6-6 淡い雲が空に霧散してゆくかのように
全てのプログラムが終わってアンコールの拍手の後にホールを出ると、陽は思った以上に傾いていた。
少しお茶でもしようかと思ったのだが市民ホール内の喫茶店は満杯で、仕方がないと外に出た。でも近くに適当な店も見当たらなかったので、術無くそのまま二人並んで駅に向った。
「よいリサイタルでした。まぁ初めて生で聞いた者の感想ですので説得力など無いのですが」
「それを言うのなら僕も一緒です」
在り来たりな感想を口にした後、二言三言言葉を交して会話が途切れた。
彼女の方が頭一つ分高いので凸凹な二人組だろう。それでも端から見たら彼氏と彼女に見られるのだろうか。多分そうなんだろうなと益体もない思いを弄んでいた。
話の穂を思いつけなくてどうしたものかと少し焦れた。
口下手で、異性相手に萎縮する自分が歯がゆかった。もう幾度となく会って知らない仲でもないというのに、自分から誘ったデート(デートだよな?)で、言いようのない気まずさを抱えながら口籠もっている。
こんな不器用な自分が嫌だった。
でも本当は話したい事が在った。取り留めのないこの場限りの雑談などではなく、少し前の夜、おゴンさんと交したあの怪しげな話のことだ。
「何か訊きたいことは在りませんか」
「そんな風に見えますか」
「見えます。訊きたいのだけれども、訊いて良いのかどうかが分らない。戸惑って口籠もっているようにです」
「相変わらず僕の考えて居ることは見え見えなんですね」
「分かり易いですから」
「溜息しか漏れてきません」
「では今回は訊かずに済ませますか」
物言いは軽いが何処か確かめるようなニュアンスがあった。だから少しだけ迷ってしまい、思わず素直な感情の方を優先させてしまったのだ。
「また会えます?」
「啓介さんが望むのなら会えますよ」
その返事に思わずほっとして、次が在るのならその時でも良いかとチラリと考えた。でもその一方で、次というのは何時なのだろうとざわめく不安があったものだから、「今度の週末はどうでしょうか」と訊いてみたのだ。
「残念ながらそれは無理ですね」
「都合が悪いですか」
「いえ。啓介さんがいま望んでいるのが、わたしとの再会では無いからです」
「そんなコトないです。僕はもう一度、あなたに会いたいです」
「嬉しいです。でも、無理なのです。
わたしの役目はわたしと縁を結び、惑ったヒトをあの町に案内することですので。
今の日常に強い未練やこだわり、やってみたい事が在るヒトは『日々の
それがルールですから」
「
「はい。そしてそろそろ時間切れです。来週末はもうアウトですよ」
「待って下さい。まさか、それじゃあもう会えないって事ですか?」
だがその問いかけへの直接の答えはなく、「失敗しました」と苦笑するような笑みが返ってくるだけだった。
「このデート、お受けするのではありませんでした。お陰でわたしの方に未練が募ってしまいましたから」
「僕は嫌です。キリエさんと会えなくなるのは」
「啓介さんは大丈夫ですよ。リサイタルの最中涙をこぼしたのは、曲への感動というよりも、ホールで奏でられていたピアノを惜しむ気持ちからでしょう?あのピアノを残したい、このまま失ってしまうのは心苦しいと感じたからでしょう?」
泣いていたのを見られたと恥じ入る気持ちよりも、ピンポイントで感情を言い当てられたことの方がショックだった。あのピアノの事情を知った顛末は、彼女に何も伝えて居なかったからだ。
「おゴンさんの楽団でコチラ側に気持ちが大きく揺れたと思って居たのですが、よもやまさか逆方向に揺れていたとは。残念至極です。
でも啓介さん自身にはきっと良いことなのでしょう。掠れてしまった意欲や好奇心が戻って来たのですから」
「僕は何も戻って来てません」
「気付いていないだけです。でも直ぐに分りますよ」
「時間切れって何なんです、誰が決めたんですか。要は僕とキリエさんの問題でしょう?ひょっとして、もう会いたくないと言うんですか」
「いいえ、決して。むしろまた啓介さんとふと道端で出会って、アチコチのお店で食事をして暮らしていきたいと思ってますよ。巡っていないお店やメニューは、まだまだ沢山ありますからね」
「だったら、お互いが望んでいるんだったら、時間切れとかそんなの関係無いじゃないですか」
「遠い昔からの規範なのです。人の噂も七十五日、五季の一節が過ぎ日常の理が一巡してしまう時間です。心に残ることが出来る限界と、そう言い換えた方が良いかも知れませんね」
くらりと目眩がしたような気がした。目の前の彼女の印象が、急にぼやけていくような錯覚があった。
「人は別れても縁が消えて無くなる訳ではありません。途切れるのはわたしがこの糸切り歯でかみ切ったときくらいのものです。或いは食べてしまって、お腹に納めてしまった後くらいのものです」
「なに訳の分らないこと言ってるんです。止めて下さいよ、不吉なこと言わないで下さい」
「何時か何処か、何某かの拍子に再び顔を合わすことも在るでしょう。さよならバイバイよ、再び会うときまでの遠い約束、といった趣ですね」
「縁起でもない」
「デート楽しかったです」
「待って下さい」
だが彼女は、にっと笑ったダケだった。
「また、ご縁が繋がることを信じていますよ。それでは、ごきげんよう啓介さん。お身体を大切に」
希薄になった彼女の印象は更に薄くなって、その姿すらも掠れ始めていた。
「待って」と伸ばした手は何も掴むことはなく、ただ虚空をかいたダケだった。
もう一度彼女の名前を呼んだ。
「行かないで」と声を荒げた。
だが返事なんて返って来なかった。
透けて行く寂しげな笑みが在るだけだ。
淡い雲が空に霧散してゆくかのように。
払暁の闇がやがて朝日を浴びて、足元の影に身を潜めるかのように
そしてあの女性は、僕の前から忽然と姿を消してしまったのである。
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