第17話 安全脅迫症

 その目は焦点が合っていなかった。濁った水面のような目に絶望する。今の橋本はまるで宇宙人の偽物みたいだ。


 宮坂は走ろうとするが腕を掴まれる。それを無理矢理外し彼を突き飛ばす。


「放して!」


 廊下を走る。まずいまずいまずい! いったいどれだけの職員が罹患している? まずは誰に伝えるべきだ?

 

 宮坂は行先を支部長室に向け走った。この事態を知らせなければならない。


「逃げるなぁあ! 裏切者めえ!」

(はあ!?)


 背後から聞こえてきた橋本の声に振り向くと鬼のような形相で追いかけてきていた。


「彼女は偽物だ! スパイで未知のウイルスを振り撒いている! 危険だああああ!」

「なにその設定!」


 もうめちゃくちゃだ、整合性もない。こんな妄言誰が信じるというのか。


 しかし橋本の声にこのフロアにいる全員が宮坂を見つめてきた。その目は橋本と同じ目をしている。


「噓でしょ」


 ざっと十人。ただし真っ当な反応をしているのは自分だけ。あとは全員が作業を止め病的なほど執着した目で見つめてくる。


 一瞬間を置き、


「危険を排除しろ!」


 誰かの叫び声でここは騒然となった。


「くそ!」


 宮坂は逃げ出す。そのあとを追って全員が追いかけてくる。


(全員感染している!? それに罹患者同士で協力するなんて)


 宮坂は走るがこのままでは逃げきれない。いずれ捕まってしまう。


(どうすればいい?) 


 走る中で考える。この場を打破できるような一手。


 それはなんだ? 相手は安全脅迫症の罹患者たち。ならばどうする?


 すると前方からも職員たちがやってきた。廊下で挟み撃ちに合う。このまま突っ込んでも捕まってしまう。


 そこで宮坂はポケットに手を入れそれを投げつけた。


「インフルエンザ患者のハンカチ!」

「うわあ!」


 普段使っているハンカチを手榴弾のように正面に投げつける。


 インフルエンザはもちろん嘘だがそれを見た途端職員たちはそれが毒のように怯え近づこうとしなかった。


「ピロリ菌の腕時計!」

「きゃあ!」


 次に腕時計を外し背後の廊下に投げ捨てる。両者の進行を止め階段を登る。


 しかし当然上の階にも職員はおり宮坂を取り押さえようとしてきた。


「二日も風呂に入ってない女の上着!(真実)」


 職員に向かって服を投げ捨てる。顔を黒のスーツに覆われた男性職員は発狂し廊下を転がっていった。


「くそ! 冗談じゃない!」


 屈辱だ、だが生き残るためにはあらゆる手段を取らなければならない。


 宮坂は廊下を走りながらライターを取り出し火災報知器に近づける。


 それによって建物中でビリリリというベル音と共にスプリンクラーが作動し噴水した。


「うわああ! 水だ、ばい菌があ!」


 どんな水かも分からない水に多くの職員が混乱している。気にすることないのにパニックだ。


 はじめは支部長室にいきこの事態を知らせようと思ったがこの感染率では支部長も怪しい。


 むしろ彼らをここから出す方が危険だ。


 宮崎は警備管理室に行き先を変え扉を開ける。


 中には多くのモニターが並び警備員が椅子に座っていた。


「ここの空気は汚染されてる! ネズミの死体が見つかってとんでもないからうがいをしないと大変だ!」

「うわああ!」


 警備員は体に火が付いたかのように部屋から飛び出していく。


「まったく、どいつもこいつも」


 あまりの反応に辟易しながら扉を閉め制御盤につく。


 特異戦力対策室の建物には非常事態に備え銀行のようにシャッターが下せる仕組みがある。


 それを起動し出入口を封鎖、これで感染者をここに閉じ込める。


「よし。これでとりあえずは安心か。感染が広がらなければ絶対にあん……」


 そこまで口にして言葉が止まる。ほっとした表情が固まり片手を頭に当てる。


(まさか、私も感染している?)


 意図せず出てきた言葉に血の気が引く。


 病を医者に宣告された患者の気分だ。


 早くしなければ自分もいつ彼らのようになるか分からない。


「くそ!」


 スマホを開く。非常事態だ、本部にこれを伝えなければならないがこのまま伝えるのは危険だ。


 感染経路が分からない。声を介せば感染するのか、それとも文字でも感染するのか。


 もしかしたら安全という言葉がトリガーかもしれない。


宮坂は考えた後暗号化通信で本部に連絡する。


(コード78を送信)


 これなら安全という言葉や状況の仔細を語ることく非常事態であることを知らせることが出来る。


 コード78は認識(ミーム)災害の感染、拡大における非常事態を意味する。


 これを受け取れば感染を防ぐ用意をした部隊が来るはずだ。


 あとは応援が来てなんとかしてもらうのを願うしかない。


(これで安全、これで、違う! まだすることがあるッ)


 宮坂は管理室から出て備品保管室へと向かう。


 中へと入り扉の鍵を閉める。部屋には多くの白い棚がありそこから目当てのものを探していく。


(あった)


 それは忘却剤と呼ばれるものだ。それを手に取り床に座り込む。


 忘却剤。


 それは文字通り記憶を忘れることが出来る液体だ。


 スプレー状にして吸引すれば現在から二時間ほどの記憶を忘れることが出来る。


 また注射器に入れ静脈注射すればその量に比例して記憶を無くす。


 悪用される危険性が高いため民間には出回っていない代物だ。


 主な使い道としては情報統制の一環として異常事象に出会ってしまった無関係な人に用いることが多いが宮坂はこれで自分の記憶を消そうとしていた。


(安全脅迫症が認識災害なら記憶ごと消せば治るかもしれない。賭けだがこれしかない)


 宮坂は注射器の針を忘却剤の入ったケースに突き刺し注入していく。


 忘却剤は劇薬だ、ちょっとの量を間違えるだけで数年は軽く飛ぶ。


 本来ならば希釈して使うのだがそんな用意はない。


 安全脅迫症の感染を考慮して二日分、シャツをめくり腕に注射していった。


「ふう」


 これで治るかどうかははっきり言って分からない。治るかもしれないし治らないかもしれない。


 しかし現状これしか打つ手がない。


 気が付いたとき自分はなにが起こっているのか、なにがあったのかも分からないはずだ。


 もし事件が解決していなければその遅れは致命的になる。だからこれは危険な賭け。


「開けろー! 消毒だ!」「爆弾のスイッチを渡せ!」「怪物め! 本物の宮坂職員をどこにやった!?」


 すると扉の外が騒がしくなってきた。扉を開けようとガタガタ音がしている。


「くそ」


 宮坂は起き上がり棚を引っ張っると扉の前に置いた。バリケードを構築していく。


(あれ、私)


 すると視界がぐるりと回る。立ち眩みのような足が地面に付いていないようなふわっとした感覚に襲われる。


(効いてきたか)


 忘却剤の効果だ。


 今が記憶できない。常に自分がどこにいるのか分からない感覚。立っているのかも分からず平衡感覚が狂う。


 宮坂は扉から離れた場所に腰を下ろし背中を壁に預けた。頭がぐわんぐわんする。


 不思議な感覚だ、はっきり見えているのに水中で目を開けているようにピントが合わない。


 忘却剤で記憶できないためここがどこなのか、どんな光景なのかいつまで経っても分からない。そのうち視界だけでなく様々なものまで忘れていく。


(私は今なにを、ここはどこだ)


 意識は混濁しだんだんと薄まっていく。宮坂は目を閉じた。外から響くうるさい音も気にならない。


 深い底へ意識が沈む。強烈な睡魔に飲み込まれるように宮坂は忘却していった。

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