第2話 何かのきっかけ
陽介が、自分のことを、
「天才だ」
と自分で言っていたのだが、世の中というもの、
「口に出していれば、それが本当のことになるのかも知れない」
ということで、ことわざとして、
「ウソから出た誠」
という言葉がある。
ことわざだけではなく、童話の中にもそういう話があり、それこそが、イソップ寓話の中にある、
「オオカミ少年」
の話のようではないか。
これは、心理的な話として有名なもので、
「一人の羊飼いの男の子が、ウソをついて、オオカミが来たといって、村人に触れ回ったので、村人はそれを信じて警戒するが、それが徒労に終わった。それを少年が繰り返しているうちに、誰も少年を信じなくなり、そのせいで、いずれ本当にオオカミが来たのに、誰も信じないので少年を助けなかった。そして、村の羊は、すべてオオカミに食べられてしまう」
という話である。
この話には、いくつかの教訓が含まれている。
「人間は、何度も同じウソをつかれてしまうと、もう誰も信用しなくなる」
という教訓である。
もう一つは、ことわざにある、
「木を隠すには森の中」
という言葉で言われるように、
「何かを隠そうとする場合、つまり、ウソであることを隠そうとする場合は、本当の中に紛れ込ませるのがいい」
ということに付随する考え方ではないだろうか?
そんなことを考えると、
「一つの寓話の中にも、いくつかの教訓というものが含まれている話があり、それは、最初から、
「教訓を複数入れよう」
という考えから生まれたものなのか?
とも考えられる。
というのは、例えば、ミステリー小説などで、
「完全犯罪」
というものを考えた時、何とか、いくつかのトリックを組み合わせて、完全犯罪を完成させようとすると、
「却って、どこかから隙が生まれるようで、うまくいかない」
と考えられるような気がする。
考えてみれば、犯罪を行う時、
「どうしても、一人ではできない」
ということで、
「共犯者」
というものを探して、仲間に引き入れるということが往々にしてあるが、犯罪としては、
「共犯者が多ければ多いほと、犯罪や真相が露呈してしまわないとも限らない」
ということである。
共犯者というのは、いくら、
「同じ目的に向かって進む仲間だ」
ということでり、目的は一緒であっても、その理由が同じではないので、時が進んで行ったり、捜査状況が進んでいくことで、事件の進展が変わってくるということも多いことであろう。
それを考えると、
「事件というものは、相手、つまり警察の捜査が、自分たちの犯罪計画どおりに動くとは限らない。何といっても、相手は、捜査のプロであり、犯罪者が行った犯罪に比べて、警察が検挙した数は、お話にならないくらいに多いことだろう」
といえるのではないだろうか?
犯罪者と警察の関係というのは、ある意味、
「いたちごっこだ」
といってもいいだろう。
一般的な、
「殺人事件」
などというのとは違い、最近増えている、サイバーテロであったり、詐欺事件などというのは、その多様化というのが叫ばれている。
特に、
「コンピュータウイルス」
というものがその例とすれば、一番適切なものではないだろうか。
「コンピュータウイルス」
というのは、パソコンや、ケイタイ、スマホなどに、ネット回線を利用して、以前であれば、
「メール」
であったり、今だったら、
「ラインや、DM」
などと言った個人に対して、
「直接送り付けるもので、そこから貼られたリンクで、他のサイトに誘うと、それに引っかかった人がクリックしてしまうと、そのサイトからウイルスが侵入し、個人情報などが抜き取られる」
という被害を受けることになる。
しかも、個人情報の中には、他人のIDが含まれていたりして、その人にも、ラインやDMでまるで、
「自分から送り付けられた」
わけなので、
「友達からの連絡」
ということで、クリックしてしまう可能性があるだろう。
そうなってしまうと、
「パソコンであったり、スマホの中にあるいろいろなIDの変更を余儀なくされる」
ということになり、大変な手間もかかるし、
「誰に送られたか分からないDMなので、実際に繋がっている人皆に、注意喚起をするという必要に駆られてしまう」
ということである。
今は、情報が回っているので、
「不審なリンクをクリックしてはいけない」
あるいは、
「送り付けてきた人間に確認する」
ということが必要になるだろう。
これが、企業で起こったことであれば、本人がいくら、
「知らなかった」
といっても、実際に被害が出てしまうと、
「ただでは済まない」
ということになりかねないだろう。
だから、ソフト会社では、
「そんなウイルスの駆除を目的としたソフト開発」
ということを行い、
「そういう不審な連絡を駆除する」
という目的で販売することになる。
しかし、ウイルス開発をしている方は、
「駆除ソフトよりも強力なウイルスソフトを開発し、送り付けてくる」
ということになるだろう。
だとすると、
「こちらは、それ以上の駆除ソフトを作る」
ということで、結局は、
「いたちごっこになる」
ということである。
まるで、
「東西冷戦時代」
における。
「核開発競争」
のようなものではないだろうか?
核開発戦争というのは、一種の、
「抑止力を含んだものだったのだ」
といってもいいだろう。
原爆ができた時、政治家や科学者の間では。
「これで戦争はできなくなった」
と感が合えた人もいるだろう。
「一発の核爆弾が、敵対する相手国の中枢を完全に破壊する」
これは当たり前のことだが、逆にこちらが打ち込めば、相手も打ってくる。というのは当たり前のことであり、それは、
「実に虚しいことではないか?」
と感じるのだ。
というのも、
「どちらかが先制攻撃のボタンを押せば、相手も、ミサイルの発射ボタンを押す」
この瞬間に、この二つの国は、世界から消えてしまうといってもいいかも知れない。
だから、
「戦争はできなくなった」
といえるわけで、この力が先制攻撃というものができない。つまり、完璧な防御を敷いているので、手出しができないというわけだ。
しかし、それは、表面上のことであり、実際には何が起こるか分からない。
もっとも、核の発射ボタンは、例えば、大統領の一存ではどうすることもできなかったり、ボタンを大統領が推したとしても、他の議員など数人が推さない限り、
「核ミサイルは発射しない」
ということになっているはずである。
しかし、実際には、戦争状態にでもなると、何が起こるか分からない。ちょっとした偶発的な事故で、戦争が一気に緊張状態をはらんでしまうと、本当に書くが発射されかねない。
そんな状況が生まれるのが、戦争というもので、誰が、それを予期できるかということになるだろう。
それを考えると、
「核の抑止力」
というものが、
「紙よりも薄いものではないか?」
ということを感じるようになる。
つまりは、
「核の抑止力」
というものが、本当の平和をもたらすというのは、迷信でしかないのではないかということであろう。
それを思い知ると、
「戦争はできなくなった」
という言葉があったが、それが、迷信であるとも思えてきた。実際に、
「直接、超大国が対峙してしまうと、本当に核戦争になる」
ということで、地域紛争であれば、超大国が出ていくことはないのが本当なのだろうが、なぜかアメリカは絡むのだ。
やはり、
「世界の警察を自認しているからなのか?」
とも思えるが、戦争の形態も変わってきているというところもあるのだろう。
「超大国同士の戦争」
というよりも、
「テロ活動」
などというものが多く、それだけに、とらえどころのないということで、却って、
「難しい戦争」
にもなってきたのだろう。
さらに、
「サイバーテロ」
というのも大きい。
コンピュータによる情報戦であったり、本当の戦闘になったとしても、相手のホストコンピュータに潜入したりして、機能を混乱させてしまえば、戦闘能力があってないようなものにされてしまう。
さらには、
「情報戦」
となると、あることないことを情報として流すと、疑心暗鬼になり、戦争どころか、国内での混乱が起こってしまうこともある。
これは、今も昔も同じで、
「諜報活動」
と呼ばれるものだろうが、諜報活動というものは、相手を混乱させて、こちらに寝返らせたり、プロパガンダのような、相手国に対して、不安な状況を作り出したり、こちらの国がどれほど豊かな国かということを国民に植え付けたりして、
「相手を内部崩壊させよう」
という方法がとられたりする。
だから、今では、主義の違う国の情報を流さないようにしたり、国内のネットを完全に政府が掌握し、自由に閲覧ができないように統制するということもされている。
つまりは、
「一口に戦争」
といっても、いろいろなやり方がある。
軍が兵器を持って対峙するというやり方。
これも、今は昔で、どんどん変わっていく。
「石斧などで戦った太古の昔の戦争に、いずれは、戻ってくるのではないか?」
とも言われていて、その時は、すでに、核戦争によって、生き残った人たちがいたとすれば、何もなくなった世の中で、まるで原始時代のような生活になるのだから、それこそ、戦争をしても、
「原始時代の戦争」
でしかないだろう。
ただ、意識だけは、戦闘という潜在意識があるからなのか、それとも、
「原始時代」
というのも、ひょっとすると、それ以前というのは、今よりもはるかに科学の進んだ社会で、
「一度、徹底的に滅んでしまったことから、生き残った人が、太古から今の時代を作ってきたのかも知れない」
とも考えられる。
だから、聖書の中にあるような、
「ノアの箱舟」
のような、
「洪水伝説があるのかも知れない」
といえるだろう。
「実は、ノアの話は、洪水伝説ではなく、核兵器によって、破壊された今の時代となるのかも知れない」
ということで、
「地球を破壊できるだけの兵器」
というものを手にした人類の未来は、果たしてどこにあるというのだろう?
と考えてしまうのだった。
これらのことを、陽介は、小学生の時に考えていた。
学校で習ったわけではないが、アニメなどを見ていると、小学生でも思いつくことなのだろう」
と、陽介は考えていた。
そもそも陽介は、小学校低学年の頃までは、
「俺は天才ではないか?」
と思っていた。
しかし、成績は最悪だった。
特に、算数などは、見れたものではなく、採点をすれば、
「0点」
がほとんどだったのだ。
それもそうだろう。
名前を書くだけで、答案用紙は白紙である。
「どうして白紙で書くんだ?」
と先制が訊ねると、
「答えが分からないから」
と答える。
「どこが分からないんだ?」
と先制は聴いた。
先生とすれば、返ってくる返事を、
「どこが分からないのかが分からない」
という答えなのだろうと考えていた。
それは、あくまでも、
「途中までは分かっているけど、そのうちに分からなくなってきたのだろう。その原因が、何が分からないか分からない」
ということからきているのだと思ったのだ。
それは、自分にも言えることで、先生も、学生時代に、何度か分からなくなったことがあったようだ。
それをいかに克服したのか、その時々では覚えているが、時間が経つと覚えていないのだ。
それだけ、意識が前に進んでいるからであって、過去の、
「負の遺産」
のようなものは、わざわざ覚えているということはないと感じていたからではないだろうか?
しかし、陽介の場合は違った。
「俺が分からなかったのは、最初からで、算数を分かったと感じたことはなかった」
ということであった。
つまりは、
「1+1=2」
ということが、理屈として分からなかったのだ。
もし、これを先生に聞いたとして、正確な答えが返ってくるだろうか。
陽介が聞いたとしても、正解を求めているわけではない。自分も分かっていないわけで、「分かるはずのものではない」
と思っているのだから、それを相手に要求するというのは、相手がいくら先生であっても、無理なことであろう。
だから、
「算数というものが、いかなる学問か?」
ということから入ろうとする。
皆が最初にくぐるところをすっ飛ばして考えようとするから、いつまで経っても、答えがでない。
もっとも、
「答えなど出るわけはないだろう」
と考えるからではないだろうか?
「1+1=2」
というのは、算数の基本として、一番最初に習うものであろう。
「学校に行って勉強をする」
ということを、小学生になる、6,7歳の頃から誰もが始めるのだが、正直まだ、物心がついているのかどうか、怪しいものである。
だから、小学生に入学した頃の記憶というと、
「まず覚えていない」
というのが正直なところであろう。
一年生になってからというもの、
「確か、算数では、あの公式を覚えさせられた」
ということで、
「1+1=2」
というのが頭に浮かんでくるだろう。
しかし、
「それを、どのようにして理解できたのか?」
ということを覚えている子はまずいないだろう。
先生も、たぶん、
「理解させよう」
ということはしなかったに違いない。
なぜなら、
「理解させようとすると、どうしてそうなるのか?」
ということを説明しなければならない。
しかし、理論的には分かっていたとしても、それを説明することは困難で、しかも、算数の何たるかというものの基礎すら分かっていない子供に理解させるのは、まず無理だというものだ。
そうなると、
「公式としてそうなっているんだから、そのまま覚えてください」
としか言いようがないだろう。
だから、子供はそのままその公式を覚えようとする。
実際にそのまま覚えるから、抵抗があっても、あまり問題なく受け入れてくれる・
というのは、それがまだ、
「小学一年生の子供だ」
ということだからである。
それは、他の学問にしても同じで、
「漢字というものを覚えるのも同じことだ」
といえるだろう。
もっといえば、
「ひらがなの50音を覚えるのも難しいだろう」
つまり、
「最初で疑問を抱くということであれば、先には進まない」
ということで、
「何も知らない。何も入っていない器だからこそ、柔軟に受け入れることができる」
ということで、逆に、
「このタイミングしかない」
ということになるのだ。
小学一年生くらいの知能が、そういう状況を一番受け入れやすい年齢だといえるのではないだろうか。
だから、皆理解をしているわけではないのだが、素直に受け入れられるのである。
しかし、陽介はそうではなかった。逆に、
「理解もできないことを簡単に受け入れられるわけはないじゃないか?」
と考えるのだ。
その考え方があることから、
「俺は、天才だ」
と感じたのかも知れない。
それに、小学一年生の時に、
「まわりと同じであれば、人以上ということはない」
ということに関しては、理解ができている。
つまり、
「人と違っていなければ、人より上ということはなく、人より上に行かなければ、天才ということにはならない」
ということを考えると、
「人と違っていなければ、天才ではない」
という理屈は分かっていたのだ。
そういう意味で、
「天才だ」
といってもいいかも知れない。
これは、大人になるにつれて、誰もは一度は感じる理屈である。
それを小学一年生の頃に感じるのだから、
「これこそ天才だ」
といってもいいのではないだろうか?
小学一年生という年齢は、
「素直で従順でなければいけない」
という理屈は、
「1+1=2」
というものを、理屈抜きに理解もせず、受け入れることができるために必要だ。
ということになるのだろう。
そうでなければ、
「大人が子供を大人になるように導く」
ということはできないだろう。
国民の義務にも、権利にも、
「教育」
というものがあるが、
「義務というのは、教育を受けさせる義務であり、権利というのは。受ける権利のことである」
ということになるのだ。
だから、大人は、子供を、
「洗脳」
してでも、勉強ができる頭にしてやらなければいけないということになるのだろう。
きっと、陽介少年は、そんな
「洗脳」
というものを意識していたのかも知れない。
自分が、そんな手に引っかかって、そのことを信じさせられたとすれば、それは、
「自分にとっての屈辱だ」
と考えたからなのかも知れない。
陽介は、父親がよく、家で母親を詰っているような姿を見ている。それは、会社でのストレスを母親にぶつけていたようだったが、そこまでさすがに小学一年生で分かるわけもなかった。
しかし、
「理不尽だ」
ということは分かっていて、息子ながらも、
「母親がかわいそうだ」
と思っていた。
しかし、そのうちに、今度は母親が、自分に当たるかのような、どこかあからさまなところが見えてくると、
「俺がすべてを引き受けたかのようになっている」
と思うと、いかにも理不尽だと思うようになった。
そうなると、世の中が、
「皆、そうだと認めることが正しい」
というような、
「1+1=2」
という公式を、自分が認めるわけにはいかないと感じるようになったのだった。
だから、
「そうなっているんだから、しょうがないじゃないか?」
という理屈を余計に許せないと思うのだった。
もちろん、
「父親から母親。そして、母親から自分」
というストレスのはけ口が進んでくることで、家族の中では、最後になる自分が、他の誰もはけ口をぶつけることができる相手がいないと考えると、そういう、
「理屈に対して、自分のストレスをぶつけるしかない」
と思うようになった。
その時、
「皆が納得してもいないことを、自分では納得できない」
ということへの不満がどこからくるのか最初は分からなかった。
だから、
「人と同じでは嫌だ」
という性格からきているものだ。
と考えるようになったことが、まわりまわって、
「自分が天才ではないか?」
という、理屈としては、少々おかしな、
そして、
「歪んだ」
という考えになってしまったのだと、考えるのであった。
それを思うと、
「天才という感覚が、自分にとって、どこから来たものかということに、学年が上がっていくうちに気づいてくる」
というようになった。
すると、
「俺は天才なんていうことではなく、ただ逆らっていただけなんだ」
と思うと、今度は、
「遅れた勉強を取り戻そう」
と考えるようになり、
「1+1=2」
を受け入れるようになった。
これは、あくまでも、
「世間に屈した」
というわけではなく、親に対して、
「理不尽だ:
と感じたことを、自らが行うことで、
「わだかまってしまった理屈を甘んじて受け止めよう」
というのが、陽介の考え方であった。
それが、ちょうど小学校の三年生の頃からであっただろうか。
それから、陽介は、前のめりの形で勉強をするようになった。
特に算数に関しては、
「遅れている」
という感覚が強く、先生を捕まえては、独学では分からないところを、知ろうとするのだったのだ。
だから、勉強をしているうちに、どんどん、分かってくるようになることが楽しかった。
特に、それまで反発していた先生と、自らが和解できたということが嬉しかった。
先生は、
「自分が生徒の心を開かせた」
と思っているかも知れない。
しかし、それでもよかった。
先生がそう思っている限り、決して自分に対して、上から目線で話すことはないだろう。せっかく心を開いた生徒に余計なことを言って、さらに、成績が悪くなれば、今までの苦労が水の泡だということが分かるからであろう。
だから、先生は、徹底的に、陽介に対して、献身的に勉強を教えたのであった。
その成果もあって、算数の成績はうなぎのぼりに上がっていった。
それまで、算数のほとんどのテストで、
「0点だったのだ」
それは白紙によるもので、最初が分からないのだから、その先が分かるわけはないということで、それを一歩乗り越えると、今度は、
「勉強が楽しくなる」
それは、今まで分からなかっただけに、分かることが楽しくて仕方がないのだ。
そう思うと、特に算数のように、数字の規則的な羅列というものは、小学生の頭でも十分に理解できるだけの、
「公式」
というものを見つけることは容易なことだ。
それを自分で研究し見つけてきては、先生に放課後発表していた。
それまで、担任の先生以外でも、他の先生たちの中の話題に、陽介が上がるのはその頃は当たり前だった。
「すごいわね。佐伯君が、こんなに成績が良かったなんて不思議だわ」
と、一年生の時のクラス担任はびっくりしていた。
「あの子は、どうしようもないということで、私は、半年で諦めました」
とその時の担任の女性教師は行っていた。
二年生の時の担任も、何も言わないが、同じように、ただ頷くだけだった。気持ちは一年生の担任と同じに違いない。
しかも、それは、
「一年生の担任が、放っておいたツケが自分に回ってきただけで、自分が悪いんじゃないんだ」
という、完全に、
「前任者が悪い」
という、
「自分には一切の責任はない」
という先生としては、たぶん、最低のレベルに当たる、
「底辺の先生だ」
といってもいいだろう。
だから二人とも、
「三年生の担任のこの先生が、何か魔法のようなものを使って、佐伯君を更生させたんだ」
とばかりに、まるで、佐伯少年が、
「まるで、劣等生の鏡で、本人の力では勉強ができるようになることはない」
ということで、何か犯罪者であるかのような発想を抱いてしまっていたことであろう。
そう思えばこそ、
「自分たちが悪かったわけではない」
という正当性を感じたいと思ったに違いない。
そう思うと、
「一年生の担任というのは、嫌なんだ」
と思うのだった。
一つのことが分かると、どんどん分かってくるということは、逆にいうと、
「一つのことが分からなかったことで、直接関係していないことまで分かっていなかったのかも知れない」
とも思えた。
確かに。算数のように、
「すべての科目が0点に近い」
というわけではなかったが、
「普通、苦手な科目が多くても、どれか一つくらいは、平均点を超えている科目があってしかるべきだと思うんですよ。お子さんが勉強全体が嫌いだというのは、そういう何か突出した家屋がないからではないでしょうかね?」
と、三年生の最初の頃に、三年生の担任が、母親に言っていたことだった。
それは間違いのないことであり、確かに、勉強自体が嫌いだというのは、
「好きな科目や、成績のいい科目がないからであったが、さすがに三年生の担任でも、その根底が、算数という科目の一番最初の部分を理解していないからだとは思ってもいなかった」
といえるだろう。
一年生の時の担任だけは、それを分かっていた。
しかし、まさか、
「三年生になっても、最初の公式で詰まってしまっているなどと思いもしなかったのだ」
というのも、今までの経験から、
「確かに、一年生の頃に最初で引っかかって、先に進まないという子もいるにはいたけど、皆二年生になる頃には少なからずの克服が見えたからだ」
ということであった。
それが、なぜそんなにできないのかということを、想像もしていなかったのだ。
それを考えると、
「三年生になってしまうと、そこは未知数であり、彼女が思っているのは、ほぼ、できないだろう」
ということで、
「算数に関しては、どうしようもない」
と思うしかなかったのだ。
それでも、他の科目に何か興味ができれば、違うだろう」
と感じていた。
一年生の時の担任であった、女性教師は、佐伯少年に関しては、
「自分に責任というものはない」
と思っているので、
「後は、それ以降の担任の責任だ」
と思うことにしていた。
ただ、万が一、卒業するまでにまた自分が担任になってしまった時には、
「二年生以降の担任が、どうにもできなかったのであるから、自分に責任はないとは言えないが、他の先生にも同じだけの罪がある」
と思うことで、自分の正当性を考えようとしていたのである。
いくら、自分以外にも担任がいたといっても、それを免罪符にして、自分の罪を少しでも軽減しようというのは、卑怯であろう。
ただ、そうは言っても、
「最初が自分だった」
ということで、その罪の意識がまったくないわけではないので、どうしても気になるのであった。
一年生の担任は、そういう意味では、
「中途半端な考えを持っている」
といってもいいだろう。
これが二年生の担任ともなると、こちらは、もうどうしようもない。
すべてを、
「一年生の先生が悪いんだ。俺は疫病神を押し付けられたにすぎない」
としか思っておらず、
「なるべく佐伯のことは無視して、成績のいい生徒を伸ばしてあげることに集中しよう」
と思っていたのだ。
「長所と短所があって。短所を治すことよりも、長所を伸ばしてあげる方が、教育者として必要なことだ」
ということを言っている人の話を聞いたことがあった。
これも確かにその通りなのだが、この先生に限っては、これを、
「免罪符」
ということにして、自分の罪から逃れようとしている。
ということは、
「この先生は、
「自分に罪はある」
ということを分かっているのだ。
分かっていて、それを認めたくないということから、何とか免罪符を探して、
「気づかなかったふりをする」
ということで、自分の罪から逃れようとしている。
つまりは、
「ただの逃げ」
ということである。
免罪符」
というと、まだ聞こえがいいくらいで、罪の意識を、いかに自分のせいではないかということで逃れようとしているかということである。
ただ、それでも必死になるということは、ただ逃げているわけではない。。
「自分を納得させなければ、気が済まない」
ということであり、
「責任逃れ」
とは違うのだ。
だが、これも、責任逃れというのは、自分に責任があるという自覚があるからであり、
「この先生も中途半端だ」
と思えるのは、そのあたりにあるからではないだろうか、
どんなに免罪符を探したとしても、それは、
「事実から逃げている」
ということに変わりがあるわけではない。
それを思えば、
「無限にあるかも知れない可能性を、その中の一つを潰しても、新たに現れるということで、いくら逃げたとしても、どこかに限界がある」
ということが分かるというものだ。
それを何とかしたいということで、
「いかに早く正当性のある免罪符を見つけるか?」
ということが大切だと感じたことだろう。
生徒はそんな先生の気持ちというものを、態度から感じ取るのか、
「この先生は、生徒のことなど、これっぽちもなんとも思っていないんだ」
と思うと、生徒の方も、
「先生を嫌いになる」
という免罪符を探すようになる。
「なるほど、二年生の時、皆、この先生のことが嫌いだったわけだ」
と思った。
ただ、これも成績と一緒で、
「嫌いな人がどんなにたくさんいても、中には好きだという先生だっていてしかるべきではないか?」
とも感じた。
しかし、見ている限り、先生のことを好意的な目で見ている人は誰もいない。それを考えた時、
「やっぱり、この先生は最悪なんだ」
と思うと、ますます、学校が嫌になってきた。
勉強が嫌いになる」
という理由にはならないのだろうが、人情として、
「嫌いで、最低だ」
と思っている人間から教えられるものを、何を好き好んで勉強などしようと思うものかと感じるのであった。
だから、二年生の頃まで、算数の公式を分かるということは、自分の中では許されないことだったのだ。
それを二人の先生は、
「自分のせいだ」
とは思わない。
それがすべての理由であり、三年生になって、少し自分が見えてきたことで、算数が分かるようになったというのも理屈に合っているというものである。
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