第6話 脱出できない悪意
二人は食堂を出て廊下に立つ。とりあえず怪異は見えないが油断は出来ない。
「ここから出るにしたって下に向かわないとな。さっきの天井にいたやつら、あれに気を付けてエレベーターに向かうか」
「あ、エレベーターは駄目です。見に行ったんですが、その」
「?」
言い淀む。振り返って彼女を見るが言いにそうにしている。
「なんか、下の隙間から、多分血だと思うんですけど。ずっと漏れ出していて」
「なるほど、それは止めた方がいいな」
それは無理だ。扉が開いたらどうなるかなんて想像もしたくない。
「なら階段か。それで下りていこう」
「はい」
さきほど使った階段に向かって進んでいく。
優輝が先行し後ろに宮坂が続く形だ。聞けばあの天井の一群は突然、それこそ幽霊のように現れたようだ。
そのため不意を突かれたので常に天井にも気を使わなくてならない。
普段意識しない天井にも頻繁に目を向け慎重に歩いていく。
暗い廊下に二人分の足音が響く。すぐ背後に彼女の気配を感じる。ただ暗い廊下なためなにかあった時はぐれないか心配だ。
「はぐれるわけにはいかないからな、手繋ぐぞ?」
「は、はい」
彼女の手を掴む。彼女も素直に従い掴む手を握り返してくれる。
繋ぐ手と手。それが確かな存在を伝えてくれる。自分が一人ではないという証明が手の平を通じて分かる。
そうして優輝は廊下や天井を警戒しながら進んでいった。階段までそう遠くはないはずだ。
あの天井にいた群れも元の位置にはおらずどこかへ消えたようだ。順調でありこのまま階段まで行けそうだ。
「あの、沓名さん」
「どうした」
が、そこで宮坂が立ち止まった。
「あの、その」
見れば彼女は顔を下に向けその表情は苦しそうだ。なにかを耐えるように立ち尽くしている。
「どうした、具合が悪いのか?」
「えっと」
絞り出す声は逼迫しており余裕がないのが伝わってくる。本当になにかあったようだ。
「トイレ、行きたいんですけど……」
「…………」
この時、抱いた気持ちを表す言葉を優輝は思いつかなかった。
「我慢できないか? 今それどころじゃないだろ」
「ダメ、無理そう。実は前から行きたかったんだけど忘れてて。さっきジュース飲んだから」
もしあとわずかでも気を緩ませていたらため息を吐いていたかもしれない。しかしそんなことをしたら彼女に忘れられないトラウマを植え付けていただろう。
こんな非常事態に悠長にトイレなんて行けるはずがない。
しかし相手は中学二年生の女の子だ。それに駄目だと言おうにも彼女の表情は深刻で。
(まずい。泣きそうだ)
耳まで真っ赤にして恥辱に耐えていた。命の恩人でありそれ以上に男性に、トイレに行きたいなんて本当なら口が裂けても言いたくないはず。
だけどもし万が一に粗相をするようなことになれば? 駄目だ。それだけは絶対に駄目。これは彼女が下した苦渋の決断なのだ。
「分かった、急ごう」
「う、うう」
(泣いちゃった……)
救いはない。けっきょくなにかを失う選択を彼女は先延ばしすることなく選んだ。
それで二人は行く先を一旦手洗い場に変え移動する。不幸中の幸いなにかに遭遇することもなくたどり着けた。
女子トイレの入口に着くが中は暗い。入口付近にスイッチがあるので押してみたが反応しなかった。
「点かないな」
「そんなぁ」
絶望。薄っすらとは見えるが真夜中に薄暗い病院のトイレなんて利用したくない、それが普通のとこでもだ。それがこんな場所ならなおさら。
「あの」
「なんだ?」
断崖絶壁に立たされたような少女がゆっくりと振り返る。
「一緒に、中確認してくれませんか? それから出て行ってもらっても……?」
「…………」
ガクガクに震えた様子で見つめてくる。ここまで来てもう引き留めようとは思わない。
「ああ、それでいいよ。こんなところのトイレなんてビビるよな」
携帯で中を照らしつつ奥へと入っていく。トイレの怪談なんていくらでもある。
それが現実になるかもしれないのだ。恐る恐る扉を開けていきなにもないかを確認していく。
全部の個室を確認し終わりこれなら利用できそうだ。とはいえ入ってからなにが起きるか分からないので安心はできないが。
「それじゃあ俺は外で待ってるから。なにかあればすぐに行く」
「はい……!」
力なく答え宮坂はトイレの個室に入っていった。こんな暗さで利用するのは不便だろうが我慢してもうらしかない。
トイレの外、廊下に立つ優輝は気が気ではない。
一刻も早く終わって欲しいと願いながら顔を右に左に向け警戒に当たる。
排泄時というのは自然界において最大の隙だ。それは人間も同じで身動きが取れないため今襲われるのが一番まずい。
それで特に気を立て周囲に注意を向けている。自分だけでなく彼女の命もかかっているのだ、いつも以上に集中する。
するとなにかを引きずるような音が聞こえてきた。金属音じゃない。
音の方向を見る。廊下の先、まるで土嚢でも引きずって歩いているかのように一定のリズムで聞こえてくるのだ。なにかがいる。
まずい。すぐにトイレへと駆け込んだ。
個室に入り扉を閉める。
気づかれたか? 分からない。姿は見えなかった。たぶんバレてはいないはず。
もし気づかれていたら本当にまずい。ここでは逃げ場がない。追ってこられたら詰みだ。
「え、え? え!? 入って来たんですか!?」
そこで宮坂が小声で聞いてくる。非常事態だ、やむを得ない。
「外になにかいる、ここに隠れる」
「ムリムリムリムリ!」
「無理じゃねえだろ!」
小声で言い合うがこればかりは無理だ。外には化け物がいる。ここしかない。
「お願い、すぐに出てって……、お願いします。もう我慢できない……!」
「だから無理だって、外におかしいのがいて」
「イヤアアアアア」
小声で絶叫という器用な悲鳴を上げつつ、薄い壁一枚隔てた向こうで宮坂が一人戦っている。
「駄目、もう、う……あ、う! ……くう!」
なんとか彼女に健闘してもらえるよう胸の中で最大限の声援を送るがそんなことより外の存在だ。
引きづる音からまだ見たことない怪物の可能性が高い。
この病院にはいったいどれだけの怪異が潜んでいるのか。音に集中し近づいていないか警戒する。
「どうなったんですか?」
「いま音に集中してる」
「はあああああ!?」
「外のだよ!」
それから数秒、個室に閉じ籠ってみたが襲ってくる気配はなく音もしなくなった。
「もういいんじゃないですか?」
小声だがかなりキレてる。
「分かった、分かったよ」
扉を開けて外に出ていく。念のため注意して様子を見るが姿はなくやり過ごせたようだ。
「なんだったんだ、あれ」
ここにいる存在はすべてが異常だ。針が刺さった看護婦に天井を歩く患者、他にもいる。本当に予測不能で不気味さだけが増していく。
ジャー。
(水を流すな、音が出るだろ)
そこで宮坂が用事を済ませたらしく音が聞こえてくる。本当なら一言注意したいところだが女性相手ではどう伝えればいいか。
宮坂がトイレから出てきた。
「すみませんでした……」
「いや、いいよ。仕方がないよな」
言えない。言いにく過ぎる。
気を取り直し出口を目指す。彼女の手を取り一緒に歩く。多少躊躇う様子を見せたが強引に繋いだ。
それで優輝がここに下りてきた階段に無事着けた。
「これであとは一気に一階まで下りて、そこからは正面入口から出られるはずだ」
「うん」
「いくぞ、急いだほうがいい」
階段を下りる時は手を繋いだままだとかえって危険なので放し小走りで駆け降りていく。
このままいけばここから出られる。踊り場をUターンし次の階段へ。そして一階に下りる。
「よし」
階段から廊下に出る。あとは正面入り口まで走っていけばいい。
「え」
が。ここにきて異常が顔を出す。
「二階?」
廊下に出てまず目に飛び込んできたのがF二の文字。
「そんな馬鹿な。下りただろ?」
確かに下りた。ここは一階のはずだ。しかし壁には二階だと表示され階段はさらに下に続いている。最初は地下への階段かとも思ったが。
「沓名さん、外、変わってない」
「ほんとに?」
宮坂が廊下の窓から確認してくれたが本当に二階のままらしい。
「もう一回下りるぞ」
階段を下りる。さっきまで期待していた気持ちがどこかにあった。油断してはいけないと固く思っていてもどこか脱出できるのではないかと思っていた。
なのに今は焦っている。淡い期待が端から焼かれていく。このままではなくなってしまう。
階段を下り廊下に出る。
しかしそこにはまたも二階の文字があった。もちろん窓際からの景色も同じ。下りているのに空間的には変わっていない。
二階の階段をループしている。
「なんだよこれ、くそ!」
困惑と苛立ち、両方が湧き上がる。こんなことがあるか? せっかくここまで来たのに出れないなんて。
「沓名さん。他の階段はどうですか? そこならもしかしたら」
「そう、だな」
励ますような口調で宮坂が優しく言ってくれる。しっかりしなければならないのに自分の方が乱れている。
冷静になれ。そう自分に言い聞かせ彼女に振り向く。
「ごめん、取り乱した」
「そんな。大丈夫ですよ」
期待を折られたらショックを受ける。それは当たり前ではあるがここはそんな当たり前を許さない。
心を乱した者をこの病院は救うのではなく殺しにくるのだから。
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