第一話 入社おめでとう
1-1 この無駄に融通の利かない自分
そこは地味な町の地味な工場だった。
材木の製材と加工を専門にした木工所だった。
どうだ、と胸を張れるようなものじゃない。
工場内は静かだった。簡易の防塵マスクと洗いすぎて色褪せた作業着を軽く叩くと、細かいおがくずが宙を舞った。
「光島、もう上がっていいぞ」
掃除道具入れに箒とチリトリを押し込んでいると作業長から声を掛けられて、僕は「はーい」とくぐもった返事をした。マスク越しで声が通りづらいが聞えた筈だ。
やれやれと小さく溜息をついて、現場の、遙か高い柱の上に貼り付いている時計を見上げた。時計の針はいつもの時刻を指していた。
上司からはよく残業を減らせと言われている。でもそれなら仕事も減らせと言いたかった。
集塵サイクロンのポストパージが終わり、ダストファンのVプーリーがゴトゴト音を立てて惰性運転から完全に止まると、工場の中はようやく静寂を取り戻した。耳障りな喧噪から急に静かになるものだから、耳がおかしくなったのかなと思う瞬間である。
本来ならばここでサイクロンの真下にあるダストボックスを引きずり出して、溜まった塵だの埃だのを外にあるフレコンバッグに詰め込む作業が残っている。
だが作業長が「週明けで良い」と言ってくれたのでそうすることにした。
腰を伸ばして仰け反るように背伸びをすると、首の付け根から腰骨までがゴキゴキと音を立てた。うーと呻く。見上げた工場の場内灯がやけに眩しい。そして天窓の外はもう真っ暗だった。
「やっと終わった」
簡易の防塵マスクを外し、いつもの台詞を吐いて僕は溜息を吐いた。
手洗いがてら洗面所の鏡を覗いてみれば、丁度マスクの形に四角く跡が付いていた。うっとうしいけれど着けていないよりはきっとマシなんだろう。
作業標準にも「現場作業者は作業中、マスク着用のこと」と記されている。でも大抵は汗を吸って息苦しいと着けない者が多かった。
現場のリーダーからして着けないものだから下で働く者もまた同様、右に倣えだ。几帳面にルールを守っているのだけれど、何故か現場ではポツンと浮いていた。
正直、何をやってるんだろうと思わなくもない。
同期で入った村瀬という男が居て、よく僕と引き合いにされた。
村瀬は高卒なので大卒の自分よりも四つ年下なのだけれども、自分以上に随分と上手くやっていた。
ヤツは誰とでも直ぐに仲良くなった。
口が達者で気さくに話し掛けてくる。良く言えばコミュニケーション能力に長けた人物。悪く言えばなれなれしくて些か礼儀に欠ける若者といった所だろうか。
生真面目な年長者からは目上の者への敬意が足りないと苦言をいただいている様だが、大多数からは飾り気のない物言いと、その明るい性格が好評だった。
そしてまるで物怖じしないものだから、この工場の中ではもう親しくない者の方が少ないくらいだ。
ベテランから何だかんだと仕事のツボどころを聞き出して、そして直ぐに実行に移してゆく。失敗してもびびらない。「スイマセン」と軽く笑って再チャレンジする。そして数回繰り返しただけであっと言う間にコツを掴むのだ。
お陰で見る見る内に仕事が出来るようになっていった。勘所が良いというか、説明されてそれを呑み込み自分のモノにする術に長けているのだ。今では僕以上に様々な仕事を任されるようになっている。
そして先日、廊下の掲示板に村瀬を僕が属する班のリーダーに任命するとの内示が張り出された。つまりこれからは彼が自分の上位者になると言うわけだ。
たまたま一緒にその掲示を見ていた蔵本という先輩の作業者から、「差が付いたな」と小声で嫌みを言われた。自身と同じ高卒の者が、大卒である僕を追い越したことが痛快であるようだ。
確かにこの内示には少なからず驚いたが、さもありなんという気持ちもあって地団駄踏むほどのコトじゃない。何とでも言ってくれと云う気分だった。
出来る人間は評価される、ただそれだけの話だと思った。
やはり村瀬も職場の大勢と同じくマスクは着けておらず、この間なども「真面目ですねぇ」と片頬で笑って肩を竦められた。
何と返事をしてよいのか分らず、ただ苦笑で返した。でも口元が完全に隠れていたからきっと伝わらなかったに違いない。
僕が同じ職場の皆と距離感があるのは自覚している。自分は口下手で、顔見知りの相手にも話し掛けるのを躊躇するような性格だ。村瀬のようなコミュ力に富んだ者を羨ましいと思ったことは一度や二度ではない。
「あんたは決して間違っちゃいない。真面目なのはイイことだよ」
そう言って軽く肩を叩き、マスクを外さない僕を慰めてくれたパートのおばさんが居たが、その人もやはりマスクは着けていなかった。
どうやら社会では学力学歴一般知識なんて殆ど何の役にも立たず、むしろ周囲との意思の疎通の方が余程に大事、らしい。
ルールは大事だが作業を滞らせない事の方がもっと大事。四角四面では仕事にならないということらしい。でもその辺りの機微がいまひとつよく分らなかった。
ようは正しい正しくないではなくて、周囲に馴染んで円滑に物事を進められる方が重要で、しかもソレは仕事の出来不出来にも直結するようだ。
そうと気付いたのは入社して一年が過ぎた頃のことだった。
だが判っている。気付いたからといってソレが出来るとは限らなかった。人の性格はそうおいそれと変わらない。
沢山の失敗には、か細い成功体験も複雑に絡み合っていて、よろしくない部分を捨てると大事な部分まで一緒に消えて無くなる気がするからだ。
心機一転、思い切って全てを振り払うには相当の勇気が必要だった。
世の中には自己啓発本に始まり、「新しい世界に踏み出そう」的な威勢の良い物言いはよく見聞きするけれど、失敗した後のフォローなんて何も考えないからこそ無責任なコトを言える。所詮は部外者の物言いだ。
そう思わずには居られなかった。
成功する者が少ないからこそそんな本が売れるのだろうし、世の中はきっと失敗で満ち満ちているに違いない。
そして鏡の中の顔を眺めて、この無駄に融通の利かない自分に溜息をつくのである。
光島啓介二五歳。あと四ヶ月で二六歳。三流大学出身で取り柄はなし。彼女も居ない。何処にでも居る在り来たりな若いオスだが、この顔この名前この年齢このスペックの日本人男性は、間違いなくこの世で僕一人だけだろう。
だからといって特別なコトは何も無いのだけれども。群衆の中に紛れてしまえばもう見分けなんて付かなくて、きっとウォー○ーを捜せよりも遙かに困難な作業に違いない。
「もう入社して三年になるのか」
遂に三年と言えば良いのか、それともまだ三年と云えば良いのか。
表現し切れぬ気持ちを声には出さないまま独り語ちてザバザバと乱暴に顔を洗うと、襟元に押し込んでいたタオルを引っ張り出して顔を拭った。
タオルに染みこんだ自分の汗が、饐えた臭いを放っていた。
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