第六話 ピアノリサイタル

6-1 しかもペアで

 スマホのアラームに起こされて目を覚ませば、いつもの朝に為っていた。


 目覚ましはかけ忘れていたらしく、普段より五分遅い起床だった。だが朝食を摂って出勤する分には何の支障もない。あくまでアラームは目覚ましが鳴らなかった時の為の保険だ。

 本来はスマホの充電切れをフォローする為の目覚ましなのだけれども、これでは本末転倒である。でも大事なのは遅刻を防ぐことだから、まぁコレはコレで良し。


 ベッドの上で半身を起こし、今日からまた仕事か、とげんなりする。


 そして昨晩なんであんな事口走ったのだろうと頭を抱え、独り悶絶する羽目にもなった。久方ぶりの演奏と合奏でテンション高めだったのは間違いない。

 だがそれにしてもだ。今更ながら恥ずかしさに顔から火が出そうだった。


 同性の友人すら誘った事は無かったというのに、これはいったいどういう気の迷いだ。何故この僕に異性を誘うなどという大それた事が出来たのか。教えてくれる人が居れば聞いてみたい気分だった。


 物入れ代わりにしている本棚からチケットを取り出して見た。

 会社の事務所で小売りしていた関係か、手に入れられるのはペアかファミリーチケットのみだった。シングルのチケットが欲しかったのだが、無いモノは仕方がない。渋々ペアチケットを買った。いちいち丸一日を潰し、隣の市にあるチケットショップに行くのも莫迦らしかったからだ。


 だが今にして思えば逆に正解だったのかも知れない。


 いやいや正解って何だよ。


 快諾してくれたから良かったもののアレであっさりキッパリ断られたらどうするつもりだったのか。きっといたたまれなくなって二度とあの町に踏み込みたいとは思わないだろう。


 まぁ別に、今も望んで行きたい訳じゃないけれど。


「・・・・」


 いや、そうでもないな。


 少なくともあのおゴンさんの楽団でもう一度演奏したいとは思って居るし、またキリエさんと食事をしてみたいと思って居る。繰り返している内にこんな日常も悪くはないなと感じ始めている。そんな自分にちょっとだけ驚いた。


 人は非常識な日常でも存外慣れてしまうものらしい。


 何にせよだ。

 勢いで申し込んだデートの誘いは玉砕せずに済んだのだから、素直に歓ばないといけない。羞恥に身悶えしている場合じゃないだろう。手にした幸運に文句を付けたらそれこそバチが当たる。


 顔を洗って着替えて朝食を摂り、歯を磨いて部屋に鍵を掛けると、いつものように駐輪場から自分の自転車を引っ張り出して会社に向った。


 これからまた長い一週間が始まるのだ。




 出社して駐輪場に自転車を駐めた。


 イヤだイヤだと思いながらも、手足は毎日繰り返す手順通り勝手に動いて行く。ヘタすれば考える必要すら無い。身に染みついた習慣というヤツだ。

 ベルトコンベアに乗せられて流れ作業的に進んで行くにも似ていた。便利と言えば良いのか恨めしいと言えば良いのか。いずれにしてもこの辺りは、他のみんなもきっと同じに違いなかった。


 更衣室に入る前にタイムカードを押そうとして村瀬のイチャモンを思い出し、カード差しに戻して職札だけひっくり返した。


 先週も何度かうっかり着替える前に打刻して、村瀬にチクリとイヤミを言われたのだ。全く以て他人のミスには目聡い男である。どうやらいちいち班員のタイムカードを確認しているようだった。

 いや、班長は班員の日報を書いているから目を通すのは当然か。


 吉原作業長が僕らの班の班長を兼務していた時には、此処まで細かく注意はされなかったのに。


 そもそもタイムカードに記録されているのだから、わざわざ日報を書くのが理解出来ない。月末には個人別勤怠時間表を当人が記入して上司提出と為っているのだ。二度手間もよいところだろう。


 電子式のタイムカードにすればペーパーレスに繋がる。記入ミスも防げるしパソコンで情報の一括管理が出来て、事務の作業軽減になるのでは?

 以前課長にそう提言したら「金がかかる」の一言で退けられた。日々事務方の残業代が嵩む方が余程にロスだと思うのだが。


 傍らで会話を聞いていた渡邉さんから、残業時間の日別管理を自分の手元でやっておきたい、そして目に見える別予算というのがイヤなんですよと、こっそり教えてもらった。


「パソコンに記録を残すと工場長まで直通ですからね」


 つまりアラ隠しが出来る余地を残しておきたいというコトらしい。ホント会社というモノは頭悪い取り決めの中で回っているな、と思った。


 そして朝の朝礼を終えて、そこで初めてタイムカードを押し忘れていた事に気が付いた。遅刻になってしまったと舌打ちし、割り切れない気分のまま打刻した。村瀬め、と八つ当たり気味に悪態を付く。そしてそのまま現場へと向った。


 そして、遅刻したぶん残業時間から差し引くと村瀬から言い渡されたのは、次の日の始業ミーティングの時であった。




 その日の終業後、また那須山さんに誘われて以前行った中華料理、麗火苑に入った。「お疲れ」とビールジョッキを鳴らした開口一番、僕はタイムカードの一件を愚痴ったのだが、「まぁ、そういう事もあるわ」と苦笑いされた。


「確かに、僕が不注意だったってダケなんですけれどもね」


 しかしだからといって、全てが全て割り切れるというものでもない。


「働いてりゃ面白くない事は山ほどある。吐き出したいことが在れば幾らでも吐き出せ。そういう時の為に酒の場が在るってもんだ。何処かでガス抜きしなきゃ息が詰まっちまうよ」


 そう言って早速一杯目を空け、追加の生を頼んでいた。相変わらずのペースだ。


「今日は村瀬居ないんですね」


「ああ、誘ったんだが忙しいと断られた。籍を入れるだの嫁さんと一緒の新居探しだので、休日はてんてこ舞いらしい。来月には引っ越したいとも言っていたな。気持ちは判るが随分とせわしないことだ」


 付け出しの枝豆はもう全部平らげていて、那須山さんは追加の料理を選び始めていた。まだ最初に頼んだ餃子と蟹玉が来ていないというのに。


「今夜は何故僕を?」


「ちょっと前までミスが続いて、随分とヘコんでいたみたいだったからな。先日も現場で村瀬と口論してただろう。

 色々と溜まって来ているんじゃないかと思ったんだよ。以前は愚痴すら口にしなくて危うい感じだったが、今日の口ぶりや顔色からすると大分マシになったみたいだな。

 どうした、何か良いコトでもあったか。例えば上手い具合に彼女をデートへ誘う事が出来た、とか。買ったんだろ、チャリティリサイタルのチケット。しかもペアで」


「何故それを知ってるんです」


「事務の山形さんから聞いたんだよ」

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