5-3 カーテンが風になびいていた
列車から降り立ち、自分の住んでいる町の駅を出ると小さな吐息が漏れた。
陽はもう大きく傾いて、町は一足先に仄暗くなっていた。稜線に差し掛かっている太陽も山陰の中に沈み、ほどなく夕闇が落ちてくる頃合いだった。
あのピアノの先行きを聞いてやるせない気持ちにはなったが、行ってみて良かったと思った。チャリティリサイタルでプロが弾くあのピアノを聞くのが今から楽しみだった。調律が施された万全の状態でどんな音が奏でられるのだろう。
そして早く帰ってオーボエを吹きたくなったのである。
「でも、吹く場所が無いんだよな」
今から帰っても部屋に着く頃には陽が完全に落ちているだろうし、何より部屋で吹けば、またぞろ隣の部屋の住人から苦情が来るのは間違いない。
人気の無い公園や広場で吹くという手もあるけれど、近隣に民家のない場所なんて田んぼの真ん中か山の中くらいじゃなかろうか。川沿いの堤防や大きな橋でもあればソコでも良いが、この辺りにそんな大きさの川なんてない。
ちょっと捜せば見渡しのよい草むらくらいは見つかりそうだ。だが陽が落ちた後に田んぼのあぜ道や草原で、独り楽器を吹く見知らぬ男性なんて怪しまれそうな気がする。
そもそも田んぼだって私有地なのだ。風で音が乱れてキチンと聞えないのも面白くないし、それにこの季節だと蚊やアブとかが寄ってきそうだ。あんまり歓迎したくないシチュエーションである。
どうしようかと考えて歩いて居る内に、また見知らぬ路地に出ていた。
「あぁ」
力なく頭を垂れて溜息をつく。これで何度目だろう。
もはやお約束だなと思う一方、今回もそうなんじゃないかなという予感はあった。キリエさんだって言っていた、僕が望むとどうやら門は開くらしい。だとすれば今度は何と出会うのだろう。
以前はスマホの充電器で、その前は食事の出来る店だった。その流れでいくのなら今度は楽器を演奏する場所なのだろうか。だとしても肝心の
ダメ元でスマホを取り出したけれど、やはりマップアプリは真っさらだった。やれやれと思いながら、ズボンの尻ポケットから折り畳んだA3サイズの用紙を取り出した。あのブリキの箱型ロボットの店でスマホに写し取った画像データを、あの地の果てにあるコンビニのコピー機で印刷した紙製の地図である。
これならスマホの電源が入ってなくても大丈夫。当てもなく案内不在な路地を彷徨う必要もないだろう。
ただ一つ問題なのは、いま自分が何処に居るのか全く分らないということなのである。
何と言うか、コレもまたしてもという感じではあった。
スマホの方位機能は健在なので方角は問題ない。GPSが無かった時代の船乗り達は、羅針儀だの六分儀だので自分の居場所を測定できたらしいけれど、僕は現代のしごく一般的な若造なのである。そんなご大層な道具は持っていないし、そもそも使えもしない。
だいたい現代日本の民家のある路地で、そんなものを持って歩く人間の方が余程にキテレツ奇っ怪。スキル込みでまず在り得ないと断言できた。
なので先ず取敢えず目印になるものを見つけるコトが先決だ。
町名や番地が分れば一番だが、今までの経験からその幸運は期待しない方が良さそうだ。幸いにブリキロボットの地図には世帯ごとの名字が書き込まれているから、表札や特徴的な道筋でも目標物にはなりそうだった。
うろうろと歩いて居る内に小さな公園の前に出た。
フェンスで囲われた中に砂場と滑り台があるだけの空間で、子供広場と看板がフェンスに貼り付けられていた。
両隣それぞれの民家には猫谷、猫村と表札が見て取れた。
僕は暗くなり始めた路地の街灯の下で地図を広げた。
町の家々は猫山、猫川、猫口、猫﨑、猫島、猫上等々、猫が溢れている。しかも同じ名字の家が何軒もあった。
実に紛らわしい。此処はそーゆー名字の人達ばかり集めた地区なのだろうか。
奮闘すること三〇分。いま居る場所は地図の中央辺りだと知れた。
自分の住む町に続く道は地図上の北側、大きめの通りを抜けた先にある。さほど距離はない。ほっと一息をつく。やれやれである。何故に毎回毎回自分の住んでいる町で迷子にならなければならないのだろう。
それに小さな町に見えるがこうして中々どうして。地図の上で逐一目と指で追い、道筋や世帯名を探し当てるのは骨が折れた。ナビやアプリというものは本当に便利なものなのだなと身に染みた。
スマホの無かった時代の人達はいったいどうやって町を歩いて居たのだろう。自分の住んでいる町でも、日頃行っていない店や場所はいくらでもある。やっぱり今の僕のように常に地図を片手に出かけて居たのだろうか。
見上げた空は濃い群青色に染まっていた。太陽はもう山間に隠れ残光だけがあった。何時ものように帳が降りてきて、何時ものように地面だけが一足先に夜へと堕ちていった。
とぼとぼと暗くなった路地を歩いた。
電柱の街灯がぽつりぽつりと灯り始めていたが、不案内な町を行くには些か心許ない。自分の靴音がやけに大きく聞えた。相変わらず無人の路地だった。通りすがる影すら見かけず正にぽつねんと孤独だけが佇む風景だった。
平日の夕刻ならば買い物を済ませた主婦や、会社帰りのサラリーマンくらい居てもよさそうなものだというのに。
「こういう状況に慣れてしまったというのも何だかなぁ」
少し前にも似たような感想を口にしたような気がする。
でもあの時にはキリエさんが居たし、また彼女に着いて歩くだけ良かったから気分も楽だった。ちょっと前にはとらしまの猫も一緒だった。しかし今は本当に一人なのである。寂しいと感じるのは贅沢なのだろうか。
ふと、何かが聞えた。
気になって足を止め、耳を澄ませた。風の具合だろうか。聞えては途切れを繰り返している。じっと聞く内にそれはピアノの音色だということに気が付いた。
そう言えば、初めてキリエさんと出会った夜も聞えていたっけ。
あの時と同じ人が弾いているのだろうか。
何とはなしに惹かれるものがあってピアノの音色のする方向に足を向けた。すると何処かで見たような路地に入った。ひょっとして以前通った道なのだろうか。それとも似て非なるまったく別の道なのか。
この辺りは似たような町並み家並みで、とんと区別が付かない。
ピアノの音は近付いてきていて、やがて二階建ての家の前で足を止めた。二階の窓から明かりと音が漏れている。窓は開け放しで、半分だけ閉められたカーテンが風になびいていた。
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