第19話 新たな任務

「汚染病院のトラウマ、それを引きずってでもか?」

「うん」


 中水からの質問に断言で答える。それが彼の求める答えとは違っていると分かっていながら。


「ごめん」


 彼の心配と優しさを無碍にしている。そうした自覚はある。


 彼には申し訳ない。でもこればかりは譲れないのだ。


「いや、いい。俺も責めるような言い方しちまったな」


 中水としても宮坂の気持ちは理解している。


 沓名優輝、あの少年が彼女の中でどれだけ大切な人物なのか。


 それを思えば忘却剤の使用に躊躇するのは当然だ。


「こんなこと言うのも負け惜しみみたいだが、お前は、俺が胸を張って誇れる救助者だ。お前が生きてれば俺は胸を張れる。そんなお前が死に急いでるような真似をしてるのは、見てられないんだよ」

「うん、分かってる。ごめん」


 彼にだってもちろん感謝している。中水は恩人だ。その恩に逆らうようで心苦しい。


 お互いにお互いのことを理解している。そして尊重し合っている。分かり合えなくてもそこは変わらない。


「死ぬなよ」

「分かってる。死にたいわけじゃない」


 中水はそう言って宮坂は答える。死なないと約束し中水は小さく頷いた。


「分かった。実はお前が寝てる間にある調査任務を受けててな。お前これやれ」

「調査任務?」


 根負けと言うのだろうか。中水は宮坂の意向を汲み次の依頼を言い渡す。


「お前、52ヘルツのクジラって知ってるか?」


 中水は鞄を持ち上げ中からファイルを取り出した。それを手渡し宮坂は受け取る。


「52ヘルツの音程で歌ってるクジラのことですよね? だけどクジラはその音程は聞き取れないからいつまでも孤独だとか」

「よく知ってるな、俺はこれを機に知ったんだが。今回の調査依頼はいわば52ヘルツのSОS、低現実帯からの音声だ」


 ファイルに目を通す。そこには『低現実帯における未判明音声』と記載されていた。


「これは偶然発見されたものでな、別件の任務中にある声が観測された。少女の声で『助けて、助けて兄さん』と何度も呼ぶ声だ。しかしその声の出所はあまりにも低い現実性から発せられていてな、ここまで低いと普通ではまず聞こえない」


 現実というのは一定ではない。そこには一を基準とした基準現実とそれよりも低い低現実と高い高現実に分かたれる。


 低現実は現実性が低い、要はあやふやな状態だ。現実かもしれないし現実ではないかもしれない。


 たとえば目の前に一個のリンゴがあるとする。


 それが低現実ならばそのリンゴは赤かもしれないし青になってるかもしれない。


 もしかしたら次の日には動物になってるかもしれない。


 また意図的にこれはトマトだと思えばトマトにもなれる。


 どれほど低現実かにもよるが理論上そうしたことが起こりうる。


 そして現実かどうかも分からないものを人間は認識できない。


 反対に高現実においては我々の現実が相対的に低いことになる。


 高現実において我々は上書きされる側であり現実というキャンパスは新たな絵具によって別の絵に変えられる。


 その絵では我々は男かもしれないし動物かもしれない。それか存在していないかもしれない。


 こうしたように現実には高低があるわけだがさらに重要なのは現実性にも熱力学のように一定に保とうとする性質があるということだ。


 熱湯と水を合わせればぬるい水になるように高い現実と低い現実は混ざり合い中間の現実性になる。


 今回のような低現実帯の存在は本来なら基準現実と混ざり合い消え去るのが普通だ。


 そういう性質もあって現実性における異常事象は珍しい。小規模なものであれば自然消滅するからだ。


「低い現実性はもう現実ではないですからね。現実でないのだから知覚も出来ない。危険性は?」


 そのためこうして発見されるというのがかなりの異常だ。なにかある、それは間違いない。


「いや、声以外は原因不明。出所も誰なのかも、いつからなのかも全部だ」

「は? そんなの他の人にやらせればいいじゃないですか」

「ならお前でもいいだろ。お前は病み上がりなんだ、これで慣らしとけ」

「そんな!」

「文句言うな! 仕事が選べる立場か」

「……はあ、分かりました」


 仕事は続けていく。それを了承してくれた中水だったがこれが妥協点ということだ。


 彼なりの心配であり宮坂からすれば拍子抜けであり落胆してしまう。


 そんな彼女を尻目に中水は立ち上がり扉へと向かっていく。


「元気がないようだな、マックばかり食べてるからそうなるんだ。ワッパーを食え、力が出るぞ」

「はあ!? まったくもう」


 言い返したいところだが中水はもう病室を出た後だった。消えた後ろ姿を恨みながらもファイルに目を通していく。


(低現実帯からの音声、か)


 一通りファイルを見た後それを机に置き横になる。天井を見つめさきほどのことを思い出していた。


(沓名さんは妹を助けるために病院に行くって言ってたっけ。妹から助けてっていう電話を受けたらしいけど。今回は低現実帯から少女の声で助けて兄さん、か)


 少しだが似ている。今回の件と沓名の状況、それを少しだけ重ねてしまう。


(まさか、ね。だけど)


 まず関係ないことだ。たまたまそこが同じだっただけ。でも共通点には違いない。


(少女からのSОS。現状これを解明するための手がかりは一つもない。まったくの手探り状態。なら関係ありそうなところを片っ端から調べるしかない)


 仮に関係ないとしても思い当たるふしはこれしかないのだ。真相究明のため無駄骨だろうがやるしかない。


(汚染病院、か)


 八年前の悪夢。封じ込めた記憶の奥底、扉の隙間から漏れ出す恐怖にさえ怯える日々を過ごしてきた。扉は固く締め開けようと思ったことは一度もない。


 けれど。


 宮坂は天井を見つめながら気持ちを整える。数秒経ったあと目を閉じた。


 それから退院の用意や復帰のため直近の出来事を調べるなど忙しい日々を過ごした。


 そこで知ったのは福岡支部を襲った安全脅迫症だが感染性があることに加えて感染者で協力したこと、また本部職員への応援要請自体が罠であり本部にまで感染を伸ばそうとした疑いがある。


 これらのことから安全脅迫症には寄生虫のような意思があることが指摘された。


 福岡支部は対認識災害部隊によって鎮圧され職員たちも忘却剤によって無事らしい。これにより事件は終わった。


 とはいえいつまた安全脅迫症が出てくるか分からない、今後も注意が必要とのことだ。


 福岡支部からは宮坂に感謝状が送られ記憶にない宮坂は苦笑いでそれを受け取った。


 そんなこんなで時間は過ぎていき宮坂が本部で自分のデスクについたのは数日後の夜中だった。


 時計はもう二十三時を過ぎておりここのオフィスだけ電気が点き廊下はすでに消灯している。


 ずらりとパソコンが並ぶオフィスには自分だけが座っており自動販売機で買ってきたホットコーヒー缶のキャップを外す。


 それを一口飲みパソコンを起動させていく。特異戦力対策室のページを開いていく。


 缶を置きふと視線をパソコンの横に向ける。そこにはコルクボードが立てかけられ何枚かの写真が貼り付けてある。


 福岡支部の感謝状をもらった自分の写真が真新しい。


 他にも特戦に入ったばかりの写真や中水と一緒に撮った写真。


 その中には沓名と一緒に撮った写真もあった。


 二人で撮った自撮りの写真。彼がこの世にいたことを示す確かな証。記憶の中で生きる彼を確かめられる唯一の代物だ。


 彼の顔を見つめ宮坂の表情が少しだけ緩まる。


 そこに映っている彼は真面目な顔をしていて対照的に自分は少し浮かれた顔をしている。


 この時は怖さよりもそばに彼がいる喜びの方が大きかった。


 それだけに彼の存在は重要で、大切な人なのだ。


 宮坂は彼から勇気をもらい受け今一度気合を入れる。かつての悪夢、それにもう一度触れるため。


 特戦のページから異常事象の記事へと飛ぶ。そこから目当ての報告書を見つけ出す。


 異常事象報告書番号089『汚染病院』。


 その記事を前にして宮坂は固いつばを飲み込んだ。

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