4-8 田舎もそうとうなもんだ
それでも二、三曲ほどこなすと少し勘が戻って来て幾分聞ける演奏になっていった。大学生の頃に社会人で趣味の演奏家と何人か知り合いになれたけれど、皆昔のようには演奏出来なくなったと自嘲した。
ただの謙遜だろうと思っていたが今なら分る。仕事をしながら練習だなんて簡単にできるものじゃない。
独り身の自分ですらそう思うのだから、結婚して家庭を持てば尚更だろう。ましてや、肝心の演奏する場所が無いのだ。いや、演奏を許される環境が無いと言い換えた方が正しいのかも知れなかった。
学校という狭くて教職員に管理された空間はあまり好きじゃなかったけれど、今更ながらに場所も時間も恵まれた環境だったのだと知った。
次の曲は何にしようかと過去に溜め込んだ楽譜を物色していたら、窓にこつんと何かが当たる音がした。最初は虫か何かかと思ったのだが、立て続けに二回三回と当たると何事かと思う。
窓を開けてみると一人のおばあちゃんがこちらに向けて、何かを投げようとしているところだった。
「やっと気付いたね、あんた」
憤慨しながら手に持っていたものをポイと足元に投げ捨てると、それは小さな小石だった。そんなものを窓に投げつけていたのかと少し呆れた。
「朝からぷうぷう五月蠅いよ。この辺りは静かだからと思って引っ越して来たのに、台無しだわ。周囲の迷惑というものを考えな」
随分と派手な化粧のおばあちゃんだった。
真っ白な白髪はぼわぼわと膨らんでいて、漂白剤にでも漬け込んだかのような白粉で真っ白な顔に、濃い紫のアイシャドウと真っ赤な口紅を塗っていた。
着ているものもピンクだの白のレースだの色とりどりで、これから夜のお仕事にでも出かけるのかと思えるほどの格好だ。
それに朝とか言うけれど、もうお早うございますではちょっと遅いかな、っていう時間帯だ。まぁ確かに午前中であることは間違いないけれど。
「お祭りじゃあるまいし、非常識なんだからね。あたしがレナちゃんの散歩でたまたま通りがかったから言うけれど、此処のご近所さんも迷惑だと思っているに違いないよ」
見れば片手に握ったリード紐の先には小さな白い毛玉みたいな犬がつながれていた。目が合うとひゃんひゃんと情けない声で吠えている。
成る程、このひとは犬の散歩で通りすがっただけという事か。でもこのアパートは路地から枝道を少し入った行き止まりにあって、うっかり入りこむような場所じゃあない。付近に住んでいる人なら尚更だ。
あの、あなたが立っているその場所はここの敷地内の駐車場で、散歩がてら勝手に入り込んでよいところじゃないと思うのですけど。
「ちょっと、あたしの話を聞いてんの。薄らボンヤリとした顔でとぼけているんじゃないよ」
キンキンと甲高い声が周囲に響いていた。元気なものである。この小さな身体でよくもこれだけ大きな声が出せるものだ。
しかし果たしてこの老女の声は、この近隣で五月蠅くはないのだろうか。
口論する気にもなれなくて「分りました」と答えた。注意しますと頭を下げたら気が済んだのか、「これから気を付けなさい」と捨て台詞を残して去って行った。
まったく若い子は躾がなってないとか何とか、ブツブツ聞こえよがしな独り言が路地の向こう側に消えてゆき、そこでようやくヤレヤレと溜息を吐き出した。
そういえば時々此処の駐車場で犬のウンコを見かけた。そして彼女が、飼い犬の粗相を後始末する為の道具を何も持っていなかったことにも気が付いて、もう一度ヤレヤレと肩を落とした。
しかしこれで怒鳴られたのも二度目だ。窓を閉め切っていたというのに、音は思った以上に漏れ出るものらしい。周囲が静かなので余計に目立つのかも知れなかった。
「都会はよく世知辛いとか言うけれど、田舎もそうとうなもんだよなぁ」
SNSでも、田んぼで鳴く蛙が五月蠅いから土地の持ち主は黙らせろとかいう理不尽な話が投稿されていて、非常識だと反対する話題で盛り上がっていた。
僕の体験談もSNSで愚痴ったら誰か聞いてくれるだろうか。
それとも逆に窘められるのだろうか。
演奏の駄目出しは喰らったけれど、以前隣の部屋の男性から怒鳴り込まれた時ほど落ち込みはしなかった。どうあっても、部屋で演奏など出来はしないと改めて身に染みて、何処か別の場所を捜そうという気持ちが湧いて来ていたからだ。
何故こんな前向きになれるのかよく分らない。でも悪い傾向じゃないだろう。以前の自分なら間違いなく、叩かれてヘコんだままであったろうから。
ふと、オーボエのリードは買うのではなく自作してみようかな、と思った。
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