天才のベストセラー小説
森本 晃次
第1話 天才児
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年1月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。
世の中には、
「天才児」
と呼ばれるような子供は、結構いたりする。
中には、どこかの科学者や、心理学者は、そんな幼児の頃から、
「天才児」
と呼ばれるような子供を探して、そのメカニズムを解明しようと考えている人も結構いたりするものであった。
「天才児」
といってもいろいろいるだろう。
小学生の時点から、すでに、
「高校入試の試験に合格するくらいのレベルに達している子供だったり」
あるいは、
「偏差値というものが、やたらと高い子供だったり」
中には、
「大人の世界というか、未来が見えるかのような、超能力を持っている」
というような子供もいる。
どれも、それぞれに天才児なのだろうが、超能力というのは、そもそも、
「人間は、皆持っているのではないか?」
という考えがある。
つまり、
「人間は、脳の一部しか使っていないので、使われていないところに、いわゆる超能力と言われるものが働くものが詰まっている」
ということである。
だから、
「逆にどうして、人間は脳の一部しか使っていないのか?」
という方がおかしな気がして、
「超能力を持っているのに、誰もそれを使うだけの力がない」
ということで、
「超能力の存在そのものよりも、超能力というのは、本来であれば、誰もが使えるものだといえるのではないか?」
と考えると、
「どうして使えないのか?」
あるいは、
「使おうとしないのか?」
ということを考えると、
「持っているとしても、それを使いこなすための、力が必要なのだが、その要領を人間が持っていない」
あるいは。
「これも、能力と一緒に、脳の奥にしまい込んでいるか?」
ということになるのだろう。
そして、
「人間は、その能力を頻繁に使えるわけではなく、使うタイミングは、限られている」
と考えると、昔の童話などで、
「願い事を3つまで叶えてあげる」
などという話があったのを思い出すというものではないか?
と考えられるのだ。
確かに、願い事などというものは、
「限られた数だけを叶えられる」
ということだから、いいのである。
それが、
「希少価値」
というものであり、あまりたくさん叶えられてしまうと、ありがたみというものがなくなるといえるのではないだろうか?
それを考えると、人間の中にある、
「超能力」
と言われる機能は、誰にも備わっているということであり、実際に、それを扱うことができる、
「脳の機能」
としては、実際に限られた回数しか使うことができない。
と考えると、
「いざという時にしか使ってはいけない」
ということを潜在意識、あるいは、遺伝子のようなものの働きで分かっているのだとすれば、何もできないということになるのではないだろうか?
そんな超能力というものを考えた時、
「ひょっとすると、今使う時ではないか?」
と考えられることがあったとしても、
「いや、今使って本当にいいのか。数が限られているではないか?」
と思うと、使うことを躊躇してしまう。
その意識も潜在意識なので、本人は意識していないことになるので、
「結局何もできない」
ということも、自分の中に閉塞する形で、封じ込めてしまう。
そう思うと、今度は無意識に、それらすべてのことを、自分の中に封印しようと考えるから。潜在意識としては持っているとしても、封じ込めるために、
「超能力などという力は迷信であり、そんなものは存在しない」
と考える人と、逆に、
「いや、超能力は存在し、それを押し殺す機能が働くということで、そのメカニズムというものを、発見したい」
という、科学者的な発想をする人もいるのであろう。
超能力と言われるものは、何か、催眠術というものと比較されて考えられるということもある。
中には、
「催眠術を使って、潜在能力を引き起こすことで、超能力を呼び覚ます」
というような研究をしている人もいるだろう。
ただ、それはある意味恐ろしさを裏に秘めているのではないだろうか?
たとえば、
「ジキルとハイド」
のような話で、それとは違うが、その話をモチーフとしたような話を、以前小説で読んだのだったが、
「自分の中に、もう一人の自分がいるのではないか?」
と感じた博士は、薬で、
「もう一人の自分を呼び起こす力を引き起こす」
ということを考えたのだった。
実際にやってみると、それに成功したが、出てきた自分は、恐怖に感じるほどの悪い人間で、
「ジキルとハイド」
のように、
「片方が表に出ている時、片方は意識がない」
というわけではなく、
「もう一人の自分が表に出ている時、裏に隠れている本来の自分には意識があって、もう一人の自分が何をしているのかが分かるのだ」
まったく表に出ることができず、自分の悪行を見せつけられているというのは、胸を締め付けられるような怖さがあるのだ。
だから、もう一人の自分は、普段のように、善人、いや、
「普通の人」
である自分が表に出ている時、じっと、裏で表の自分を見ていたのだろう。
「ひょっとすると、そんな表の自分を見ながら育ってきたことで、裏の自分も成長したのではないか?」
と感じた時、
「もう一人の自分を作ったのは、この俺なんじゃないか?」
と感じたのだ。
そして、その時考えたのが、
「そんな余計なことを知りたくはなかった」
という思いであり、そのことに気づいてしまわなければいけなかった自分が、気の毒であり、恐ろしくもあったのだ。
ただ、すでに、
「裏に自分がいる」
ということを分かってしまった。
そしてこれは自分だけにいえることであり、人間というものは、大小の差はあるだろうが、
「誰もが、裏にもう一つ性格を持っている」
と思い、まわりの人を見ると、次第に、もうひとりの自分を他の人に見ることができるようになったのだ。
だが、自分の中にいる、
「もう一人の自分を見る」
ということはできない。
普通であっても、鏡などの媒体がなければ、自分に自分を見ることができるわけはないということになるだろう。
「もう一人の自分というのは、他人であっても、その存在を確信するか、本当に意識しなければ見ることはできない」
ということであった。
これは、一種のドッペルゲンガーのようなものではないだろうか?
というのは、
「普通であれば、自分だけのドッペりゲンガーというものを意識する」
ということだけになるのだろうが、実際には、
「他人のドッペルゲンガー」
を見ることになる。
それが、結局自分のドッペルゲンガーを解明するヒントであり、自分だけを見ていてはいけないということになるのであろう。
ここに、佐伯陽介という少年がいる。
彼はまだ小学校の一年生だった。彼は自分のことを、
「天才だ」
と思っているようで、それをたまにまわりの大人に話しては、苦笑いをされていた。
もちろん、親にも話をしたのだが、親は顔を真っ赤にして、
「そんなことを他人の前で話してはいけません」
と言われるのであった。
それを聞いた佐伯少年は、
「どうしていけないの?」
と聞く。
その様子は、まさに小学校一年生の少年そのものなのだが、それだけに、両親は何と答えていいのか困るのだった。
「それはそうでしょう。自分のことをそんな天才だなんていえば、まわりの人からバカな子だと思われるだろうし、同級生のお友達からは、バカにされて、下手をすればいじめられたりするわよ」
というのだった。
それは当たり前のことであり、そんなことをいえば、
「自慢をしている」
と思われて、相手にされない。
大人からは、
「バカな子供だ」
と思われ、同級生からは、変なマウントを取ってくるように思われて、嫌な思いをさせるに違いないからだ。
子供の世界では、そんなことは許されない。
「子供には子供の世界」
というものがあり、それは、大人に教えられるものではないだけに、形が見えないものではないだろうか。
しかし、子供にもそれは見えないので、誰も何もアドバイスもできない。だから、できてしまった世界からはみ出したものは、ハブられるということになるのも、当たり前のことであろう。
陽介少年が、
「俺は天才だ」
と、どうしてぬけぬけといえるのか?
それを分かる人は誰もいない。
だから、まわりの大人はそれが分かっているから、苦笑いをしてやり過ごすしかないのだが、親とすれば、子供がバカにされるのを放っておくわけにはいかない。
それは、
「自分がバカにされているのと同じだからだ」
ということになる。
大人の世界にある、
「体裁」
とか、
「世間体」
という考え方は、今に始まったことではない。
特に、
「子供を見れば、親が分かる」
とよく言われているので、昔などは、
「教育ママ」
などという親が存在し、子供の世界に、巻き起こる競争に対して、負けないような子供を作るという意味での、
「教育ママ」
というものだったのだろう。
ただ、それも、子供の成績だけがすべてではなかった。
子供の成績や順位が、大人の世界、特に、母親連中の世界では、
「ランク」
と呼ばれるものとして評価されることもあったのではないだろうか?
子供の成績がよければ、親が自慢をするというのは、昔からあったことだ。
しかし、
「子供が自慢をする」
ということはあまりなかっただろう。
親が自慢する分には、そうでもないが、子供が自慢をすると、子供の世界では、角が立つと、母親は思っていたのかも知れない。
だから、子供の世界でぎくしゃくしてしまえば、それが大人の世界に影響し、
「本当は頭がよくて、成績もいいのに、子供の世界で自慢してしまったために、子供のランクが下げられることで、親である自分が肩身の狭い思いをして、せっかくの息子の順位によっての立場が、使えなくなり、逆に、親子ともに、その世界からはじかれてしまうことになるであろう」
ということであった。
それは、昔から、親の頭にはあったことだろう。
だが、実際には、
「自分から自分のことを天才だ」
などといって自慢する子供が少なかったからなのか、問題になることもなかった。
というのは、親が口にする話題でもないし、実際に起こっていることではないのであれば、
「意識するという人はいたかも知れないが、実際には、問題になることはない」
ということなので、誰も、そのことに触れるということもないに違いない。
それを考えると、
「そもそも、子供の世界を、大人のランク付けなどというものに使おうという、教育ママというようなものがあるから、このような問題が、本当はあったはずなのに、陰に隠れてしまっていた」
ということになるのだろう。
今でも、子供が自分から、
「俺は天才だ」
ということはなくなった。
それだけ、
「子供の世界も、複雑になってきた」
ということであり、
「苛め」
というものが、小学生の中にも入ってくるようになると、小学生高学年くらいでは、
「なるべく目立たないようにしよう」
という意識が働いてくるのだった。
本来であれば、小学生の高学年というと、
「目立ちたい」
という気持ちがあってしかるべきではないだろうか?
早い子は、それくらいになると、思春期というものに入り込んでくるのであって、一緒に、
「反抗期」
というものも出てきたりする。
さらに、子供の世界では、その成長に個人差があることで、早熟な子は、
「早く大人になった」
ということを自他ともに感じるようになり、まだ成長が進んでいない子供から見れば、成長著しい同級生は、
「クラスの中で、自然と輪の中心にいる」
というような感じになるのではないだろうか。
考え方も、大人に近くなっていくわけだが、それは、思春期という、
「乗り越えなければいけない壁」
のようなものがあり、それを、まわりはまだ子供だから、どう乗り越えるかということを見ることはできない。
つまり、
「自分しかいないということで、その成長は、孤独なものなのだ」
ということになり、ある意味、
「本当の大人になった」
といってもいいだろう。
しかし、世の中、
「出る杭は打たれる」
ということがよく言われるようになっていて、
「中学生で中には不良になる子もいる」
というような状況が出来上がってしまい、成長の早い子は、特に、まわりから持ち上げられることで、自分だけが偉くなったような気になるのだ。
本当の大人であれば、それがどういうことなのかを、少しは考えられるだろう。それが経験というもので、やはり、経験の薄さが、致命傷のようになってしまい、お決まりの不良コースということもあるのだろう。
そんな大人になるために、障害になるのが、
「その大人たち」
である。
大人というのは、
「えてして子供を自分たちの尺度に収めたい」
と思うものだ。
それが、子供にはなぜか分からない。
子供が思うのは、
「親だって、爺さんばあさんから、同じような教育を受けて、理不尽な気持ちになるだろうから、自分が大人になったら、親のような教育は絶対にしないようにしよう」
と思うだろう。
中には、大人になるにつれて、大人のやっていることに正当性を感じ、
「ああ、中学時代のあの時、親からかなり言われたが、あれはあれで正しかったんだ」
という気持ちになれるかどうかということである。
だが、大人になるにつれて、そんなことを感じるようなことはまったくなく、さらに、
「大人というものがいかに汚いのか?」
ということが分かるというようなことを感じるということもあるのだった。
それはどういうことなのかというと、
「大人というものは、強いものには負ける」
ということである。
権力のある人間には逆らえない。
確かに、社会構造というものが分かってくると、
「縦割り社会」
というものも大切だということが分かってくる。
しかし、だからと言って、中には、
「決して許してはいけない」
ということもあるはずだが、それを許してでも、保身に走ることもあるのだった。
ただ、本当に、
「権力の中には、逆らえない」
というものもある。
中には、
「明日から生活をしていけない」
ということであったり、最悪な場合は、
「命を失う」
ということもある。
しかし、それも、実にまれなことであって、
「そこまで、世の中に対して逆らわないと生きていけない」
というわけでもないのに、一度、逆らわずに従順になってしまうと、逆らうということを恐ろしいと感じるのか、どうしていいのか分からなくなってしまうのだった。
確かに理不尽なこともたくさんあり、それは、
「子供の世界でも結構あったりする」
下手をすれば、子供の世界の方が、容赦がなくて、えげつないこともあるだろう。
「手加減を知らない」
ということからなのか、それとも、
「大人に対しての不満が、まわりの人に向けられる」
ということで、グレた少年が、
「力がほしい」
ということで、子供の世界での理不尽さに耐えながら、力を持ってくると、
「手加減を知らない狂気な人間」
というものができてしまうということになる。
子供だからといって甘く見ていると、大人は簡単にやられてしまう。
大人はどうしても、子供を下に見ているからで、それだけに、
「手加減をしない」
ということが分からないのだ。
それこそ、子供が、
「大人になってから、自分が子供の頃に感じた、思いを忘れてしまって、子供を大人としてしかりつける」
ということと同じである。
大人は、自分が子供時代に感じてきた、理不尽さも忘れてしまうのだ。
そして、子供の頃に手加減なしで、まわりとぶつかったということすら忘れてしまっているのだ。
もし、それを覚えているのであれば、もう少し、子供との接点を感じることだろう。
大人は、子供時代のことを覚えていることもあるはずだが、逆に子供は、大人になってからのことが分かるはずがない。
そうなると、
「大人が譲歩してあげなければ話が通じない」
ということであり、
「だからこそ、大人が大人の対応というものをしないとうまくいくものも。うまくいかない」
ということになるのであろう。
そんなことは分かり切っているはずなのに、どうして大人は分からないのか?
それだけ、大人と子供には差というものがあり、
「子供が大人を見上げるよりも、大人が子供を見下ろす方が、距離がある」
ということになるのであろう。
普通に考えれば、
「大人は子供時代を知っているので、自分が昇ってきたところが分かっているだけに、距離も分かるというものだ。しかし、子供は自分がこれから登らなければいけない道を知る由もない。それが、無限なのか、有限なのか、それすらも分からないのである」
といえるだろう。
しかし、人間の目というのはそういうわけにはいかない。
「上から下を見下ろした時の方が、下から上を見上げる方が、かなり遠くに感じてしまう」
といえるのではないだろうか。
それがどういうことなのかというと、
「人間には、本能的に感じる恐怖感がある」
ということである。
それが、
「高所恐怖症」
そして、
「閉所恐怖症」
「暗所恐怖症」
というものである。
下から見上げる時には感じないが、上から見下ろす時には、高いところから見る、
「高所恐怖症」
を感じるだろう。
実際に、自分にはないと思っている人であっても、少なからずの恐怖は絶対にある。そして、その高所への恐怖が、見下ろした時に見えるはずのものが見えなくなるという錯覚から、今度は閉所という意識を植え付けるのだ。
だから、めまいを起こしたり、普通であれば大丈夫と思うことも、上から見てしまうと、意識が朦朧としてきて、果てしなく遠く感じてしまうというのが、
「高所恐怖症というものの正体」
なのかも知れない。
それを考えると、上から下を覗くのが怖いというのも、錯覚や潜在意識を含めて感じることであろう。
その発想が、
「昇ってきたはずの道すら凌駕するものとなる」
というわけであるが、それは、
「上ばかりを見て進んできたからだ」
ということになるだろう。
下から上に上がろうとする人は、知ってはいても、上から覗いた時の恐怖がよみがえり、錯覚と潜在意識から、
「知っていることすら忘れてしまう」
という作用に、気づかないまま恐怖だけが植え付けられるということで、結局、
「子供の頃に感じたことを忘れられない」
ということだ。
もし、分かっていたとすれば、
「時代はさかのぼることができない」
という理屈をつけて考えようとするかも知れない。
大人になるということは、そういう屁理屈を、感じさせるようになるということではないだろうか。
陽介は確かに自分のことを、
「天才だ」
と思っていたようだ。
しかし、それがどこからくるものなのか、誰にも分からない。
本人である陽介にしても、その感覚はないようだった。
つまりは、陽介も、
「自分に詩人があるから、自分を天才だ」
と思っているわけでも、
「何か天才だと思えるものがあって、それをまわりに説明できないということだけなのか?」
ということでもないようだった。
全く根拠のないことなので、本人もとらえどころがない。だから、人に何かを言っても、信憑性がないので、
「思っているだけで、誰にも言わなかった」
というわけだ。
親から、
「そんなこと人に言ったらいけません」
と言われていたこともあってなのかも知れないが、それを言われた時から、
「親は信用できない」
と感じるようになった。
親が、子供を信用できないということが、どれほど子供にとって不安なことなのか? 小学生の一年生で、そんなことまで分かるはずはない。
「人間はある程度の年齢までくると。成長が止まり、そこから老化現象が始まってくる」
と言われる。
それが寿命の半分くらいからなのかと思っていたが、高校生くらいの頃に聞いた話では、
「二十代くらいからではないか?」
と言われているのを聞くと、それこそ、
「寿命って。じゃあ、50歳くらいなのか?」
ということを考えると、高校の歴史で習うことになった、織田信長が好んだと言われる、
「敦盛」
という詩にある。
「人間五十年」
のフレーズを思い出す。
「人間五十年、下天のうちに比ぶれば、夢幻の如くなり」
と言われる言葉であった。
だが、これは、今から500年くらい前の戦国時代に言われていることであり、今では平均寿命もかなり高くなってきている。
定年というのも、どんどん伸びていき、今の時代になってくると。平均寿命が70歳を超えるということになるのであった。
それが原因というわけではないだろうが、若年層の成長が、昔に比べて遅くなっているのか、昔であれば、婚姻というと、十代での婚姻が普通だったりした。
これは、そもそもの寿命が短いから、早く婚姻して、跡取りを作っておく必要があるということなのだろう。
特に戦国時代の婚姻というのは、
「政略結婚」
というものが結構あったようで、
「婚姻というよりも、人質というイメージが強かった」
ということもあっただろう。
同盟を意味する結婚などというのは、結構行われていて、
「武田、後北条、今川氏」
などが有名だったりするが、それら同盟を結んでいても、それだけではなく、後北条氏が、上杉家と婚姻を結んだり、徳川と婚姻を結ぶなどというのもあったりした。
何しろ、
「配下の者が、領主にとってかわるために、謀反を起こす」
などということが、大っぴらに行われていたのが、
「群雄割拠の戦国時代」
生き残るためには、なんでもありといってもいい時代と、今のような、
「平和ボケ」
といってもいい時代とでは、
「まったく違う時代だ」
といってもいいだろう。
今と昔ではまったく違う時代ではあるが、
「他人には、本心を見せない」
ということは、当たり前のように行われている。
これは、
「まったく違うものであっても、一周回って戻ってくることで、結局同じことをしているだけだ」
ということを思い知らされるかのような世の中であることを、思い知るだけではないだろうか?
それを考えると、
「人の言葉というものを、果たして額面通りに受け取ってもいいのだろうか?」
ということになる。
もちろん、重みを感じさせる言葉は、その力強さというものを感じさせるもので、
「世の中、思い通りにいかないことも結構ある」
ということであるが、その
「思い通りにいかないこと」
というのが、
「自分にとっていいことなのか?」
それとも、
「悪いことなのか?」
ということを考えさせられるが、基本的に、
「思い通りにはいかない」
ということを言われると、それは、
「悪いことではないか?」
という先入観で考えてしまうだろう。
しかし、前述の、
「一周回って」
という発想でいけば、
「いいことというのも、十分にありえる」
ということで、すべてが悪いことだというのは、潜在意識が勝手にそう思い込むということになるのではないだろうか?
ただ、
「子供の頃に天才だ」
と言われる子は意外と多いものだが、成長するにしたがって、その子たちは目立たなくなる。
「二十歳過ぎればただの人」
という言葉があるが、まさにその通りである。
「人間の成長は、皆同じように、正比例の形で成長していくとは限らない。大器晩成ということで、中学生くらいから急に成績が伸びる子供もいれば、逆に、小学生の間は、トップクラスの成績で、中学くらいから、どんどん成績が落ちていく」
というような子供もいるだろう。
それは、
「身体の成長」
というものとあまり変わらないのではないだろうか?
というのは、
「早熟な子は、背が伸びるのが早い。しかし、大器晩成型は、中学生から高校生に掛けて、一気に成長する」
という。
しかし、精神と肉体とでは、その成長の過程が同じだとは限らない。
というのは、
「肉体は、早熟だが、精神の成長は大器晩成」
という人もいる。
ただこの場合の精神というのは、
「考え方という側面と、頭脳という意味で、成績の良し悪しという二つがあり、だから、成長に関しては、精神と肉体だけではなく、頭脳というものも、もう一つその中に加えておくという必要があるだろう」
といえるのではないだろうか。
それを考えると、
「精神と、頭脳は、肉体と頭脳というものよりも、もっと大きな差がある」
という場合も十分にあり得ることであろう。
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