第3話 親側の気持ち
陽介少年が、自分のことを、
「天才だ」
と思っていた理由のもう一つとして、
「子供の立場から見て、親の気持ちが分かる」
と思ったからだ。
大人がそんなことを聞けば、
「そんなの分かるわけはないじゃないか? それこそ思い上がりも甚だしい」
と思うに違いない。
だが、本当にそうなのだろうか?
子供がこれだけたくさんいるのだから、大人の気持ちが分かる子供がいてもいいのではないだろうか?
世の中には、
「超能力者」
というのがたくさんいるという。
むしろ、超能力と呼ばれるものは、実際には皆持っているという考え方だってあるではないか。
というのも、
「人間は、脳の一部しか使っておらず、それが全部使えるとすれば、それこそ、エスパーのようになれるのではないか?」
と言われているではないか。
だから、頭の使える部分が多いという人も稀ではないと思えば、
「大人の気持ちが分かる子供がいても、別に不思議なことではない」
といえるだろう。
特に、人間というのは、
「遺伝」
というものがあり、それをつかさどっているのが遺伝子というものである。
この遺伝子は、親から子に受け継がれていくもので、実際にはそれだけではなく、その人の人間性を、遺伝というものだけでなく、オリジナルに形成されているところがあれば、それも、
「遺伝子の働きだ」
といってもいいだろう。
だから、自分の先祖から脈々と受け継がれてきた遺伝によって、その記憶が遺伝子の中に刻み込まれているとすれば、ご先祖様の、
「子供に対しての気持ち」
というものが分かる思いも受け継がれているのかも知れない。
「大人になると、子供の頃に感じた思いを、いつの間にか忘れてしまう」
と感じるのだが、それは、
「大人になるにつれて、長い者には巻かれるというような感覚になるからではないだろうか?」
と感じるのだ。
確かに、
「大人になるということは、まわりのことであったり、まわりから見る自分たちのことを考えないといけない」
ということになる。
「世間体」
などというのが、その代表例であるが、子供の頃に、その
「世間体というもののために、親は子供をしかりつける」
ということが分かっていれば、その理不尽さというものが、子供の意識の中で残るので、
「親になったら。自分は子供に対して。そんな世間体のために、優先順位を考えた時、子供を下にしたりはしない」
と思うはずだ。
しかし、実際には、世間体というものを最初に考えてしまい、子供の行動で、大人が恥をかいてしまったりするのだ。
特に、昔の母親が子供に説教する時、
「お父さんの顔に泥を塗るようなことはしないで頂戴」
とよく言っていたではないか。
それを子供心に、
「理不尽だ」
と思っていた。
大人になってからその言葉を聞くと、
「母親というものが、責任転嫁をしている」
としか思えない。
というのは、
「説教するのだから、母親は子供と向き合うのが当たり前で、向き合う態度を子供に示さないと、子供がいうことを聞くはずがない」
ということになるのだ。
自分の説教に正当性を与えたいということで、
「父親の威厳」
であったり、
「世間体」
というものを持ち出すのは、
「その言葉を免罪符にして、母親は自分の正当性を訴えようとするのは、
「卑怯である」
と子供だから気づかないと思っているとすれば、それは、子供を舐めているのであり、もっといえば、
「自分から、子供を遠ざけている」
といえるかも知れない。
「自分の思い通りに操りたい」
という感情がある反面、子供が怖いのか、自分から、距離を取って、そのうえでマウントを取ろうとするのだ。
そうなると、見えてくるのは、
「矛盾」
と
「理不尽さ」
ということになるのであろう。
子供というものが、どういうものなのか?
ということを考えると、
「最終的な優先順位を間違えると、自分がマウントをとれなくなる」
ということで、子供に恐怖を感じるのだろう。
「引きこもられる」
あるいは、
「暴力を振るわれる」
などということになれば、完全に、親はどうすることもできない。
「部屋の前に、食事を置いておいて、ある程度の時間が来れば。それを下げに行く」
というような、情けないことしかできない。
しかし、それは自業自得であり、小さい頃から、子供の気持ちを考えていなかったりすると、結局は、
「子供の気持ちを考える機会はいくらでもあったはずなのに、その機会をことごとく失ってしまった」
とすれば、
「それは親の責任」
ということであり。
「親子は、交わることのできない平行線」
となるだろう。
テレビドラマなどでは、
「親子の絆は、何よりも強い」
というようなドラマを作るのが多かった。
特に、昭和の頃は、青春ものであったり。家族団欒の光景が、当たり前のようであった。
しかし、時代が、それを許さない。
青春時代の青少年の物語だとすると、昭和の、
「スポーツ根性もの」
というのはありえない。
青春ものなどにしようものなら、
「まず視聴率は得られないだろう」
視聴者からすれば、
「そんな甘い戯言のような時代があるわけはない」
ということになる。
昭和の頃も、
「不良問題」
であったり、
「登校拒否」
「いじめ問題」
などがなかったわけではないが、ある程度片付いていた。
「苛め」
というのも、そこまでひどいものではなく、
「中学生でいじめられていたとすれば、高校生になった頃には、自然とその子に対しての苛めはなくなり、逆に仲良くなったりということが多かっただろう」
それは、虐められる側も、
「自分に悪いところがある」
ということが分かるからであるが、
「平成から、今に至るまでの苛めというのは、もっと陰湿で、虐める側としても、何が原因でいじめているのか分からないというようなことが平気であったりしているのだ」
苛めている側が分からないのだから、そりゃあ、どうすることもできないだろう。
虐められている側も、相手がそんな理不尽なことだから、自分がいじめられる理由が分かるわけはない。
何といっても、相手に理由が分からないわけだからである。
ただ、確かに、
「理由はないが、無性に腹が立つやつはいる」
というのは、今も昔の同じだろうが、それでも、理由が分かってくるようにいなれば、苛めも自然となくなるだろう。
昭和の頃は分かっていたのだろうが、それ以降は、どんどん分からなくなってきたのか、それとも、
「理由など、そもそも関係ない」
ということなのか、
つまりは、
「相手を虐めるということが、自分たちの正義だ」
と勝手に思っているのではないだろうか?
不良問題というのは、そもそもが、教育現場側が作り出したものだった。
というのは、学校教育というものが、
「戦後、日本が復興して、世界に乗り出していくために、子供の間に、世界に通用うする、生徒の平均学歴を上げる」
ということが、
「至上命令」
のようなものであった。
昭和の、
「高度成長期」
というものは、
「スポーツ根性もの」
であったり、
「青春ものの学園ドラマ」
が多かったりした。
「努力は必ず報われる」
あるいは、
「スポーツを奨励することで、スポーツ界も、世界に通用するレベルの選手を作り上げる」
などということが行われていた。
特に、当時は、
「野球」
などというスポーツがそうだった。
「プロ」
と呼ばれる競技は、基本的に、野球しかなく、サッカーの、
「Jリーグ」
などというものも結成されていなかった。
だから、スポーツものというと、確かに、テニス、バレーなどのように、マンガになってはいたが、圧倒的なものは、野球だっただろう。
特に、
「高校野球」
というものは、その頂点のようで、
「甲子園」
というのが、
「野球の聖地」
となっていた。
だから、高校野球をテーマにしたものも多く、春と夏の甲子園というと、皆が注目するものになっていた。
だから、皆、
「甲子園に出場するために一生懸命だ」
ということである。
しかし、出場だけではダメで、読者とすれば、
「全国制覇」
を期待して読んでいる。
当然のごとく、
「優勝」
という結末は決まっていて。そのためにその過程でいろいろな人間模様であったり、気持ちの中の葛藤というものがあったりして、それが、裏でどのようなことをやっているか?
ということは、マンガで描かれることはなく、どちらかというと、学園ドラマの方で描かれることが多かった。
平成になっても、
「一人のカリスマ教師を主人公にしたドラマやマンガがあった」
昭和の頃の学園ドラマとは、かなり様相は違う。
昭和の頃は、やたらと、
「青春」
というものが、
「汗と涙」
というものの代名詞だということになっていて、今から思えば、
「何か臭いセリフ」
であったり、
「そんなこと今ではありえない」
と一蹴されるというのが当たり前のことのようであった。
時代というのは、
「一度流れ始めると、その流れを止めることはできない」
ということであるが、実は、
「周期になっていて、数年経てば、また戻ってくる」
ということで、それが、
「ブーム」
というものであったりするのだ。
だが、同じブームでも、時代背景が違うので、前のブームを知っている人から見れば、
「何かが違う」
と感じることだろう。
言葉は同じでも、内容が違う。
そんなこともたくさんあるというものだ。
昭和の頃の、
「負の遺産」
というものが、今の時代の負債となっていることが結構ある。
政治でいえば、
「国の借金」
が、今のツケということになり、当時の政治家は、
「責任を取らずに隠居していった」
ということであろう。
スポーツ界、特に野球界などであれば、
「野球留学」
などというものがそうだったであろう。
それは、甲子園に出場するために、高校がスカウトを使って、中学で有望な選手を全国で探し回ることで、その生徒に対して、推薦入学を持ち掛け、他に行かないようにもしていたということである。
もし、自分の学校に来てくれないと、その逸材が、他の高校に行くことになり、敵になってしまうと、こちらの大きな損失である」
ということになる。
そうならないように、自分の学校に引き入れて、即戦力として使うのであれば、これほど、
「甲子園に近づく」
ということはない。
だから、学校は、
「特待生扱いとして、学費免除、成績が悪くとも、進級は絶対」
ということにしておけば、心置きなく、野球に専念できるということになるであろう。
しかし、それはあくまでも、
「野球ができる間だけ」
ということになる。
当然学校側も、契約書には、
「野球部で選手として活躍できる間」
という条件での、特待生扱いであろう。
生徒とすれば、
「野球ができなくなる」
などということを思ってもいないので、その条件に飛びつく。
「親がそれに気づかないというのは、どうしたものか?」
とは思うが、結局、
「子供の熱い思いに負けた」
という形で、入学するだろう。
これは、
「チャレンジ」
という意味で、
「リスクも伴うが、本人としては、頑張りたい」
ということで入学する。
しかし、練習についていけなかったり、途中でけがをしてしまったりして、しかも、そのケガが、選手生命に支障をきたすものであれば、生徒のショックは測り知れないだろう。
だが、もっとひどいのは発行側で、
「野球ができなくなってしまった」
ということで、契約通り、
「野球ができないのだから、授業料免除、進学が絶対という条件はすぐに反故になる。さらには、寮も追い出されることになり、一般の学生と同じ扱いだ」
となると、
「ずっと野球だけしかしていなかったということで、学校の勉強についてこれなくなる。それまでのプライドも自信もすべて砕け散り」
そうなってしまうと、
「どうすればいいのか分からない」
ということになる。
いまさら、親に、
「学費を出してくれ」
とも言えないし、学校にいけば、今までちやほやされていた分、
「なんだ、あいつもう野球ができないんじゃないか」
ということで、誰も見向きもしなくなる。
それどころか、劣等生の烙印を押されることで、学校にもいられなくなる。
当然、友達も離れていき、結局退学ということになるのだが、生徒によっては、
「不良の仲間入り」
ということになり、
「どんどん堕ちていく」
ということになるだろう。
その堕ちていく過程において、学校では先生たちが、まるで、
「腐ったミカン」
という発想から、
「優秀な生徒から切り離そう」
とするのだ。
今までは、優先順位が最高位にいたのに、
「野球ができなくなった」
ということで、最低になり、
「完全に、クラスの中で浮いてしまった存在」
ということで、かばってくれるはずの先生が、完全に敵認定ということになってしまうのであった。
そんな生徒は、どうしていいのか分からなくなり、街のチンピラの仲間入りをしたりして、
「反社」
と呼ばれるところに身を落とすということになりかねない。
それを、平成の学園ドラマでは浮き彫りにしたりしたのだ。
「時代背景は、その当時なのだが、テーマとしては、昭和の頃の学園もの」
果たして、この時代錯誤がドラマとして成立するかということであるが、やはりそこは、
「ノンフィクション」
としては見ることができず。
「空想、あるいは理想として描かれているだけだ」
ということになるだろう。
そういう意味で、大人から子供を見ても、子供から大人を見ても、それぞれに、
「理想と空想」
というものの合間にいて、
「現実と妄想の区別がつかない」
ということになるのではないか?
と考えるのだ。
だから、平成からこっちの時代では、
「一度親子の間に亀裂が走ると。それを修復することはできない」
ということになる。
もちろん、ある程度までは、回復はするだろうが、
「元には絶対に戻らない」
ということになるであろう。
ただ、それは、昭和の頃の親子関係もそうだったのではないかと思えることであり、ただ。勘違いであっても、勘違いのままの親子関係が、支障をきたさずに行けるというのが、昭和の時代だったのだろう。
しかし、平成からこっちは、そういうわけにはいかない。
亀裂が走って、
「元には戻れない」
ということが分かってしまうと、
「誰もが意識してしまう」
ということになり、それを修復するということができなくなるのである。
平成以降の人たちは、それを当たり前のこととして受け入れるのだろうが、昭和を知っている人からすれば、理不尽に感じることだろう。
それは、昭和のドラマを見て育った人たちからすれば、完全に洗脳されてしまっているといってもいい。
特に、昭和の時代は、今の時代に比べて、
「プロパガンダ」
というものが大きく、教育方針などの例としてもそうなのだが、国家体制が、国民全体に周知されなければいけないということで、
「プロパガンダ政策」
というものが、当たり前の時代だったのだ。
昭和の時代は、それでよかった。
平成になり、それまで神話と言われてきたことがことごとく、
「夢幻だったんだ」
ということになると、世間が信じられなくなる。
「銀行が潰れるわけはない」
「終身雇用、年功序列」
というものが崩壊していく。
これらは、悪いことではないのだが、それが、
「バブルの崩壊」
というものから出てきたものなので、ひどい影響を世の中に残すことになるのであった。
「バブルの崩壊」
というものを、誰も分からなかったというのは、やはり、
「神話を誰もが信じて疑わなかった」
ということからであろう。
まさか、本当は分かっている人はいたのだろうが、それをいうと、世間が大混乱となり、もし、神話の崩壊がなかった場合、自分がウソつきとして、世間から葬られるというのが怖かったということもあるだろう。
それを思うと、世の赤というものは本当に恐ろしいといってもいいだろう。
もちろん、子供に親の気持ちなど分かるわけはない。だから、こういうことは、
「妄想でもできるわけではない」
といえる。
しかし、これは、
「自分が大人になった時、子供の時のことを思い出そうとして思いだすかのようなイメージで考えた」
ということである。
それがたまたまヒットしたというだけで、ある意味、
「デジャブの逆:
といってもいいかも知れない。
「見れるはずがない将来のことを、まるでタイムマシンか何かで見てきたかのような発想が浮かんだのではないか?」
というようなものである。
デジャブという感覚は結構あるのだが、それに対しての証明はされていない。
だから、ほとんどの人は、
「その感覚は、何かの錯覚だ」
と思うことで、
「その根拠を知りたい」
と思うのだった。
「根拠さえあれば、容易に信じることができる」
という感覚で、
「1+1=2」
というのもそうだったのだ。
「根拠がないから信じられない」
ということであるし、
「根拠があれば、簡単に理解できたのにな」
ということであった。
いや、根拠がある必要はない。
「納得させられる」
という必要はないのだ。
「自分が納得できればいい」
ということで、根拠らしいものを探したが見つからなかったというような事実があればそれでいいのだった。
「見つかる見つからない」
というのは、絶対条件ではない。
問題は、
「見つかるかも知れないものを、最初から探そうとしない」
ということに問題があるのだ。
簡単にあきらめるということに対して、
「その他大勢」
という考え方が含まれているような気がして。それが嫌なのであった。
というのも、陽介少年は、
「人と同じでは嫌だ」
という考えを持っていた。
それがどういうものなのかというと、
「長いものには巻かれろ」
という考えが嫌いだというのがまず一つ。
さらに、人に考えを合わせるということは、
「平均的になんでもこなせる」
ということは、
「社会人として当たり前のことだ」
というようなことを考えているという人間が嫌いだということである。
この考えは、父親の考えだった。
まるで、
「昭和の頑固おやじ」
を彷彿させるもので、テレビを見ていて、芸術家だったり、実業家などが、髭を生やしている姿を見たり、スポーツ選手が、髪を染めていたりするのを見て、
「汚らしい。よくあんな不潔な恰好をしていて、仕事ができるな」
というようなことを言っているのを見るからだった。
今時、そんな、
「化石のような言い方をする人がいるなんて」
というほどである。
その発想は父親ではなく、祖父の時代であれば、
「ギリあるかも知れないな」
と思える。
嫌、爺さんでもそんなことは言わないよなと思うというものだ。
ただ、爺さんは、そんなことは言わなかった。今も存命ではあるが、
「確かに年を取って丸くなったかも。知れないが」
という発想はあるし、
「孫の前だから」
ということもあるのかも知れない。
さらに、
「祖父を見ていて、父親を見ると、逆なら分かるが」
と感じるのだ。
それは、子供だから感じることなのかも知れない。それだけ、
「気持ちが素直で従順に受け入れることができる」
ということから考えられることなのかも知れない。
そういう意味で、
「一周回って、元に戻る」
ということで、
「祖父から半周回ったのが父親で、父親からまた半周回って戻ってきたのが自分ではないか?」
と思うのだ。
もちろん、それが、
「同じところに戻ってきた」
ということになるのであろう。
ということは、
「自分の息子は、父親のような大人になってしまうのかも知れないな」
と考えるのだ。
つまりは、
「それぞれの親が生まれてきた子供とまったく逆の性格を、自分の底に持っていて、それが、反面教師であるかのように見ることから、半周まわるという発想になっているのではないか?」
ということが考えられるというっことである。
「反面教師」
という言葉を、中学生になって聴いた時、結構早い段階で、
「ああ、子供の頃に感じたことがあったな」
とその時のことを思い出し、言葉は知らないまでも、発想だけはできていたということに気づいたのだった。
というのは、
「反面教師という発想を知らなければ、中学生になって、そう感じたことを思い出すこともないだろう」
といえる。
思い出せるということは、それだけ、
「反面教師というものが、半周まわるという発想と同じところに戻ってくる」
というものであったり、
「普段なら忘れてしまいそうなこと」
というものを、
「よくこんなに覚えていられたものだ」
と考えるからなのであろう。
それを思うと、
「後になって思い出すというのは、デジャブであり、この感覚と似たものだということになると、デジャブというものも、以前に見たことがあるようなと思ったその時に、反面教師として思い出すことになるのではないか?」
と感じるのではないかと思うのだった。
これも、
「根拠というものが曖昧なため、自分でも、デジャブというものを、今は、自分なりに理解するしかない」
ということになるのであろうと思うのであった。
そんなことを考えていると、
「これは、自分の気持ちのようにヵンが得ているが、ひょっとすると、大人の側から考えるという発想の、遺伝子による、考え方の伏線のようなものではないだろうか?」
と感じるのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます