5-7 ピアノリサイタルに興味はないですか

 柴犬のお面の人に問われて、さっき聞かせてもらったポップスなら出来ると答えた。ならば皆で合せてみようと言われて、おゴンさんと同じピアノパートを受け、五人で演奏した。

 本当に久しぶりでアチコチ音がズレてしまったけれど、「悪くない合奏だった」と皆で笑った。


 なんだかずっと忘れていたモノが、少しだけ戻って来たような気がした。




 喫茶店の外に出ると夜風が気持ち良かった。このところ、日中は暑いほどだけれど、夜はまだ涼しい。でも今はそれが火照った頬を冷ましてくれて、悪くない気分だった。


 別れ際におゴンさんが「またいらっしゃい」と言ってくれて、タヌキのお面の男性が「今度はジャズもやろう」とスコアを幾つか手渡してくれた。練習する場所が無い、と言うと「譜面に目を通すだけでも違うだろう」と半ば押し付けられるようにして受け取った。


「案内、ありがとうございます。でもただ聞いているダケで良かったのですか?」


 並んで歩くキリエさんに問いかけてみた。彼女の言う対価は先程の演奏を見学したいと、ただそれだけだったからだ。僕らが演奏している最中、ずっと店の片隅にある椅子に座ってじっと静かに見学しているだけだったからだ。


「楽しませてもらいました。あんな間近で生の演奏を聴くというのは、滅多に無い体験ですからね」


 そうだろうか。付いて来たいと言った手前、気を遣った物言いをしているダケではないのか。退屈していたのではないか、彼女を置いてけぼりにして僕たち五人が楽しんでいるだけだったのではと、少し申し訳なかった。


「本当ですよ。それに初めて啓介さんの笑顔を見られただけでも、来た甲斐が在りました。演奏、お上手なのですね」


「僕はただの素人です」


 謙遜ではなく心からそう思って居たし、それと同時に今まで彼女の前で笑った事も無かったのかと、少なからぬショックが在った。確かに言われてみれば困ったり感心したりはしたけれど、楽しくて笑った事は無かったような気がする。


 いやそもそも、最近僕が人前で声を上げて笑った事なんてあっただろうか?咄嗟に思い出すことも出来ないなんて、どれだけ余裕のない毎日だったんだろう。


 見上げた夜空は星が非道くキレイだった。周囲に明るい光源が無いから夜空が本当に真っ黒で、散りばめられた星明かりが眩しくって、まるで目に刺さるかのようだ。


「良い顔をしてますね」


 キリエさんの声に左隣を振り返って見ると、にっと笑ういつもの顔が在った。肩が触れ合うほどの距離だ。


「そんな緩んだ顔してました?」


「良い顔と云ったのです、言葉通りの意味ですよ。初めて会った時には生気が無く、虚ろで、死んだ魚のような目をしていました」


「随分ですね」


「タダの例えですよ。それに今は違うのですからそれで良いではありませんか」


いじられているダケのような気がします」


「では悪い気分なのですか?」


「いや、そんなことは無いですけど」


 僕が口籠もるとキリエさんも薄く笑んで黙ってしまい、しばらくの間何の会話も無く静かな夜道を並んで歩いた。若い女性と肩を並べて歩くだなんて、最初の頃は気恥ずかしさがあったけれども今はちょっと違う。


 何と言うか、ほっとする。


 彼女と居ると、アレコレ気負わないで済む柔らかな気楽さが在った。


 家族で散歩している感覚に近かったが、それよりももっと熱を帯びた感情が在った。


 ずっとこのまま歩いて居たいという、決して小さくない願いが在った。


 そしてそんな自分に驚きもするのだ。


 こんな気分どれ位ぶりだろう。

 そう言えば、学生時代に仲の良かった連中とまるで連絡をとっていない事に気が付いた。あの頃は毎日のように顔を突き合せ、暇が在れば部屋に転がり込み莫迦話をしていたというのに。


 レポートの提出期限を明日に控えて皆で集まり、ひいひい言いながら徹夜で仕上げていたのも今となっては懐かしい記憶だった。前期後期の試験の度に、目の下に隈を作って一夜漬けに明け暮れていた。そして試験明けの打ち上げもだ。


 これからどうしようか、卒業したらどうなるのか。アレコレ夢想して、叶いもしないと分っているのに、これからの「もしも」の話に花を咲かせていた。

 趣味のこと、気になって居る人物のこと。些細な日々の不満も在れば、腹を抱えて笑い転げる迂闊な失敗談なども在った。


 息の詰まる毎日に追われてすっかり忘れていた。その事が逆に驚きだった。オーボエを吹くのだってそうだ。夢中で真摯で、あれ程熱心だったというのに。


 あの頃の時間が、そして隣に居て当たり前の連中がどれくらい貴重でどれくらい日々を支えてくれていたのか。今更ながらに思い知った気分だった。


 卒業して直ぐの頃まで頻繁に交していたメッセも、今はもうかなり疎遠になってしまった。あいつらは今何をやっているのだろう。部屋に戻ったら冷やかしがてら、季節の挨拶でも打ってみるか。


「小腹が空いていませんか」


 不意に声を掛けられて我に返った。確かに、数時間前にオムライスを食べたばかりだというのに、何故かちょっと胃袋の辺りが物足りない。


 そうですねと応えたら「この先に知っているお店が在ります」と言われた。そして小さなうどん屋に入った。

 僕は掻き揚げうどんを頼み、彼女は何故かきつねうどんと稲荷寿司、そして冷酒を頼んだ。おゴンさんのお面に触発されたのだろうか。


「うどんとお稲荷さんに冷酒ですか」


「意外と合うのですよ」


 まぁ嗜好は人それぞれ。そして口しかない彼女の貌に、次々に食べ物や飲み物が消えて行くのは見ていて不思議な気分だった。見るのは初めてではないけれど、今夜はその食べる姿が妙に艶めかしかった。


 気が付くと、ピアノリサイタルに興味はないですかと誘っていた。

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