その日の夜。光を反射するリフレクター機能がついているウェアに袖を通す。玄関でランニングシューズの靴ひもを結んでいると、母さんが声をかけてきた。


「冬樹、今日も走りにいくの?」


「うん。いつものコースだから一時間くらいで戻るよ」


「毎日ランニングに出かけるなら、陸上を辞めなければよかったのに」


「これは健康のためのランニングだから。じゃあ、行ってくる」


 暗い夜道は、人の足跡が見えづらくていい。逆に昼間は数え切れないほどの足跡が、俺の目に見えている。


 例えるなら雨上がりの抜かるんだ地面、あるいは雪の日や砂浜につく足跡といえば想像しやすいかもしれない。


 足跡が見えるという現象のメカニズムは今も解明されておらず、わかっているのは、自分の進む道が見えなくなってしまったことで、人が進む道だけが見えるようになってしまうと言われている。


 足跡が見えなくなる方法は、自己肯定を高める、つまりは心を回復させるしかないそうで、主な治療法はカウンセリングだけらしい。


  俺はこの一か月間、自分がかかっている思春期病について色々と調べた。


 地面に着いている足跡は、ずっと同じ場所にあるわけではなく、二十四時間経過すると一旦リセットされる。そして一日の始まりとともに、また人が歩けば足跡が現れるんだとか。


 発症者の中にはわりと楽観視している人もいて、足跡が見えるという現象を楽しんでいる人もいたりするらしいが、俺は正直けっこう参っている。


 黒い足跡は、否応なしに視界に入るし、中も外も他人の足跡だらけで気持ち悪い。 それに、人が進む道だけが見えるようになるなんて、空っぽだと自覚した俺への最高の当て付けだ。


 イライラする。こんな自分にも、ランニングの習慣を辞められないことも、元仲間たちが楽しそうに部活をしてる姿を目にするたびに、心が不安定に揺れて叫びたくなる。


 保健学習もいいけれど、この説明がつかない感情の鎮め方を誰か俺に教えてくれよ。


          *****


「ハア……ハア……」


 ひたすら走り続けたあと、家の近くの公園の前で足を止めた。


 外灯に照らされた公園の入口には、子供の足跡がたくさん残っている。人には歩く癖があるというが、足跡になってしまえば、内股、がに股くらいしか違いがない。


 そんな中、二十四センチくらいの足跡が入口からまっすぐブランコへと続いていた。


 キーキー、ギィーギィー。夜のとばりに響く金属音。人の歩く癖はわからなくても、この下手くそなブランコの漕ぎ方の癖は知っている。


「この時間にひとりで公園にいるのやめろよ」


 視線の先にいたのは、幼なじみの豊永とよなが千夏ちなつだった。


 トレードマークは高い位置で結んだポニーテール。千夏は長袖の俺とは真逆に、半袖、ショートパンツ、サンダルといった夏を先取りしたような格好をしていた。


「だって、夜のブランコ好きなんだもん」


「けっこうヤバいよ、それ」


「おひとつ席が空いておりますが、お客さんもどうですか?」


「誰がお客さんだ」


 同級生の千夏とは、同じ学校だけど違うクラス。お互いの親が学生時代からの友人ということもあって、俺たちは兄妹のように過ごしてきた。


「声変わりおめでとう」


「それ、秋人にも言われた」


「冬樹は今日もランニングでしょ。だったら部活――」


「それもさっき母さんからも言われたばっかりだから言わなくていい」


「えー!」


 千夏の甲高い声が夜空に響いた。彼女は昔から底なしに明るい性格をしていて、よく笑う。幼なじみじゃなかったから陰キャ寄りの俺とは関わりすらなかっただろうと思うくらいだ。


 千夏が地面を蹴ると、また公園にいびつなブランコの音が鳴った。俺はその隣で、空を見上げる。


 黒というより藍色の空には、数える程度の星が間隔を空けて浮かんでいた。夜は生きた匂いがする。と、前に千夏に言ったら『なにそれ』って言われたことがあった。俺もなに言ってんだって思ったけれど、焦燥感を含んだこの匂いは嫌いじゃない。


「ね、ね、昔さ、ブランコに乗って天気占いとかやったよね」


「あー、靴が上向きに落ちたら晴れで、横向きだったら曇り。んで、下向きだったら雨だっけ」


「そうそう。久しぶりにやろうよ。じゃあ、行くよ。あーした天気になーれ!」


 千夏が勢いよくサンダルを飛ばすと、見事に上向きに落ちた。「やった、晴れじゃん!」と、彼女は片足でぴょんぴょん歩きながら、右足のサンダルを拾いにいっていた。


「あ、そういえば、明日女の子の転校生がうちの学校に来るらしいよ」


 サンダルを履き直した千夏が、またブランコに戻ってくる。


「転校生? こんな中途半端な時期に?」


「色んな手続きが間に合わなかったんじゃない?」


「何組?」


「三組」


「え、うちのクラス?」


「あ、二年生じゃなくて一年生みたい」


「なんだ」


「なんだってなに? まさか季節外れの美少女と運命の恋……なんていう淡い期待をしちゃったわけですか?」


「ちげーし。転校生って、だれ情報?」


「森川先輩情報」


「ガチじゃん」


「ガチなんだって」


 森川先輩は、陸上部男子顧問の森センの娘。ちなみに千夏は女子の陸上部に所属していて、種目は走高跳びをやっている。


「森川先輩も冬樹が短距離辞めたこと、もったいないって言ってたよ。森センもかなり冬樹に期待してたみたいだからだいぶ落ち込んでたって。冬樹なら長距離でもいいところまでいくと思うよ」


「俺は陸上には戻らねーよ」


「マジでもったいない!」


「はいはい。帰るぞ」


 千夏の家は、うちと同じ通りにある。公園からだと彼女の家のほうが近いので、俺は玄関先まで送り届けた。


「ありがとう。また明日ね」


「おう、じゃあな」


 暗闇に目が慣れてきたのか。それとも月明かりが色濃くなったのか。地面には無数の足跡が確認できる。日中でも人通りが少ない場所なのに、今日だけでこんなにもこの道を通った人がいるんだと思うと、やっぱり気持ち悪くなった。


 もしも渋谷のスクランブル交差点とか、竹下通りとか、ディズニーランドとか、何十万人が行き来する場所に行ったら、どうなるんだろう。


 絶対に吐く。いや、倒れる。そういうところに行けないと思うと、やっぱりこの足跡が見えるという現象は、戒めの意味も含まれているような気がしている。


 努力することを怠って、走ることを遠ざけて、期待されていた未来を自ら手離した。


 これは、そんな自分への罰なんだ。

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