4-7 すぐに劣化する

「違うのですか。少なくともわたしはそのつもりだったのですけれども」


 急にそんな風に言われても困る。嬉しくないと言えば嘘になるが正直かなり戸惑った。これは何と返事をすればよいのだろう。違うと言えば失礼になりそうだし、そうだねと容易く頷くというのも軽薄な気がする。


 なので、しばし逡巡した挙げ句、


「次に会うときまでに考えておきます」


 と応えた。


「そうですか、楽しみにしています。それではごきげんよう」


 そして彼女はいつものように、にっと笑って路地の奥に消えていった。すらりとしたその背筋はいつも何処か儚げに見えた。いつも落ち着いていて揺るがず、そして懇切丁寧な物腰とは異なる希薄さがあった。


 それはあの「普通のレストラン」で出会った淡い印象の給仕にも似ている。まるで風に揺らぐ紫煙のように、或いは池に落ちた小石の波紋のように。


 何かの拍子に僕の記憶から消え失せてしまうのではないか。

 突然忘れ果てて二度と思い出す事もないのではないかと、そんな根拠の無い不安に駆られて、非道く落ち着かなく為るのである。


 だからいつも僕は、見えなくなるまでその後ろ姿を見送るのだ。

 確かに彼女は自分が良く知る現実の存在じゃあない。異質と言えば言葉が過ぎるが、少なくとも在り来たりで平凡至極な日常風景とは、半歩外れた世界の住人だろう。彼女が普通ではないのは百も承知。

 でも、もう会えなくなるというのは正直嫌だ。


 まぁ別に、コレが今生の別れという訳でもないのだけれど。


 楽しみにしていますと言ってくれたのだから、きっとまた会えるのだろうけれど。


 それに顔の無い女性に何の違和感も持たなくなった僕も、普通とはちょっと云えないのかも知れない。

 まぁそれならソレでも構わないのだけれども。


 思わず苦笑が漏れた。慣れというのは実に不思議だと思う。それに気さくな知人が増えるのはむしろ喜ばしい事ではなかろうか。彼女は確かに変わっているが一緒に居て不快じゃないし、むしろ逆にホッとする。

 それに何かと助けてもらった恩もあるのだ。


 これを好意と呼ぶのなら、確かにそうなのかも知れなかった。


 短いボブカットの後ろ姿も足音も、全部消えてしまってから初めて踵を返した。後ろでがちゃがちゃとラーメンの器や餃子の皿を洗う音が聞えていたが、足を進める内にそれもやがて遠ざかって聞こえなくなった。

 そして歩きながら彼女の言葉を思い出すのだ。


 受けた不条理の分だけ楽しい事を増やす、とかなんとか。


 うーむ。


 僕はそこまで多趣味じゃないし、次から次へと新しいことに挑戦出来るほどエネルギッシュな訳でもない。

 でも、昔やりかけて中断していたことを、今もう一度やり直してみるというのは悪くないかも知れない。直ぐには、ぱっと思い出せないけれど、お手付きのまま残って居るモノは割と多そうだ。


 見上げる夜空に月は出ていなかった。でも、星は意外にキレイに見えた。


 路地を歩く自分の足音だけがやけに耳に付いた。




 鍵を開けて、音がしないように恐る恐る自分の部屋のドアノブを捻った。


 ひょっとしてもう一人の僕が寝ているんじゃないかと、ちょっと怖かったからだ。


 だけれどもそっと覗き込んだ部屋には誰も居なくて、ベッドの上にもクシャクシャになった毛布があるだけだった。誰の気配も無く、ただ、がらんとした無人の静けさだけがあった。


 どうやら昨日の僕はもう時間を遡った後だったらしい。何だか納得いかないけれど。


 こんな不可思議な現象をまるっと全部受け容れている自分がさらに不可思議だった。そしてひょっとするとキリエさんは僕が僕と鉢合わせしないよう慮って、あの屋台でラーメン談義を繰り広げてくれたのではなかろうか。そんな具合にも思うのだ。


 一息入れるとそのまま風呂に入った。


 朝風呂というのも妙な感じだが思いの外に歩き回って地味に汗をかき、そのままで居る気分じゃなかったからだ。先程ラーメンを食べたばかりなので朝食はミルクを一杯飲んだだけで済ませた。

 カーテンを開けば、窓の外はもうとうに明るかった。




 本日は思わぬ成り行きから思わぬ休日となった。


 溜まっていた洗濯物を洗い部屋の掃除をし、コーヒーを煎れて一服した。時計を見ても八時をちょっと過ぎた頃。こんな時間からボンヤリと呆けるなんて久しぶりのことで、よくよく考えてみたら就職してから初めてのことではないかと気が付いた。


 窓の外を駐車場に停めてあったクルマが出勤の為に通り抜けてゆく。そういえば今日は平日だったのだと改めて感じてまた妙な気分になった。


 しばらくの間、見るともなしに窓の外の風景を眺めていた。テレビの声も音楽もない部屋の中はやけに静かだった。そしてふとオーボエを触ってみたくなった。先ほど屋台で吹いたチャルメラに図らずも触発されてしまったのだ。


 思い立ったが吉日、直ぐさまクローゼットのドアを開いた。奥に押し込んでいたにも拘わらずケースは埃まみれだった。どれ位これを手にしていなかったのだろう。少なくともここ一年来は記憶になかった。学生だった頃には吹かない日などなかったというのに。


 ケースの中の桿体は埃一つ付いてなかった。


 キーは銀色に光っていて納めた時そのままの姿でそこにあった。組み立てて管楽器然とした形を取り戻すと、しっくりと手に馴染んだ。当り前のことなのに何故か嬉しくなった。でも一緒に入れていたリードが割れていたのは残念だった。

 気に入っていたリードだったのに。


 まぁ仕方がない。リードの寿命なんて保って三ヶ月だし。


 封を切っていないリードセットが一緒に入っていたので、出して確かめてみた。一セット五個の中、当たりが一つでまぁ使える物が三つ。一つは外れだった。

 勝率としては悪くないが、どうしてこうもリードは莫迦高いのか。自作した方が断然に安上がりで、自分好みのリードに仕上げることも出来るのだろうが、生憎僕はソコまでの技術がない。


 いや、作ろうとする気概が無いと言い換えた方が正しいのかも。


 二分ほど水に浸け置いた当たりのリードをセットして、試し吹きしてみた。


 音が出る。ああ、と気持ちが華やいだ。久しぶりだ、と思った。


 そして隣の住人はもう出社した後だよな、とベランダに出て隣の部屋との仕切り板越しに覗き込んでみた。

 窓にはカーテンが引かれていた。間違いない、隣人は留守である。少なくとも帰ってくるまで怒鳴り込まれる心配はない。昼間の間なら演奏出来そうだ。ほっとすると何を吹こうかなと思った。


 少し迷った後に「チャルメラ」を吹いてみた。キリエさんの談によれば、楽器の名前らしいからそう呼ぶのは間違っているのだろうけれど、世間一般的にはこのフレーズをそう呼んでいるのだから問題ないと思う。

 チャルメラはやはりチャルメラなのだ。


 でもオーボエの音色で奏でると何とも言えない違和感があって、思わず笑ってしまった。やはりコレは本物で吹くのが正解なのである。


 おふざけでもワンフレーズ吹くと気分が乗ってきて、オーボエのケースと一緒に仕舞い込んでいたスコアを引っ張り出し、オーケストラのソロパートやピアノやバイオリンとの協奏曲をソロで吹いてみたりもした。


 息の余るオーボエはブレスが長くて、高校の時にもよくミスをした。その都度に注意されていたけれど、三年生になる頃にはある程度克服できていた。


 なのにどういうコトだろう。今ではもうてんでダメダメだ。指も全然ついていかないし、以前は得意だった曲目も目を覆わんばかりの惨状である。やはり日々休まず研鑽を積まないとすぐに劣化するのだと思い知った。

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