6-7 何処かで聞いたような
はたと我に返ってみれば、目の前には街路樹のある歩道が延びているダケだった。
「・・・・あ、あれ?」
僕は呆然と夕暮れの歩道に独り立ち竦んで居た。こんな所で立ち止まって何をやっているのか。
あの女性も居ないのに。
「え・・・・あの女性って、誰のことだったっけ」
目の前に何かが在ったような、誰かが直ぐ側に居たような気がしたのだが、周囲を見回しても人の気配なんて何処にも無かった。
おでこに手を当てて軽く頭を振ってみる。
いやいや、いったい何を勘違いしている。一人でピアノのチャリティリサイタルを聴きに行ったその帰り道ではなかったか。
何故に女性と同伴などと、そんな益体もない錯覚をしていたのだろう。彼女どころか知り合いの女性すら殆ど居ないというのに。
ひょっとして演奏会場に入る前に何組も見たカップルにでもあてられて居たのだろうか。欲求不満なのか、それともやっかみなのか。
我ながらいじましさに情けなくなった。
でも、この物悲しい喪失感は何なのだろう。
忘れては為らないモノを忘れてしまったような気がする。
失ってはならない大切なものだったような気がする。
だのにそれが何なのかまるで思い出せないのだ。胸の中に感情の残滓みたいなものが在ったのだけれども、それもゆっくりと掠れて消えてゆく感触が在った。
朝目が覚めて、つい今しがたまで見ていた夢が霧散していく様に似ていた。
まったくどうかしている。
生まれて初めてのリサイタルを聞き終えて、どうも酷く感傷的に為っているらしい。
いやそれよりも、今回リサイタルを聴いてやはり僕は音楽が好きなのだと身に染みた。そしてあの大花田のグランドピアノ、あれをどうにかして残せないものかと強い感情が湧き上がっていた。
あの美しい音色、あのままスクラップというのはあまりにも哀しすぎる。
演奏前に奏者も「このピアノの最後の舞台」と少し濁したコメントを差し挟んでいたが、先行きは関係者から聞き及んでいたに違いない。だからこそより強く情感溢れる演奏になり、アンコールの時に少し涙ぐんでいたのではないか。
・・・・穿ち過ぎだろうか。
取敢えず帰ろう。帰ってあのピアノを救える算段を考えよう。何か手は在るはずだ。
そう思ってスマホで時間を確かめた。
「あ、あれ?」
スマホの画面が濡れている。またポタリと滴が落ちて雨かと思った。
いや違う。
僕自身が泣いているのだと気付くのに少しの時間が必要だった。
何故?
理由は分からないけれど込み上げてくる何かがあって、それをどうしても鎮めることが出来ないのだ。
涙は次から次へと溢れて来た。それを拭うのにただ必死で、僕はしばらくその場から動くことが出来なかった。
季節が巡り、また春がやって来た。
日本は四季のある国と言われているけれど、ものの本に寄れば五季とも呼ばれるのだそうだ。春と夏との間にある梅雨とその前後がそれに該当するらしい。それで数えれば一節七十五日という訳だ。
はて、僕はこんな知識何処から拾ったんだろう。ググって調べたにしても、どうして知ろうと思ったのか。
まぁいい。そんな事よりも今日は、朝っぱらからこの土地に在るナントカ云う池の脇にある神社に出向き、毎年やるという例祭に参加しなければならなかった。会社の者が毎年必ず一人参加しなければ成らないという、下らない不文律があるお陰だ。
まったく折角の休日に、何故この土地の者でもない輩が顔を出さねばならないのか。下駄さんがよく「田舎によくある厄介ごとの一つ」と愚痴をこぼしていたが、まさか自分がその災厄を被ることになるとは思ってもみなかった。
「まぁこの工場に勤める者が皆通る道ですよ。ボクも何回か参加しました。嫌がるよりも、話のネタが増えた程度に考えて置いた方が健全でしょう」
渡邉さんはそんなコトを言って笑っていたが、神事なんていう退屈で辛気くさい催しなんてネタにすら成らないんじゃなかろうか。
池の畔にある神社に赴くと既に結構な数の人々が集まっていて、「大花田木工所です」と手水舎の脇にある受付で社名の入った封筒を手渡した。企業による町内祭事献金の受け渡し目録だ。これで取敢えず出すモノは出したから、これで終わりという訳にはいかないんだろうか。
いかないんだろうな、やっぱり。
神主はまだ来て居らず、法被を着た祭り役の人達が境内のアチコチをウロウロしていた。みな年寄りばかりだった。仕事は手慣れてはいるのだろうが、よちよちふらふらと歩く様を見ていると危なっかしくてコッチが落ち着かない。
神社は拝殿が開放されていて、その奥にはご神体を祀っていると思しき祠が見えた。いやご本殿と言うべきだろうか。あの中に下駄さんが見せてもらったと言って居たご神体が在るのだろう。
「きみ、初めて見る子だね」
ぼんやりと拝殿の奥を眺めていたら、不意に声を掛けられてビックリした。振り返って見るとヨイヨイのおじいちゃんがニコニコした顔でコチラを見上げていた。
「御祭神さまを拝みたくはないかね。拝みたいだろう。うんうんそうだろう、特別に見せてあげるよ。こんな時でないと見れないものねえ」
何も言って居ないのに勝手に決め込んで、コッチに来なさいと強引に招かれた後、拝殿に上がった。きっと自分達が奉っている神様を見せたくて仕方がないに違いない。
二礼二拍一礼の後に何かムニャムニャ言って、祠の観音開き格子戸を開けて見せてくれた。
「あ、あれ?」
ご神体が思って居たのと全然違っていたのだ。てっきり木彫りか石造りの像的なものかと思って居たのに、祠の中には極彩色の絵がかかっていて、其処には様々な動物や異形と思しき人じゃ無い何某か、よく分らないモノ達が無数に描かれていたのである。
「春の礼祭の間にしかこうしてご開帳されないんだよ。普段は木箱に入れこの奥の保管庫に安置されているんだ。でないと直ぐに痛んでしまうからね。うん?ああ違うよ、曼荼羅は仏教や密教のものだね。此処では化身の写し絵と呼ばれているよ」
何でもこの町に古くから住む、土地神やモノノケ、人に化ける動物たち、彼らの祭典の様子を描いたものなのだとか。
日本は八百万の神々といってトイレにまで神性があるとされている。動物は勿論、妖怪とか呼ばれる者たちも元を辿れば他の土地の神様だったのかもしれない。
そんな具合に説明してくれた。つまり、あやかしや神さまの境界なんてあやふや、ひいては野生の獣もまた然り。そういう事らしい。
「真ん中に描かれてるのっぺらぼうの女性が見えるかい。おかっぱの子だよ。コレが縁呑みさまだ」
「縁呑み?」
「この町は大昔飢饉や疫病などで、村を捨てた人達が集まって作った村、隠れ里がその発祥と言われているんだ。体裁が悪いから大っぴらにはなっていないけどね。
此処で浮世からの縁を切った人達を、丸ごと全部受け容れて下さった方だよ。
縁を丸ごと呑み込むから縁呑みさま。
苦しい俗世との縁を切る方でもあるから、縁切り、あるいは切り縁さまとも呼ばれているね」
「へ、へぇ」
きりえん、ねぇ。
何処かで聞いたような・・・・
よく見てみると、絵には実に様々なモノが描かれていた。
どんぶり飯を抱えて箸で食べてる大きな猫とか、犬や狸が着物を着て琵琶や三味線を弾いたりしていた。
木琴を叩いている女性の姿の狐も居る。
足元には町を俯瞰したと思しき見取り図もあって、真ん中に高くそびえる塔の上にはとらしまの猫も居た。
随分と賑やかな写し絵だ。
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