冬樹ふゆき、俺の英語のノートは?」


 喧騒に包まれている教室で、前の席の生徒がくるりと振り向いた。俺は借りている身でありながら、カバンから取り出したノートを武井たけい秋人あきとの手に素っ気なく渡した。


「なんだよ、機嫌悪いの?」


「……朝起きたら、声変わりしてたんだよ」


 少し前から妙に声が掠れると思っていたが、今日の朝目覚めたら別人みたいに低くなっていた。


「おめでとう」


「声変わりって、めでたいことなの?」


「悪いことではないだろ」


「秋人は、いつした?」


「小五の冬」


「はやっ」


 いや、周りはほとんど声変わりをしてるから、俺が遅いほうなのかもしれない。


 秋人は数少ない友人のひとりで、去年も同じクラスだった。センター分けの髪型がよく似合っていて、同い年とは思えないほど大人びている。


 女子からひそかに人気がある秋人は、顔がいいだけではなく成績も優秀。俺から見れば非の打ち所がないほど、完璧なやつだ。


「それで、ノートはちゃんと写したのか?」


「一語一句ばっちりです」


「次の授業が終わったあとに提出だからな」


「うわ、今日って六時間授業だっけ」


「そうだよ。時間割くらい把握しろよ」


 しっかり者の秋人は、こうして兄貴みたいな一面もあり、俺は宿題を見せてもらったり、忘れ物を貸してもらったりと、日頃からかなり世話になっている。


中島なかじまー!」


 六時間授業を乗り切った放課後。校舎を出て歩いていたら、エナメルバッグを肩にかけた集団に捕まった。


 足元は原色カラーのアシックスやミズノのシューズ。去年は先輩が怖くて選べなかった色の靴を、元仲間たちはしっかりと履きこなしていた。


「このまま家に帰んの?」


「そうだよ」


「帰ってなにしてんの。けっこう暇じゃね?」


「そうでもないよ。漫画読んだり、ゲームしたり、わりと忙しい」


「うわ、いいな~。俺たち今日も例の場所で坂道ダッシュだよ。中島のせいでもりセンからの練習メニューが増えたんだから、責任とるために戻ってこいよ。そのほうがみんなの士気も上がるしさ」


「いやいや」


 仲間だったやつらとの関係は、表面上だけ見れば良好だ。でも、みんなの腹の内はわからないし、俺がいなくなったことでチャンスが増えたと喜んだ人もきっといるだろう。


 俺にとって放課後は、始まりの時間だったが、 今は下校するだけで、放課後という言葉になんの意味もなくなった。


「じゃあな」と、元仲間たちが走っていく。不揃いだけど迷いがない足並みは、陸上部が集まるグラウンドへと駆けていった。


         *****


  ――『中島、短距離走をやってみないか?』


 陸上の世界に飛び込んだのは、小学四年生の時。体育の授業中、陸上クラブの顧問をしていた先生から誘われたことがきっかけだった。


 小四から教科外活動としてクラブ活動をしなければいけないことは知っていたし、とくに入りたいクラブもなかった俺は、二つ返事で了承した。


 元々走ることは、得意だった。運動会でもぶっちぎりの一位だったし、足に関してだけは誰にも負けたことはなかったが、その特技を伸ばそうと思ったことは一度もなかった。


 試しに一〇〇メートルのタイムを計ってみたところ、あっさり十六秒台が出た。これは小四男子の平均より二秒以上も速いタイムで、俺は陸上クラブに所属していた上級生たちよりも期待される存在になった。


 そして、小六の時に全国小学生陸上競技会に出場。十一秒七七という最速記録を更新。現在もその記録は塗り替えられていない。


 それによって俺は、県庁にまで招待されて、知事だというおじさんから激励の言葉をもらったりもした。


『毎日どのくらい練習してるの?』

『ライバルはいる?』

『将来の夢はやっぱりオリンピック選手?』


 大人からされる質問は、大体同じ。正直、練習なんてほとんどしてなかったし、ライバルもいなかったし、オリンピックなんて冗談だろって、鼻で笑っていた。

 

 調子に乗ってた。努力なんてしなくても、結果が出る自分は天才だとおごっていた。


 小学校を卒業して、中学に上がっても陸上を続けた。入部してほしいと顧問から直々に言われたからだ。

 

 順調だった。怖いもの知らずだった。だけど気づくと俺は、思うように走れなくなっていた。


 そうこうしている間に、仲間たちはどんどんタイムを縮めていき、今から一か月前に行われた春の大会。俺は予選すら通過できなかった。 顧問からは怠けていると散々怒鳴られた。


『あいつどうしちゃったの?』

『足でも怪我してんの?』

『もしかしてスランプとか?』


 俺への風向きが一気に変わった。それと同時に、走ることへの情熱も消えた。いや、 そもそも情熱なんてあったんだろうか。周りに流されて、周りに煽てられて、なんとなく走っていた。


 俺は、走ることが好きだった?

 でも、走らない俺には、一体なにが残るんだろう?


 そんな自問をしているうちに、自分が空っぽだということに気づいた。そうしたら、途端に進むべき道がわからなくなった。


 ――その時からだ。が見えるようになってしまったのは。

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