5-4 遠い遠い別世界の話
これは何という曲だろう。
僕の知らない曲であるのは確かだ。クラッシックだろうと見当はつくのだけれどそれ以上は分らない。でも、上手いなと思った。耳をくすぐる音階が心地よかった。
ボンヤリと聞き入っていると不意に音は止み、開け放しの窓に人影が現われた。逆光でよく分らない。でも髪は長いので女性であろうという見当はついた。
しかし何と言えば良いのだろう、その人物はキツネのお面を被っていたのである。白い面体には赤や青の隈取りが見て取れた。お祭りの動画や、古い日本映画の一幕などでたまに見かけるカラフルなあれだ。
窓を閉めようとしていたらしい。お面の彼女は僕を見つけ、「あら」と小さく声をあげた。
「我が家に何か御用かしら」
「あ、いえ、すみません。ピアノの音が聞えたもので」
「五月蠅かった?」
「違います、通りがかっただけです。でもつい聞き入っちゃって」
「そう。何だか嬉しいこと言ってくれるわね。あなたクラッシックに興味があるの?それともピアノを弾いてるのかしら」
「いえ、僕はオーボエで」
「まあ、素敵ね。あなた少し時間はある?」
少しならと答えたら「ちょっとそこで待っていてね」と言い残すと、窓が閉められ彼女の姿は消えた。そして少しの間を置いてから玄関のドアが開けられた。
そして出てきた彼女から名刺を一枚手渡された。見ると「けだもの楽団」と書かれている。
「町の小さな楽団よ。音楽の好きな人達があつまったアマチュアの集団。実は管楽器の奏者を捜していてね。週末いつも集まって練習しているのだけれども、良かったら覗きに来てみない?」
時間はいつも今ぐらいで、場所は名刺に書かれている場所なのだという。正直ちょっと心が揺れた。でもしかし、この住所はこの町内のものではなかろうか。
確かに最初の頃とは違って今は紙の地図もある。だから目的地に辿り着くことは出来るだろう。
だが巻き込まれ気味に訪れるというのと、望んだとき望んだ場所に訪れるというのとでは雲泥の差があった。行ってみたいと思っても、約束の刻限に行ける保証は何処にもないのである。
「固く考えなくても結構よ。みんなただ趣味の延長で集まっているだけに過ぎないのだし。気が向いたらで構わないわ。出来ればその時、あなたのオーボエも聴かせてくれたら嬉しいわね」
お面の向こう側に微笑む気配があって、「時間が在れば行ってみます」と返事をした。別れしなに彼女は自己紹介をした。
「わたしのことは皆、おゴンさんと呼ぶわ」
よろしく、と言いスカートの端を指先で摘まむと軽く膝を折って会釈をした。随分と芝居がかっている。そんなお辞儀の仕方を現実で見たのは初めてだった。
「僕は光島です」
「そう。じゃあ、来週末会えることを期待して。またね、光島くん」
ひょっとしてこれも、僕が望んだからこその出会いなのだろうか。
ぼんやりとそんなことを思った。
彼女と別れ、帰り道は少し迷ったがすぐに見たことのある道に出た。猫食堂のある通りだった。営業中らしくのれんが風にはためき、明るい磨りガラスの向こう側からはさわさわとした人の気配が漏れ聞こえてきた。
今から部屋に戻って夕食を作るのも面倒だ。入るかどうか少し迷った後に、思い切って引き戸を開けた。「いらしゃいマセ」と妙なイントネーションの声が出迎え、大勢の猫にまじってカウンターの奥の席に座っているキリエさんが見えた。
手招きされたので隣に座ると、彼女は僕の肩の辺りに顔を近づけ「けもの臭いです」と言われた。しかし猫だらけの食堂で、けもの臭いと言われても返答に困る。
ラーメン屋でラーメンの匂いがすると言うのと同じなのではなかろうか。
そもそもキリエさんに鼻は無いというのに、いったい何処で嗅いでいるのやら。
「浮気しましたね」
そう言ってイタズラっぽく笑うが、何とはなしにまったく笑っていないようなニュアンスがあった。カツとじ定食を頼んで、黙って平らげると「ごちそうさま」と言って店を出た。そして出る直前に、
「来週のこの時間は空けておいて下さい」
と耳打ちされた。否応なしに頷く。有無を言わさぬ無言の圧力を感じたからだ。
そんな訳で今週末は、物理的にも精神的にもイベント盛りだくさんの休日だったのである。
いつも通りの些か憂鬱でどたばたとした一週間が過ぎていった。
相も変わらぬ村瀬の独りよがりな物言いにイラっと来たり、安全第一と宣いながら操業第一主義の課長に腹を立てながらも大きな問題は無かったから、たぶん平穏と言って差し支えないと思う。トラブルが無ければそれが何よりだ。
仕事を終えて更衣室に入ると那須山さんが着替えていた。「お前も上がりか」と特徴的な眉毛をハの字に緩めて疲れた笑みを浮かべていた。
「今週は平和だったな」
「先週がおかしかったんです」
「まあな。それはそれとして知ってるか。村瀬のヤツ、結婚するらしいぞ」
「え、本当ですか」
「驚いたか、オレも驚いた。相手は少し前から付き合っていた専門学校の生徒らしくてな。いわゆるデキ婚らしい。式は挙げなくて籍だけ入れると言っていたな」
「いつの話なんです」
「昨日、事務所の方に村瀬が配偶者届けがどうのと相談に来て、それで皆の知るところとなった。相手はまだ未成年なのだそうだ。なので、しばらくアイツも身辺ごたごたと忙しくなるだろう」
「そう・・・・でしょうね」
「式は挙げなくても会社としてはご祝儀を出すらしい。オレもそれに乗っかるが、お前はどうする。懐具合も厳しいだろうし、無理する必要は無いが」
取敢えず出しますと言ったら、会社とは別に社員一同という形で集金しているのでソコへ一緒に入れてもらえばいいと言われた。
「しかし二十歳そこそこで家庭を持つとはな。あいつも大変だ」
「村瀬は既に二一です」
「似たようなもんだ。光島は村瀬よりも四つ上だったよな。お前はそういうことを考えてないのか。或いは予定とか」
「いえ、まったく全然」
「だろうな、普通はそうだよな。昨今では三十路で初婚というのも珍しくないし、かと思えば村瀬みたいなヤツも居る。人それぞれとはいえ、あいつはちと急ぎすぎだよな。いや、予定外と言った方が正しいのかもしれんが」
何とも返事のしようがなくて苦笑で返した。那須山さんはくつくつと小さく笑っている。そして建て付けの悪いロッカーの扉をばしんと閉めると、「お疲れ」と言って出ていった。
「お疲れさんです」
独りになって着替えを続け、そして程なくして僕も更衣室から出た。
タイムカードを押して職札をひっくり返そうとすると、村瀬の職札がおもて面を向けたままなのに気が付いた。現場には居なかったから事務所にでも入り浸っているのだろうか。籍を入れるだの何だので、会社に提出する書類でも作っているのかも知れない。
面倒なものだな。結婚なんて当人同士だけで片が付くと思っていたのに。
いずれにしても今の自分には夢想だに出来ない、遠い遠い別世界の話だった。
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