1-7 目鼻が付いていなかった
幾つもの落胆を数え、それでも隣接する家の軒先や塀の隙間から、遠くにチラホラと見え隠れするあのパチンコ店のネオンが見える。それを目印に歩き続けた。かなり遠回りになるけれど、パチンコ店にたどり着ければその界隈は見知った道だ。
そしてあの信号機のある丁字路から素直に引き返せば良かったなと、今更ながらの後悔があった。
そうすれば少なくとも、こんな先行きの見えない迷子にならずには済んだものを。そんな迂闊な自分に腹が立った。
そんなやり場の無い苦い憤りを噛みしめていると、ふと、何かが聞えたような気がして足を止めた。
しんとした夜気の中から耳の奥をくすぐる音がする。じっとして耳を澄ましてみると、それは途切れがちなピアノの音だと分った。
遠くから響いてくる為なのか、それとも風向きのせいなのか。音節が切れ切れで、何を弾いているのか判然としなかった。
だがそれでもちょっとだけホッとした。真っ暗な中、延々と路地を歩く自分の足音しか聞えなくて些か物寂しかったからだ。
生のピアノの音色なんて久方ぶりだと思った。そう言えば最近は音楽すらろくに聞いていない。デジタル音源ばかりだが、それでも学生の頃は本棚の片隅で埃を被っている円盤媒体のものも頻繁に再生させていた。
クラッシックやジャズは言わずもなが。ロックやポップスすらご無沙汰で、日常的に耳にするのは切り出し機の切断音や様々な工作機械の騒音、そして現場に出て来ては喚く、いつもご機嫌ナナメな課長の怒鳴り声くらいのものだった。
こんな夜中にピアノの練習か。周囲の住民から苦情は出ないのだろうかなどと、他人事ながら心配になった。
以前、部屋で吹いていたオーボエを「ウルサイ、へたくそ」と罵られたからだ。ドアをがんがんと叩かれて何事かと開けたら隣の部屋の住人が立っていて、開口一番に噛み付かれた。
何というかブルドッグによく似た顔つきの男性だった。
背は僕よりも頭一つ分低かったものの口角泡飛ばし目の色を変えて鼻息荒く、正に怒髪天をつくといった形相だった。しかも至近距離だったので顔に唾がかかった。
男性はひとしきり吠えた後、こんな夜中に騒音迷惑だもう二度とするな、今日は許してやるが今度やったら警察呼ぶぞ、と捨て台詞を残して去って行った。
ハッキリ言って圧倒された。果たして僕はここまで激昂されるほどのコトをやらかしたのだろうか。
窓も閉め切っていたし時間だって二〇時より前だった。深夜と言うにはほど遠かろう。ご家庭で普通に見るTVのヴォリュームよりは大きいかも知れないが、むずがって泣く赤ん坊よりは余程に静かだと断言できる。
でもそれは僕個人の感想で、それ以外の人には我慢出来ない音のようだった。
そして聞きたくない人にはクラッシックですらただの騒音なのだと思い知らされた。確かに学生の頃は下宿用アパートに住んでいて、周囲は同期先輩後輩ばかりだった。漏れ聞こえるテレビや話し声、日常様々な生活の物音で始終賑やかだった。
迂闊と言えば迂闊だったのだろう。
夜陰の奥から聞えて来る微かなピアノの音色は、繊細な演奏だった。
フレーズが断続的にしか聞えないけれど綺麗な音だと思った。弾いているのは誰なのか。そしてどの家だろうと頭を巡らし音に釣られて、ついと特徴の無い小さな四つ角に踏み込んだ。すると唐突に明かりを見つけたのだ。
それは左手の路地の奥に見えていて、商店と思しき間口からの照明だった。
看板の照明が暗い路地に白い光を灼き付けていた。何だか場違いなくらいに明るかった。だが今はその眩い違和感が嬉しい。ナイス、と心が躍った。
まだあの店が営業しているのなら道を聞くことが出来る。僕は早足で夜道を照らす店の前へと歩み寄っていった。
見上げた看板は随分と古びていて「雑貨店」と書かれていた。ぞんざいな店名だなと思いもしたがそんな事はどうでもいい。そろりと引き戸を開けると、からからと軽い音と共に引き開けることが出来た。そのまま間口から声を掛けた。
「御免下さい」
天井から丸い笠を着けた丸い蛍光灯が一つだけ下がっていて、たよりない灯りで店内を照らしていた。その奥からは明かりが漏れている。TVのものと思しき声も洩れ聞えてくるから在宅なのは間違いあるまい。
少し待ったが返事はなかった。
でもその代わりに小さな蠢く影が明かりの中から這い出してきた。
猫だ。店の入り口から少し離れた場所でピタリと立ち止まると、金色の目がじっと僕を見つめ返していた。しかしそれきりで、奥から誰かが出て来るような気配は微塵も無いのである。
もう一度、今度は声を大きめに御免下さいと言った。そして道を尋ねたいのですが、と言葉をつなげた。そして自分の声の大きさに少し気まずくなった。深夜と云うには少し早いが、それでもこんな夜更けに大声を張り上げるのは憚られる。
なので、店内に入ってみようかと引き戸の中を覗き込んだ。
その刹那である。
「道に迷ったのですか」
不意に真後ろから声を掛けられて、思わず飛び上がりそうになった。
ほんの一瞬前まで誰の気配も無かったからだ。しかも声はほぼ耳元で、近いにも程があった。パーソナルスペースなんてガン無視、あと一歩離れていても何も問題無いだろうに。
「あ、はい。この辺りは来たことがなくて」
返事をしながら振り返り、そして今度は絶句した。
僕の背後に立っていたのは背の高い女性だった。それは良い、誰か道を尋ねたい人に会いたかったからだ。
だがしかし、その顔には目鼻が付いていなかったのである。
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