第8話 野良猫の描いたネコ

 翌朝。


 ドライヤーで髪をセットしていた私の目に飛び込んできたのは――首に描かれた、ちょうちょの落書き。


 バタンッ



「誰ですか! 私の首に”ちょうちょの落書き”をしたのは!」

「……それよりもお前の寝相だよ。どうなってんだよ、首折れるかと思ったぞ!」


「ぐっ、また寝相の話ですか!

 じゃなくて! それよりも”ちょうちょ”です! どうやって書いたんですか、消えませんよ⁉」


「ペンじゃねーもので描いたのは間違いねーよ。それより寝相だっての!」

「まだ言いますか!」



 今まで同じベッドで数日寝た事はあったけど、ベッドが広すぎて私が寝相悪くても気づかれることがなかった。


 近寄られても、必死に逃げて、二人の距離は常に開いてたし。だから、そう。これは仕方ないんだ。



「早く逃げなかった皇羽さんも悪いですよ⁉ 寝てる私の傍で、何モサッとしてたんですか!」

「! なんでもねぇよ……」

「(お、急に大人しくなった)」



 どうやら何かやましい事をしていたらしい皇羽さんは、痛い所を突かれて静かになった。


 よし。大人しい今のうちに、皇羽さんの手首の湿布を貼りなおそう。ついでに何かマークを書いとこうかな。ちょうちょの仕返しに!


 そして私は、今日こそ学校に行くんだ!

 現在、朝の七時半。がんばれ、間に合う!



「ところで皇羽さんは、何時の電車に乗ってるんですか? 調べたところ、私の学校、皇羽さんの学校と近いみたいで。駅も一つしか違いません。

 だから、日によっては一緒に行ける日もあるんじゃないかと思うのですが」



 皇羽さんの手首の湿布を、新しいのに貼りなおしながら提案する。


 だけど皇羽さんは「あ~」と言って湿布が貼られたのを確認した後、自室のレバーに手を掛けた。

 そして、レバーを回す直前に、私へ目を向ける。



「いいのか? 学校、遅れるぞ?」

「本当に話題を逸らすの下手ですねぇ……って! しまった!

 今日は早く来てくれって担任の先生から言われてたんでした! では皇羽さん、いってきます!」


「ん、いってらっしゃい」

「(ピタッ)」



 何気なしに言った挨拶。

 当たり前のように玄関を開けようとする手。


 全部全部、特別な事なんて一切ない――はずなのに。



「……萌々? おい、どうした。早く行けよ」

「……っ、はいはい。言われなくても!」



 バタン



「~っ、うっ……ぐす」



 ドアを閉めて、扉を背にして……思わず泣いてしまう。

 だって、私に「いってらっしゃい」って言ってくれる人がいるなんて。


 いつぶりだろう。

 目を見て、家の中で挨拶を交わせるのは……いつぶりなんだろう。



「久しぶりの学校だってのに……」



 朝イチで涙で顔をグチャグチャにしてしまった。

 あぁ、もう。何やってるの私……!


 急いでふき取らないと!とハンカチを出そうとした、その瞬間。


 ガチャと、後ろから音が聞こえる。それは、当然。皇羽さんの部屋の扉が開く音で……



「忘れ物」

「え……?」



 皇羽さんはそう言って、櫛で溶かしただけの私の髪を一つに束ね始めた。

 ん? え、皇羽さん? 何をやってるの?


 不思議に思っていると「出来た」と耳の近くで皇羽さんの声……。いや、無駄に声が良いから困る……!



「皇羽さんどうしたんですか! 急にビックリしますよ……⁉」



 急いで距離をとって、扉とは反対側の壁にペタリと引っ付く。


 すると皇羽さんは玄関扉に寄りかかり、腕組みをして私を見ていた。そして、



「萌々の可愛さが世界一だって……周りの奴らに見せつけねーといけないだろ?」

「別に世界一でもなんでもないんで、無駄な努力をしなくていいです。で、何をしたんですか?」

「……可愛くねー女」



 皇羽さんは「フン」と不機嫌に鼻を鳴らした後、何事もなかったかのように扉を閉める。


……え?

 本当に閉めちゃった⁉



「な、なんだったんだろう、一体……」



 呆気にとられていると、ゆっくりと扉が開く。もう一度。そして皇羽さんが顔だけだして、一言。私の目を見て、こう言った。



「行ってらっしゃい、萌々」

「……に、二回目ですよ? 皇羽さん」



「挨拶一つでお前の泣き顔見れるなら、俺は何回でもするけど?」

「ヘンタイの化身ですね、もう……。

 いってきます!」



 私が無事にエレベーターに乗り込んだのを見て、皇羽さんは玄関扉を閉める。

 一方の私は、エレベーターの鏡で、さっき皇羽さんが私に何をしたのだろうと、確認していた。


 見ると…



「わぁ、可愛いヘアアクセ……。それに、ちょうちょの落書きの所に絆創膏が貼ってある……なんで?」



 はは~ん、あれか。落書きしてごめんなさいって言う、せめてもの罪滅ぼしか。……いやいや。



「こんな事するくらいなら、最初からしなきゃいーのに。本当に皇羽さんって、分けわからない」



 だけど、思い返すと思わず笑ってしまいたくなる、二度の挨拶。きっと皇羽さん、私が喜ぶと知っててやったんだなーと……簡単に想像がついた。



「口では変なこと言うくせに……実は優しい、よね?」



 そして私が皇羽さんを見直した、約一時間後。

 私は――信じられない物を見てしまう。



「えー今日からウチのクラスに転校してきた麗有皇羽だ。皆、仲良くするように~」



「キャー! カッコいい~!」

「 Ign:s のレオじゃん!違うけどレオじゃん!」

「レオー! こっち向いて―!」

「キャー! レオくーん!!」



「皆~さっきも言ったように、この子はレオじゃなくて皇羽だからな。わざと間違えないように」



 そう言った担任の言葉をしっかり聞いたクラスの女子たちは、再び「レオ―!」と声を揃えて皇羽さんを見た。


 だけど、皇羽さんは無の表情一つ変えずに、ペコリと浅く会釈をして、自分の席に進む。



「(いや、それゼッタイ印象が悪いから! レオに失礼なんじゃ⁉)」



 と心配した私の気持ちは無駄だったようで。


 女子達は尚も目をハートにしながら「クールなレオも素敵」、「俺様な言葉で罵られたい……」とため息を漏らしていた。


 ガタン――遠くの席に座る皇羽さん。


 ウチの学校の制服に身を包んでいる姿を見て、やっとあの時の疑問に納得がいった。



――ん? 男の子用の制服もある。よく見れば、鞄も教科書も……全部二つずつ?



 あの時見た制服は、皇羽さんのだったんだ!私、気づくの遅……っ!

 いや、でも普通気づく⁉ しれっと転校してくる? 何の目的があって⁉


 あ、それに!


 朝、電車の話をした時に、不器用に話題を逸らしたのも……自分がここに転校してくる事を内緒にしたかったからなんだ!



――何時の電車に乗ってるんですか? 日によっては一緒に行ける日もあるんじゃないかと思うのですが

――あ〜……いいのか? 学校、遅れるぞ?



 同じ学校なら、いつも同じ時間の電車に乗れるもんね…。



「(もう皇羽さんのバカ~! せめて家にいる時に話しておいてくれても良かったじゃん……!)」



 すると、一限目開始のチャイムと共に、皇羽さんがガタリと席を立つ。

 ん? どうした?


 前かがみになって「いかにも腹痛を患っている病人」を装っている皇羽さんは、こんな事を口にした。



「あの、俺……今日は、早退します。体の調子が良くなくて……」

「(まさかの病人設定⁉)」



 なぜ⁉

 皇羽さんが元気なのは、パッと見れば分かる。朝も、私の寝相について怒鳴ってたくらいだし。


 それに、あの白々しい顔!

「早く帰りたい」っていう気持ちが滲み出てる!

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