2-8 また途方に暮れてしまう

「わたしはキリエと申します。あなたのお名前をお伺いしても?」


「あ、光島といいます。光島啓介」


「良いお名前ですね。啓介さんとお呼びしてもよいですか」


「はい、それは構いません。ですが、なにキリエさんでしょう。名字は?」


 いや、それともコレが名字なのか。ちらりと思ったが返答はすぐだった。


「キリエです。ただのキリエ。呼びにくいのでしたらのっぺらぼうとか顔無しでもよろしいですよ」


「いえ流石にソレは・・・・」


 慌ててテーブルの上で両手を小さくひらひらさせた。


 いくら朴念仁の僕でも礼儀くらいは弁えて居る。そして先程の思惑は見透かされていたのでは、と少し焦った。何なのだろうこの状況は。


 薄くて固い椅子のクッションは今ひとつ座り心地が悪くて、どうにも落ち着かなかった。いや、それはきっと椅子のせいじゃない。僕は小刻みにお冷やを口にしながら何度も身じろぎをした。


「今日はどうされましたか」


「え、その、どうと言われても」


「日々の生活の中で様々なものがわだかまっているのでは、と。そうお見受けしましたので」


「わだかまり・・・・悩み事ってコトですか?」


「割り切れない気持ちとか、どうしたモノだろうと迷う気持ちとか、色々です」


 そんな事を言われても返答に困る。


「誰だって在るでしょう」


「そうですね。大抵はご飯をお腹いっぱい食べたり、一晩グッスリ眠ったら流れて消えてゆくものです。ただそのコトに気付いていらっしゃらない方も大勢いらっしゃいます」


「・・・・」


「消えないと思い込んでいるから残るのです。思い込みというモノは、良い部分も在れば悪い部分も在りますからね」


 そう言って彼女はまたコップを干し、再び手酌で杯を満たした。シュワシュワと盛り上がった白い泡がグラスの縁で踏ん張っていた。


「今日は今日、明日は明日と割り切った方が建設的です」


「見透かしたような物言いですね。そんなに簡単なモノじゃあないと思います」


 いまの気分でそんな正論を言われても、素直に気持ちへ入ってくれなかった。


「気分を害されましたか」


「いえ」


「この前も申し上げましたが、迷う気持ちは様々なモノを迷わせますので」


 そう言って彼女はまた一口飲み、口の端に付いた泡をペロリと舐めた。


「それともわたしが食べて差し上げましょうか?」


「あの、何を?」


 顔の無い顔がじっとコチラを見つめている。けど、幾ら待っても僕の問いに返事はなくて、しばしの沈黙の後に「酔っ払いの戯れ言です」と笑むだけだった。


 そしてまた、くいっとコップを傾けた。


 彼女がビールを空ける頃に僕の親子丼が運ばれてきて、それからもうしばらくしてから天丼定食が来た。彼女は頂きます、と両手を合わせて味噌汁を一口すすり「食べないのですか」と聞いてきた。


「折角の熱々が冷めてしまいます」


「あ、い、いただきます」


 慌てておてもとから竹の割り箸を取り出し、どんぶりの蓋を取ると、ふあっと湯気が立ち上って卵と出汁の香りが鼻先をくすぐった。


 何処をどう見ても普通の親子丼にしか見えない。覚悟を決めてパクリと食べると、蕩けた卵と柔らかな鶏肉の味がした。

 怪しい某かが盛られて来るのではないかと密かな不安があったけど、ジワリとしたうま味に直ぐさまバカバカしくなってしまった。そして自分でも思って居た以上に腹が空いていたのだと気が付いた。


 そのまま僕は彼女と二人で黙々と夕飯を頬張り続けた。




「ありがとござまシタ」


 会計を済まし、舌足らずの声に送られて店の外に出ると外はもう真っ暗だった。振り返って店の看板を仰いでみれば「大衆食堂」と書かれてあった。そのまんまだなと思った。


 そしてこの前みたいに、振り返ったとたん今来た道や町並みが消えるのではないか。見慣れた道に戻っているのではと仄かな期待があったのだけれども、今晩はそういう訳でもなさそうだった。

 陽が落ちて見知らぬ路地は更に見慣れぬ風景に変わっている。

 ヤレヤレだと思った。


 実は自分でも気付かぬ内に部屋へ帰っていて、ベッドに潜り込み毛布に包まって眠っているのではないか。いまこの瞬間も夢の中の出来事なのではないのか。そう思いたかった。


 だがこの膨れた胃袋は夢幻ゆめまぼろしなどではない。

 親子丼は親子丼の味がしたし、千円札を出して返ってきたお釣りは今も財布の中でジャラリと小さな音を立てている。

 つねる頬はやはり痛くて、額を撫でる夜気はどこか生暖かく、見上げる夜空には星まで見えていた。


 色々なモノがコレは確かな現実なのだと、そう主張して止まなかった。

 そのせいで僕はまた途方に暮れてしまうのだ。

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