5-2 あのピアノの先行き
M市までは列車で八駅ほど。一回の乗り換えと待ち時間を含め一時間半ほどで到着する。
僕の住んでいる土地からだと駅の数は少ない方なのだが、駅と駅との距離が離れているので思いの外に遠出をしているような気分だった。
そもそも一番近い駅まで自転車でも二〇分はかかり、さらに列車は一時間に一、二本しか通らないので、近隣の市のくせに行って帰ってくるだけで丸一日を費やする。
列車を利用する度に、改めて自分の居る土地が辺鄙なのだなと思い知る羽目になった。
そして何より、M市そのものが今ひとつな都市だった。
M市の人口は八万五千人ほど。
乗り替え駅から上り方面に一〇分ほど行けば到着するが、逆に下り方面に新快速で二〇分も揺られれば、隣の県の県庁所在地であるK市に到着する。
K市は人口一四四万人を数え、歴史も古く発展した日本有数の都市だ。交通の利便性は言わずもがな、大都市特有の様々なメリットがある。
それならばM市へ出向くよりも、反対方面のK市へと向った方が都合がいい。M市内に住む住人ですら休日の買い物に出向く程だ。
気楽に行き来出来る都会と地方都市。その格差は歴然といってよかった。
聞いた話ではK市への通勤通学者も多く、「隣県市民」と呼ばれる住民が増えているのだとか何とか。もう完全に隣の都市のベッドタウンと化している。
まぁ市当局としては、取敢えず人口は増えて各種税も落ちるであろうから、悪くはないのかも知れないけれど。
そんな訳でM市は大都市界隈の地方都市を体現した、地味な土地の地味な街だった。
「それでも、僕の住んでいる町よりも格段に発展しているっていうのは、果たしてどう言えばいいんだろ」
独り語ちて見上げる目の前にはM市の市民ホールがあった。
入り口の脇にある花壇やベンチの脇には、意外と目立つ雑草が生い茂っていた。石畳を模したコンクリートブロックの路面は経年劣化で面が荒れていた。
お世辞にも豪奢とは言えない。だがそれなりに、大きなホールとそれなりのイベントを行える広さとを兼ね備えた一端の施設だった。
在り来たりと云えばそれまでだが、しかし地方都市分相応の佇まいと言って差し支えないのではなかろうか。そして再来週には此処で大花田が協賛に名を連ねるチャリティリサイタルが催されるのだという。
下見のつもりで来てはみたもののよく考えてみたら当日でも良かったような気がする。
何しろ乗り替えは一回こっきり。
混み合う時間や方面とは逆向きの普通列車なので、気楽に座って行ける。時間と降りる駅さえ間違えなければ何の問題もなかった。何も貴重な休日を丸一日ツブしてまで来る必要はなかったような気もする。
「ま、来ちゃったのはしょうがないか」
市民ホールに連絡を入れて聞いた話によれば、このホールには大花田のグランドピアノが据えられているのだという。
国内外の一流メーカーではなくて、何故に弱小マイナーなメーカーのものをと思わなくもない。地方企業からの市への後援か、その逆か、あるいは何某かの怪しい話し合いがあったのか。
それとも純粋に音楽活動への篤志からなのか。
真相が何なのかは分らない。だがその話を聞いて、是非とも間近でそのピアノを見てみたくなった。コンサートで使用している最中に近寄える筈もなく、未使用の時ならば見学は出来ますと言われて、居ても立っても居られなくなったのである。
受付に行き、連絡を入れた光島ですけれどもと言ったら、「係の者が参ります」と少し待たされた。
「いやぁピアノの見学者なんて本当に久方ぶりですよ」
やって来たのは中年の男性だった。黒縁の眼鏡をかけて大分頭がはげ上がっていた。案内されたのは小さなホールだった。リサイタルの時には大ホールにまで移動させるのだという。普段は使っていないホールだとも説明された。
「最近は大ホールのほうもめっきり利用者が減ってしまいましてね。ここの維持管理費も莫迦にならず、毎月利用斡旋に四苦八苦ですわ」
そう言って担当職員は、はははと乾いた笑い声を上げた。
「どうします。試弾されますか」
「え、でも予約が必要なのでは?」
それは昨日見たホールのパンフレットに書いてあった。確か時間も決まっていた筈である。
「問題ありませんよ。今日は予定もなく誰も使っていませんし」
そんなアバウトでいいのかなと思ったのだが、弾けるというのなら断る理由はない。
「ただ申し訳ない、調律してないのですよ。大ホールに移動した後に行なう予定だったのでいまは本来の音ではないのです」
それは気楽に許可が出るわけだ。でもまったく触れないよりは余程いい。「お願いします」と言った。
椅子の高さを調整して鍵盤蓋を開けようとしたら目の前に「OOHANADA」のロゴが見えた。OHHANADAでもなければOUHANADAでもない。少なからぬこだわりなんだろう。ピアノブラックの筐体に白の刻印だったが、年月のせいかわずかに灰色がかっていた。
ピアノは本来僕の守備範囲じゃないけれど、ズブの素人という訳でもない。吹奏楽を始めた頃に伴奏専門で弾いていた時期が在った。いまではまったく指が回らなくなってしまったけれど。
それなりに適当な曲を二、三演ったら「やはりピアニストの方ですか」と言われた。
「とんでもない、僕は専門外です。ピアノはちょっとかじっただけで」
「そうでしたか」
小ホールの方は市民の音楽団が時折利用するのだという。そして今回のリサイタルはこのピアノの最後の舞台となるのだと聞かされた。
「これももう市に寄贈されて四〇年になります」
今はまだ現役で使えるのですが、そろそろ細かい所にガタが来始めていましてね。交換部品も尽きてしまいました。
特に響板に使用したニスの劣化が著しくてそれが致命的です。
大花田楽器さんの方でもニスの仕様が分らなくなってしまって、再現不可能なのだとか。このピアノの最大の特徴だったのですが。
なので買い換えることになりました。
とはいえ購入するのも中古なのですけれどもね。H市の市民ホールで使っていたベーゼンドルファーを回してもらえる事になったのです。
入れ替えで向こうは新規購入ですが当方は予算繰りが厳しくて。
「しかしハイエンドの筐体ですから願ってもない話でした」
「これは寄贈だったのですか」
「はい。大花田楽器さんの創業者がこの市の出身者でしたので」
成る程、そういうことだったのかと合点が付いた。
「買い換えと言ってましたが、これはどうなるのですか」
「中古の業者に引き取ってもらいます。しかし事前見積もりではほぼ搬送費と引き取り代金とで相殺されて、ただ同然ですよ。
最初は寄贈先の大花田さんへ返還という案もあったのですが、当方で処理して良いというご返事でしたので斯様な次第と相成りました。
まぁ買い取り手も居ないでしょうし、レストレーションの手間と金額とを考えたら廃棄が妥当でしょうね」
もうどうにもならないのですかと訊いてみたら、使えてあと五、六年程度だろうという。その間にも不具合の出る箇所はあるだろうし、とてもリサイタルやコンサートに使えるレベルでは維持は出来ないのだとか。
学校やピアノ教室へ払い下げても良かったが、コンサートピアノは供給過剰なうえ、サイズと重さが災いして、一般の家屋では受け容れ先が見当たらなかったのだそうだ。つまりもはや用済みで持て余され、行き場をなくした挙げ句の顛末がゴミ捨て場、という訳らしい。
苦笑する黒縁眼鏡が寂しげに見えたのは、僕の勝手な思い込みだったのかどうか。何枚かピアノの写真を撮った後に、再来月までのホールイベントの予告チラシと、リサイタルのパンフレットなどをもらって市民ホールを後にした。
帰りの列車に揺られながら、あのピアノの先行きを思った。
確かに調律が出来ていなかったけれど、弾いた感触は悪くなかった。中学校の吹奏楽部で弾いた頃の記憶なので随分とあやふやだが、あの音楽室のピアノよりは余程に音がしっかりしていたように思えた。
鍵盤のタッチは重すぎず軽すぎず、リアクションは小気味よくて古さなんて微塵も感じられなかった。ガタが来始めていると言われたが、それがとても信じられなかった。素人の僕が言うのも何だけれども、長い間手をかけて丁寧に扱われていたに違いない。
なので惜しいと思う気持ちが強く、それと同時に自分ではどうにも出来ないという寂寥感があった。
オーボエ奏者である自分がピアノを持っていても仕方がないし、引き取る資金も場所も無ければ、そもそも維持することすら出来はしなかった。
現実的な金額で維持が可能なら、市民ホール関係者達も手放そうとは考えなかったはずだ。四〇年もあのホールで使用されていたのだから、愛着を持っている者も少なからず居るだろうに。
そして僕が知らないだけで、世間には似たような境遇の楽器はきっと山ほど在る。
大花田楽器が作ったピアノはいま、全国にどれくらい生き残っているのだろう。
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