第18話 生還

 暗い水底に沈んだ意識。それが泡のようになって浮上していく。小さな粒のような気泡は水面に顔を出しパッと弾けた。


「ん」


 まどろみ。まだぼんやりする意識の状態で宮坂は目を覚ます。


 白い天井と顔を少し動かせばカーテンが窓からの風で小さく揺れている。


 まだ日が出ているのだろう、電気はついていないが暗くはない。自分は今病室のベッドに横になっている。


 個室だ。いいことだ。


「私」


 なぜ自分がこんなことになっているのか振り返ってみる。心当たりならある。そこまで自覚はなかったが疲労がたたったのだろうか。


「よう、目が覚めたか」

「ええ、まあ」


 ベッドの隣には椅子がありそこには四十も後半の男性が座っていた。彼の前には小さな机がありテレビが乗っている。


「大活躍みたいだったな」


 彼は足を組み宮坂を見ると小さく笑った。


 中水寛美。最も付き合いの長い先輩職員だ。


 お見舞いだからかラフな服装だ、この人の私服を見るのは珍しい。


 普段は戦闘服ばかりだからだ。実働部隊の隊長を務めるほどの実力者で経験も豊富。おまけに恩人でもある。


 付き合いはじめてもう八年。


 子供の頃から世話になっているから二人目の父親みたいだ。


 その人がここにいて自分が病室に寝ているというのはなにかあったんだろう。ぼんやりとしつつも状況からなにがあったのか推測していく。


「事態はうまく収まったよ。お前のおかげでな。これで安心だ」


 そんな宮坂を安心させるためか、それとも労いのためか中水が言う。もう安心だ、と。


「ふ」

「?」

「はっはっは! そうか、こういう言い方は良くなかったんだったな」

「???」


 が、次には破顔して大笑いしている。どういうことか分からず宮坂の眉が曲がる。


「ああ、いい、いい。気にするな。あとで報告書にでも目を通しておけばいいさ。福岡支部出張の件は覚えてるか?」

「福岡? いえ、九州にも行ったことないですよ私」

「忘却剤の打ち過ぎだな。おまえはある事件を担当していてそれは解決した。そこでお前は必要に迫られ自分自身に忘却剤を打った、ということだ」

「それで」


 このよく分からない状況もそれで納得する。


「直近の記憶で覚えていることは?」

「あ~……なんだろ。あ、中水さん月見バーガー食べました? 新作おいしかったですよ」

「それ一か月以上も前だぞ」

「え……」

「まあ忘却剤の原液を打ったんだ、そんなもんだ。忘れたことは追々調べ直せばいい。それと俺はバーキンしか食わん」

「はあ~」


 宮坂は頭を枕に沈める。


 ゲームのセーブデータが消えて振り出しに戻った気分だ。それとバーキン信者も嫌になる。


「それにいい機会だ。お前は働きすぎだったからな、まとまった休みでも取得しろ。お前ろくに寝てもなかっただろ」


 実際宮坂は働き過ぎだった。


 事件を解決したらすぐ次の仕事に移り働き詰め。病院送りは遅かれ早かれの状態だった。


「いい働きにはしっかりとした休息も必要だ。当分は休め」


 だから中水は言った。ここならゆっくり休める環境が整ってる。


 それか退院してどこか旅行か遊びにでも行けばいい。


 なんでもいいが彼女には休息が必要だ。いつまでも化け物と付き合うことはない。


「いえ」


 だがそう言うと宮坂は上体を起こし始めた。


「やりますよ。まずはここ最近の事件を調べ直すのが先ですけど、それが終わり次第現場に復帰します」


 自身に気合を入れ宮坂はすでに仕事をする気でいる。その姿は熱心だと言わざるを得ない。他から見ればさぞ立派に映ることだろう。


「なあ、宮坂」


 が、中水は違った。その姿勢を歓迎するどころか心配している。


「二度も言わせるな、お前は働き過ぎだ」


 その声には寂しさにも似た静けさがあった。これ以上の勤労を彼は望んでいない。


 死ぬかもしれない危険な任務の数々、それをどうして喜べるだろうか。


「どうしてそんなに仕事に拘る? おまけにお前が選ぶのはどれも危険な任務ばかりだ。お前は優秀だよ、それは認めてる。けれどこんな生活してたらいずれ死ぬぞ。お前は死にたいのか?」


 まるで遠回りの自殺のような、彼女の行動はそれを思わせる。


 行きつく先は断崖絶壁、彼女は危険から逃げるのではなく危険に立ち向かっていく行動ばかり。


 それは死にたいようにも見えるほどに。彼女の働きぶりはそれほどだった。


「死にたいって、思ってるわけじゃないですよ。ただ、じっとしてられないだけです」


 中水の心配を宮坂も理解している。自分の働き方が過剰だということも。


 自分は死にたいのか?


 いいや、それは違う。他人から見ればそうかもしれないがなにも死にたいわけではないのだ。ただ、他に理由があるだけ。


「一人になるとふと思い出すんです、今でも。あの時の光景が」


 患者用の薄い白色の寝巻。宮坂は目線を下げ毛布を見つめる。


「…今でも怖いんです、……あの場所が」


 そこには恐怖があった。忘れられない負の記憶。


 それは呪いとなって彼女を蝕んでいる。八年経った現在でも。


「汚染病院、か」


 それを中水は知っている。それもそうだ、彼女を救出したのは彼の部隊なのだから。


 それから彼女が特戦として働けるように世話したのも彼だ。


「お前は数少ない生き残りだからな。分かるよ、お前があそこで目にしてきたもの、襲われたこと、それを思えば当然だ」


 汚染病院。病院まるごと異界に変える異常事象。


 その凶悪さは異常事件の中でも上位のものだ。あそこで中水も多くの部下を失った。


 悪意と敵意を煮詰めたような恐怖の病院。


 当時の彼女はまだ十四歳の子供だった。その時の体験は忘れるはずがない。その時の恐怖と一緒に。


 それを忘れることが出来るとすればそれはまた別の恐怖しかない。


「ですけど、仕事をしている時は忘れられるんです。今に集中できて、過去をその時だけは忘れることが出来る。危険であればあるほど。だから私はやりますよ。やりたいんです」


 仕事に集中していれば汚染病院の過去を忘れることが出来る。


 今に集中しなければ死ぬかもしれないのだ、過去のことを思い出す余裕なんてない。


 だから忘れることが出来る。


 そうして懸命に任務をこなして日常に戻るとまた汚染病院のことを思い出す。


 それを忘れるためにまた仕事に没頭する。そんな不健全な自転車操業を繰り返していた。


「なあ、宮坂。俺たちはなんだ、こういう仕事だ。とんもない化け物に遭遇したり仲間の死を目撃したり、そんなんで心に傷を負って戦えなくなるやつはいつだっている。そういうやつには希望があれば医療目的で忘却剤の使用もしている。お前もそんなに辛いなら使ってみるのはどうだ。これからずっと苦しんで生きるより忘れた方が楽だろ。お前は十分に働いてくれた、全部忘れても責めるやつなんていない」


 忘却剤はなにも目撃者への口封じだけが利用目的ではない。


 それは必要に応じて医療にも使用される。今回宮坂が使ったような認識災害への対処、また心の傷に対してもだ。


 PTSDに代表される心の病に苦しむ隊員に処方されることは別段珍しいことではない。


「それはしません、絶対に」


 が、それは断固として拒絶する。汚染病院は恐ろしい。


 それは今でも怖い。


 その恐怖から逃げるように仕事に取り組んでいるわけだが忘却剤は認めるわけにはいかなかった。


「忘れるなんて、そんなの絶対に嫌」

「でもだ、お前がそれで思い苦しんでるのは事実だろ。お前最近カウンセリングもサボってるみたいじゃねえか」

「あんなの意味ない。これは私の問題よ、指図しないで」

「お前が忘却剤を利用しないのはあいつへの義理立てだろ!? お前が今苦しんでるのをあいつがよく思うと思ってるのか!」


 その一言に宮坂の表情が固まる。


「……それは」


 汚染病院から救出されてから宮坂はトラウマに苦しんできた。


 特戦管轄の心理カウンセリングも子供のころから受けている。


 それほどの心的外傷をなぜ忘れることを拒むのか。その理由ははっきりしていた。


(沓名さん)


 彼を、忘れたくないからだ。


 あの地獄のような場所で自分を助けてくれた人。


 その優しさに感謝した。感動にも似た思いを抱いた。大切な恩人だ。


「彼を忘れるなんて、絶対に駄目」


 忘却剤は汚染病院と一緒に彼の記憶まで消してしまう。なので使うわけにはいかなかった。


「彼は私を救ってくれた。なのに私は自分の身かわいさで彼を忘れるの? ううん、そんなのしない。したくない。彼を忘れるなんて絶対に嫌」


 彼は今どうしているのだろうか。どこにいるのだろうか。


 あの時自分を置いて一人病院へと行ってしまった彼。それから彼は発見されていない。


 この八年間行方不明だ。あの病院に入って生きているとは考えづらい。でも思ってしまうのだ。


「あの人は、まだどこかにいる。見つかってないだけできっと生きている。私はそう信じている!」


 それは希望か、信仰か。


 彼女にとって彼は特別だ。信じている、それが現実的ではないと分かっていても。それでも信じているのだ。


「沓名さんは生きている。また会える! その時あなたは誰ですかなんて、死んでも言えるわけがない!」


 また、彼と出会えると。

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