにそうめん食べる?」
一階の階段下から、お母さんの声がした。
「うん、二束茹でて!」
「そんなに食べて浴衣着れるのー?」
「浴衣を着る前に食べておかないと!」
部屋の窓から子供神輿の鈴の音が聞こえてきた。
うちの前の道はルートになってないから通らないけれど、おそらく三つ先の通りを歩いて、砂利道の駐車場でひと休み。そこには近所の大人が待っていて、冷えたジュースとアイスをくれる。
私も小さい頃に冬樹と参加した。それで当たり前のように夜も一緒にお祭りに行った。
心はあの日のように躍っている。でも罪悪感も少しだけ残っている。
迎えた夕方。私はお母さんに浴衣を着付けてもらった。女子は浴衣を着ようと約束したので、遥香ちゃんもきっと浴衣を着てくるだろう。
「それ、歩きづらくね?」
うちまで迎えに来てくれた冬樹と合流した。浴衣だけじゃなく髪の毛もセットしたのに、彼は褒めるどころか、私の下駄を気にしている。
「下駄っていうのは、こういうもんなの。冬樹も浴衣にすればよかったのに」
「女子と違って、男が浴衣なんて持ってるわけないだろ」
冬樹は本当に、こういうところが鈍感だなと思う。女子だって、自前の浴衣を持っている人なんて少数だ。私だって、今日のためにレンタルした。
誰かに着せてもらわないといけない浴衣を着て、歩きづらいとわかっている下駄を履いてきたのは、少しでも冬樹に可愛いと思われたいからだ。
でも、冬樹はそんなこと、ちっとも気づかない。
駅前に近づくにつれて、人が増えていく。歩行者天国になっている道にはたくさんの屋台が並んでいて、盆踊りの太鼓や笛の音が響いていた。
「あ、冬樹くん、千夏ちゃん!」
お祭り会場の入口では、先に到着していた遥香ちゃんとアッキーがいた。遥香ちゃんは、ピンク色の浴衣を着ていて、アッキーの服も甚平だった。
「ほら、冬樹も着てくればよかったじゃん!」
「甚平も持ってないっつーの」
「お父さんのがあるでしょ」
「親父の甚平なんてやだわ」
私たちのやり取りを聞いて、遥香ちゃんがくすくすと笑っている。……本当に、可愛いな。冬樹もさぞ鼻の下を伸ばしていると思いきや、遥香ちゃんの浴衣にも触れずに、アッキーと一緒に歩いていってしまった。
「ごめんね、遥香ちゃん。冬樹ってば気が使えないやつなんだ」
「?」
遥香ちゃんは浴衣の感想について、とくに気にしていない様子だった。考えてみれば、浴衣うんぬんの前に、遥香ちゃんは普段から可愛いと言われまくっているから、少しひねくれた言い方をすれば、『可愛い』は一番言われ慣れている言葉でもある。
……私だけだ。こんなに必死なのは。
お祭りには、地元だけあって知り合いがたくさんいた。久しぶりに会う同小の友達や、同じ学校のクラスメイト。この前トラブルになりかけた円香先輩と、彼氏さんの姿もあった。
わいわい、がやがや。お祭りの賑やかな雰囲気の中、冬樹の顔色が少しだけ優れないことに気づいた。
「冬樹、疲れた?」
「ちょっと人に酔った」
「私、水なしで飲める酔い止め持ってきたよ」
「用意がいいな」
「冬樹が必要なものならわかってますから」
冬樹のことなら、なんでも知っている。だって、生まれた時から一緒で、親同士の仲も良くて、十四年の付き合いだから、言葉にしなくても大抵のことはわかってしまう。
だから本当は、今日の冬樹が遥香ちゃんの目を一度も見ない理由も、わかっている。
つねにアッキーの隣にいて、遥香ちゃんに声すらかけないのは、可愛いと思っているからでしょ?
可愛すぎるから、近づけないんでしょ?
胸の苦しさを隠して、私はお祭りを楽しんだ。会場に花火の打ち上げを知らせるアナウンスが流れると、人混みは最高潮に達していた。
花火がよく見えそうな場所に移動しようとした時、アッキーは突然慌て始めた。
「遥香は? 遥香がいない!」
「え?」
たしかに、さっきまで隣にいたはずの遥香ちゃんの姿がなくなっていた。もしかしたら、この人混みではぐれたのかもしれない。すぐに電話をかけてみたけれど、すぐに留守番電話になってしまった。
遥香ちゃんのことをみんなで探すことになったが、人が多すぎて見つからない。辺りをきょろきょろしているうちに、私もひとりになっていることに気づいた。
え、ひょっとして、私まで冬樹たちとはぐれた?
不安になってスマホで連絡を取ろうとしたけれど、手に持っていた巾着がどこにもない。
「え、うそ……」
巾着にはスマホだけじゃなくて、お財布も入っている。どこかに落としたのか、それとも盗まれたのか。パニックになりかけていたら、誰かに手を掴まれた。
とっさに冬樹だと思ったが、私の手を掴んでいたのはアッキーだった。
「これ、豊永のだろ」
アッキーの手には、失くした巾着がぶら下がっていた。どうやら地面に落ちていて、たまたま見つけて拾ってくれたらしい。
「あ、ありがとう。助かったよ」
「遥香はいた?」
「う、ううん。冬樹もいない」
「……途中まで追えてたのに」
アッキーが、小さな声でぼそりと言った。耳はいいほうだから、ちゃんと聞こえてしまった。途中まで追えてたって……どういう意味?
その時、アッキーのスマホが振動した。着信は冬樹からだった。彼はどうやら無事に遥香ちゃんを見つけたようで、二人はかき氷屋のそばにある階段に座っているという。
アッキーと急いでその場所まで行くと、遥香ちゃんは下駄の鼻緒が擦れて、足を怪我していた。
「みんな、ごめんね。モタモタ歩いてたら、いつの間にかはぐれちゃって……」
「わー見事に親指の皮がめくれちゃってるね。かなり痛いでしょ?」
「へ、平気だよ」
「痛かったら痛いって言っていいんだよ」
私は巾着から絆創膏を取り出して、遥香ちゃんの足に貼った。両足ともにかなら赤くなっている。もしかしたら、最初から我慢していたのかもしれない。
ヒューードンッドドン!
そうこうしているうちに、花火が打ち上がった。大砲のような音とともに、大輪の花が次々と咲いていく。
「わ、私のせいで花火が……」
申し訳なさそうな遥香ちゃんを見て、私は首を横に振った。
「ここからでも十分綺麗に見えるから気にしなくていいよ。ね、冬樹、アッキー?」
「「ああ」」
ふたりの声が揃うと、また花火が夏の夜を彩っていた。
花火が終わった後、遥香ちゃんとアッキーとは会場で別れて、私と冬樹は家へと続く道を歩いていた。
「人に酔ってたのは治った?」
「薬のおかげでな」
「冬樹は……遥香ちゃんを見つけるのが上手だよね」
「べつにたまたまだよ」
暗がりでまばたきが見えなくても、私は冬樹の隠し事を見抜いている。彼が遥香ちゃんのことを見つけられるのは――彼女の足跡が見えてるからだ。
冬樹がいつから〈思春期病〉にかかったのかはわからない。でも陸上部を辞めたあたりから、彼は無意識に地面を見ていたり、時には怖がるようにしていることが多くなった。
私に足跡は見えないけれど、冬樹のことならずっと見てきた。
兄妹のように思われていても、いつか私のことを意識してくれる日が来るかもしれない。なにかのきっかけで幼なじみ以上の関係になれる時が来るかもしれない。そんな希望だけは、捨てずにいようと決めている。
「冬樹は、本当に鈍感だよね」
「どこが?」
「全部だよ」
私が〈思春期病〉に気づいていることさえ、彼は気づきもしない。なんで、そうやって隠すんだろう。この前も今日も、遥香ちゃんの足跡を辿ったから見つけられたって言ってくれればいいのに、冬樹は私になにも話してくれない。
私だって、私だって、人混みではぐれたよ。スマホもお財布も落として、泣きそうになった。でも、冬樹は私のことを見つけてくれなかった。
足の指がジンジンしている。痛かったら痛いって言っていいなんて、どの口が言ってるんだろう。
鼻緒で擦れた痛みにも気づいてもらえないくらい、私はいつも冬樹の瞳には映っていない。
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