鈍色の初恋(千夏)
7
昔から性格はいいと言われるし、付き合いやすいとも言われる。
友達の数が多いから、学校でもひとりでいることはない。
だけど、ふとした瞬間に〝自分〟ってなんなんだろうと思う時がある。
学校では価値観や信念を持って、アイデンティティーを探すことを求められる。
そんなの、面倒なだけじゃない?
自分で探すよりも、周りから求められる〝私〟でいるほうが、ずっとずっと楽だ。
「ねえ、武井くんってカッコいいよね!」
グラウンドの一角にある用具室。練習で使った二本の支柱とバーを片付けたところで、森川先輩からそんなことを言われた。
「武井くんって、アッキーのことですか?」
「そう、秋人くん♡ 彼女いるのかなあ?」
アッキーは同級生にもそこそこ人気はあるけれど、とくに三年生の女子からモテている。アッキーは普段、あまり異性と話すことはなく、どちらかと言えばミステリアスだと思われているが、森川先輩いわく、そういう謎に包まれた雰囲気がいいらしい。
「彼女は多分いないと思いますよ。興味もなさそうに見えますけどね」
「じゃあ、武井くんとの仲を千夏が取り持ってよ」
「森川先輩が本気なら動きますけど、私、あんまりアッキーと仲良しって感じじゃないんですよ」
「なら、彼氏くんに頼んで」
「彼氏?」
「中島くん。武井くんと友達じゃん」
「冬樹は彼氏じゃないですよ」
「でも、いつかはそうなるんでしょ?」
「さあ。どうなんでしょうね」
私は笑って誤魔化した。森川先輩はなにかにつけて私たちをくっつけようとしてくる。いや、応援してくれていると言ったほうがいいかもしれない。
カバンを取りに行くために部室棟を目指すと、まだ男子の陸上部員がグラウンドで練習をしていた。
一か月前まで、あの中に冬樹もいた。私は部活を辞めた理由をいまだに聞かされていない。だけど、彼の中でなにかが変わってしまった瞬間なら、知っている。
あれは、春季陸上競技大会春が行われた四月。周囲から期待され、短距離走の優勝候補だった冬樹は、あっさりと予選敗退。その時の彼の顔を見た時、もう勝負の世界に戻る気はないのだろうと悟った。
冬樹の性格は、私が一番よくわかっている。陸上の世界に飛び込んだのだって、周りに言われてなんとなくだったということも。
でも私から見ればそれは惰性なんかじゃなく、走っている時の彼はいつも真剣で楽しそうだった。
だから私も陸上を始めた。冬樹と同じ空気を感じながら、一番近い場所で応援したかった。
でも、彼はもうグラウンドにいない。なんの相談もなしに陸上部を退部してしまった。なにも言ってくれなかったことも悲しかったけれど、それ以上に冬樹の走っている姿が見られないことがショックだった。
みんな、言っている。冬樹は陸上を続けるべきだって。そう言われることを嫌がっていることは知っているけれど、私だって何度も何度も「もったいない」って、言いたくなってしまう。だけど、彼の決意は揺るがない。
冬樹がいないのなら、私も陸上をやっている意味はない。だけど、走高跳びの選手は私と森川先輩しかいないから、すぐに辞めるというわけにもいかない状況だった。
「そういえば、去年引退した先輩の中に〈思春期病〉の人がいたらしいよ。ほら、足跡が見えちゃうってやつ!」
女子陸上部の隣の部室から、話し声がした。テニス部員はお喋り好きが集まっていることもあり、壁が薄い部室では、話が全部筒抜けだった。
「それって精神疾患のひとつなんでしょ。足跡って本当に見えてるのかな?」
「え、虚言ってこと?」
「だってその思春期病にかかってる人にしか見えないんだから、なんとでも言えない?」
「たしかに!」
「見えてるんだとしても、それって幻覚なんじゃないかな。私のいとこに心の病気になってた人がいたんだけど、毎日幻覚が見えちゃって怯えてたって言ってた」
「マジで? こわーい!」
ガンッ! 私は力強くロッカーを閉めた。その音に驚いたのか一瞬だけ話が止まったけれど、またすぐ笑い声に変わっていた。
足跡が見える〈思春期病〉のことは、私もよく知っている。先日クラスで行われた保健学習でも少しだけ話題に上がった。
〈思春期病〉の発症率については、そんなに高くないと言われているけれど、私は他人に内緒にしているだけで、実際はけっこう周りにいるのではないかと思っている。
失敗や挫折、自分自身に対しての攻撃的な気持ちや否定的な評価を持つ自罰感情が、一種の引き金になって発症するとしたら、私だっていつなってもおかしくない。
〈思春期病〉は他人事じゃなくて、誰にでも起こりうること。だけど、足跡が見えるようになってしまったとしても、みんな絶対に口に出したりはしない。
赤なら赤、青なら青、右なら右、左なら左。違う意見を持っていても、違う個性があったとしても、自分を隠して周りに合わせなければいけないことがたくさんある。学校では、とくにそうだ。
*****
「遥香ちゃん、ひとりなの? 家まで送ってあげようか?」
帰り支度を終えて校門に向かうと、遥香ちゃんが男子たちに囲まれていた。また上級生かと思いきや、よりにもよってうちのクラスの男子だった。
「ひ、ひとりで帰れるので大丈夫です」
「じゃあ、ライン交換だけしよ!」
「すみません。ラインはやってないので……」
丁寧に断っている遥香ちゃんに対して、男子たちは空気を読まずに口説いていた。
「こら、しつこい男はモテないぞ」
見るに見かねた私は、遥香ちゃんを守るように間に入った。
「なんだよ、豊永じゃん。邪魔すんなよ」
「こんなところでナンパまがいのことをしてるほうが邪魔でしょうよ」
「べつにいいじゃんか」
「ほら、遥香ちゃんが困ってるからさっさと帰りな。ライン交換は私がしてあげるから」
「豊永のはもう知ってるし!」
なんとか男子たちを追い払うと、遥香ちゃんはすぐにセミロングの髪の毛を揺らして頭を下げてきた。
「千夏先輩、ありがとうございます!」
「ううん。あいつらがまたしつこくしてきたら私に相談して」
遥香ちゃんが行方不明になった日、彼女のことを見つけたのは冬樹だった。河川敷で待っていてと連絡があったのでアッキーと合流したら、ふたりは並んで歩いてきた。
妹のことを叱っているアッキーを横目に、私は冬樹に遥香ちゃんがどこにいたか尋ねた。冬樹は道端でたまたま見つけたと言っていたけれど、それが嘘であることはすぐにわかった。
だって冬樹は嘘をつくと、必ずまばたきが多くなる。どうして、嘘をつくのか。嘘をつくということは、やましいことがあるからなのか。あの日聞けなかったことが、今でも胸の中で悶々としていた。
「なんで放課後まで残ってたの? 遥香ちゃんって、部活に入ってないよね?」
また悪い虫がついたらいけないと思い、私は途中まで遥香ちゃんと一緒に帰ることにした。すっかり夕暮れになった空には、二匹のムクドリが仲良く飛んでいる。
「転入する時期がちょっとだけズレたから、その間にできなかった勉強を図書室でしてたんです」
「アッキーに教えてもらったらいいのに」
「お兄ちゃんは平日ほとんど塾に行っていて忙しいので」
「えっ! アッキーってただでさえ頭いいのに学校が終わった後に塾まで行ってるの? それはヤバいね。将来は博士になる気なのかな?」
「ふふ、千夏先輩って面白いですよね」
「あ、先輩って付けなくていーよ。あと敬語じゃなくて、タメ語でオッケーだから」
「それ冬樹くんにも同じことを言われました」
その時のことを思い出したのか、遥香ちゃんがクスリと笑った。
うちの学校には上下関係に厳しい先輩もいるが、年下に偉そうにしている人はカッコ悪いし、冬樹もそう思っていることも知っている。
だから、彼が遥香ちゃんに同じことを言ったことも安易に想像できるのに、なぜかまた胸がざわついた。
だって、だって、遥香ちゃんが口にした〝冬樹くん〟があまりに可愛すぎたから。
「ね、ねえ、遥香ちゃんって今好きな人いる?」
「え、い、いないよ! 千夏ちゃんはいるの?」
「うん。私はいるよ」
「すごい、大人だ……」
「ふふん。遥香ちゃんより一年だけ人生の先輩だからね」
冗談まじりに胸を叩くと、遥香ちゃんがまた笑っていた。
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