6-5 流れる音色以上に寂しげ

 彼女に出会うことも無いまま、リサイタル当日になった。


 場所と開始時間は確かに伝えてある。

 だが待ち合わせをしていない約束というものは、実に不安を煽ってくれた。来るかも知れないし来ないかも知れない。彼女がスマホを持っているかどうかは知らないが、それでも電話番号は訊いておくべきだったろう。


 そもそも彼女があの町を出て来ることが出来るのか?


 普通ならそんな心配なんてする必要なんてない。でもあのヒトは普通じゃないし、そもそも大勢が居る場所へ出向いて良かどうかも分らない。以前白石さんと出会したときには普通に見られていたから、大丈夫と言えば大丈夫なのかも知れないが。


 まぁ、無理だったら最初から「分りました」なんて言わないだろうし。


 ・・・・言わないよな?


 そして「分りました」はデート承諾しましたという意味だよね。別の意味なんて無いよね。


 そんな自問自答する内に段々と不安になってきた。市民ホール入り口のドアガラスに自分の姿を映して見る。服装は問題無い、はず。

 フォーマルな服だとスーツしか持っていないし、それでデートというのも堅苦しすぎる。でもリサイタルだからな、と何度も悩んだ挙げ句、明るい色のスラックスにブレザージャケットという出で立ちになった。


 着る服でこんなに悩んだのは初めての経験だった。そして開始時間が近づくにつれリサイタルの客と思しき人達がぱらぱらとやって来て、みなホールの玄関を潜っていった。


 その人達の服装はどちらかと言うとカジュアルで、生足出したホットパンツの女性すら居た。確かに真夏日もチラホラあるが随分と気の早い格好だ。流石にソレは砕けすぎだろうと思ったのだが、周囲は特に気にする様子も無かった。


 そして更に見ればデニムパンツにTシャツの男性も居た。自分が考えて居た以上に皆自由な服装をしていた。まるで映画でも見に来たかのような感覚だ。


 もしかすると僕は、ちょっと考え過ぎていたのかも知れない。


 玄関のガラス越しにホールへ入って行く人達を眺めていると、やがてガラスに映った僕の傍らに立つ人影に気が付いた。女性のシルエットだ。はっとして振り返ると「お待たせしました」と笑むキリエさんが居た。


「遅れてしまったのでしょうか」


「いえ、僕も今来たところですから」


 ドラマや映画でおなじみのやり取りだなと思った。

 或いはマンガかアニメか小説か。

 いずれにせよコテコテというか鉄板というか、まさか自分がこんな「如何にもデートの待ち合わせ」といった風情の会話をする日が来るなんて思っても見なかった。


「安心しました。ひょっとして来ないのではと思って居たので」


「そんな失礼なことはしません。キチンとお約束したのですから」


 じゃあ入りましょうかと彼女促すと、ピタリと左脇に貼り付いて腕を絡めてきた。


「キ、キリエさん?」


「デートなのでしょう?」


 そう言って彼女はいつものように、にっと笑った。




 観客席は思ったよりも埋まっていて、僕と彼女は少し端よりの席に腰を下ろした。


「ピアノリサイタルは初めてです」


「実は僕もです」


 左隣の席に座ったキリエさんはワザとなのか、それとも無意識なのか。肘掛けに置いた右肘をぴたりと僕の腕にすり寄せていた。お陰で緊張して身じろぎすら出来やしない。


 開始のアナウンスがあり、照明が落とされて薄暗くなると奏者紹介が行なわれ、当人が壇上に現われて軽く一礼した。

 そして短い歓迎と感謝の言葉の後に演奏が始まった。名前は寡聞にして知らなかったが、パンフレットによると日本や欧州の有名なピアノコンクールで、何度も賞をもらっている奏者らしい。


 難しい事は分らない。でも綺麗な音色だということは分った。

 そしてこのリサイタルに来る前に、他のピアノの音色も聞いておけば良かったと少なからぬ後悔をした。そうしていれば、この大花田のグランドピアノと音の違いを感じることが出来ただろうに。


 今の僕に分るのは、中学生の時に弾いていた伴奏のピアノが実に味気ない音だったのだなと感じること位だった。きっと奏者の腕も多分にあるんだろう。それでも涼やかな音色のピアノだと思った。


 奏者の指が軽やかに白い鍵盤の上で踊る。

 スポットライトの中に照らされた輝く漆黒の筐体が、眩しいほどに煌びやかに見えた。音がホールに響き耳や肌を舐める度に、ゾクゾクとした言い様のない感情が背筋から頭の天辺まで這い上がってきた。


 楽器の王の精緻な機構が卓越した奏者の技量によって滑らかに稼働し、スコアの上に刻まれた音楽を現実のものへと昇華してゆく。

 作曲家の意図はスコアによって奏者に伝えられ、奏者は己の感性と技量をもってピアノへと伝え、そしてピアノは己に与えられたその全能力を駆使してそれら全てに応え続ける。


 叩かれた鍵盤がダンパーを押し上げ、レペティションレバーを介してハンマーが弦を叩く。繰り返し繰り返し、弦は淀みなく振動を続けて絡み合った音を音楽として、聞く者の鼓膜と脳髄を震わせる。


 強く、弱く、激しく、密やかに。緩急静動淀みなく、僅かな余韻すら余さず神経を研ぎ澄まし、隅々まで心配られた音階がこの広いホールの空気を揺るがせてゆく。


 奏者とピアノが一体となって大きな音のうねりと波を伴い、全身を包み込み揺るがし続ける。使い込まれ熟成し、繊細な個性にまで昇り詰めた音色を内封した筐体。

 その実力を惜しみなく発揮し、ホールに詰める人々を音の快感で翻弄する。


 これがこの年を経た楽器の本来の姿なのだ。


 奏者とスコアと共に聞く者の心身を震わせるのが、この世に生まれ出た存在意義なのだ。


 世界の中心はいまステージの上に在る。


 気が付けば涙が一筋流れていた。

 いつの間に僕はこんなにも涙もろくなったのか。昔はもっとこらえ性があったような気がする。恥ずかしかったのでキリエさんに気取られないよう、そっと指先で目元を拭った。


 このピアノにとって最後のリサイタル。その寂寥感が流れる音色以上に寂しげに聞こえた。

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