第2話 第一章 汚染病院

 52ヘルツのクジラというものがある。


 本来クジラは10から39の周波数で声を出しコミュニケーションを取っている。それはまるで歌でも歌っているかのような優雅なものだ。


 しかし観測されたこの個体は文字通り52ヘルツという高い周波数を出している。


 それはクジラの可聴域を超えるため彼らでも聞き取ることが出来ない。よほどの音痴かそれとも奇形か、このクジラは誰にも聞こえない歌を歌い続ける。


 仲間を求めて。誰かを求めて。


 よってこの個体は世界で最も孤独なクジラとされている。決して出会えない悲しいクジラ。


 しかしそれはこの個体だけだろうか。どれだけ声を出しても、どれだけ助けを求めても届かない、そんな存在はいるかもしれない。


『たすけて……』


 今この時も。誰にも聞こえていない声を響かせて。


『たすけて』


 52ヘルツのSOS、決して誰にも届かない助けを叫ぶ。何度も。何度も。何度でも。


『たすけて兄さん!』


 それが叶うまで。


(!?)


 胸を突くような感情に沓名優輝(くつなゆうき)はハッと目を覚ましていた。見慣れた自室の天井を珍しそうに数秒見つめる。


 なんだろうか、妙に胸が重い。なにか重大なものを忘れている、そんな焦燥感だ。


 上体を起こし額に手を当てる。どうも高校の制服のまま眠ってしまったらしい。


 遅めの昼寝だったらしく窓に目を向ければもう夕日が落ちていくころだ。


 薄暗い部屋、壁には好きな海外アーティストのポスターが張られ自習机には学校で使っている鞄が置かれている。


 自分の部屋。自分の世界。だけどまるで作り物のように現実感が薄く感じる。寝起きだからかまだ意識がはっきりしない。


 そんな中でさきほど見た夢を思い出していた。


 助けを求める必死の叫び。それは自分の妹の愛羽(めう)の声だった。


 あれは夢だ。どんな夢だったのかは覚えていない。ただ声だけは覚えてる。たすけて。そう叫んでいた。


「変な夢だな」


 奇妙な夢に優輝は苦笑してベッドから立ち上がる。これ以上は寝すぎだ、夜眠れなくなる。


 ふと妹と最後に話をしたのはいつだっただろうか考える。ぱっと思い出せない。


 昔はよく遊んでいたのに最近はめっきりだ。兄妹の関係は冷え切ってしまい気まずさすら覚えてしまう。


 優輝は自習机に置いてある写真たてを手に取った。


 自分と愛羽の写真。自分が黒髪なのに対して愛羽は母に似て薄い金髪をしている。


 写真に映っている自分も彼女も笑っているのにいつからだろう、今では目を合わせるのも躊躇われる。嫌いなわけじゃない。


 むしろ大事な家族だ。妹を生んですぐに亡くなってしまった母との約束でもある。


 お兄ちゃんとして、妹を守ってあげる。愛羽が生まれてくる前に約束した。


 その約束は今も忘れていない。


 ピリリリ。


 そこで携帯電話から通知音が響いた。ベッドに置かれているそれを手に取れば愛羽からだ。


 妙なタイミングだ。それに彼女から電話なんて珍しい。こういうのは重なるものなのだろうか。優輝は通話を繋げ耳に当てる。


「もしもし、どうした?」

『たすけて兄さん』

「え」


 その第一声、予想だにしなかったセリフに意識が固まる。


「愛羽? どうした、なにがあったんだ?」

『お願い、助けて兄さん!』

「もしもし? もしもし愛羽!?」


 そこで通話は終わってしまう。無情な機械音だけが規則的に鳴っている。


(泣いていた?)


 どういうことか分からない。冗談でこんなことをする子ではないし。なにかあったんだ。こちらから電話を掛けてみるが繋がらない。


「くそ!」


 苛立ちが声に出る。


 その時テレビが点いた。そこにはニュース番組が流れており女性アナウンサーが原稿を読み上げている。


『続いてのニュースです。犬會(いぬかい)市において沓名愛羽さんが市内犬會大学医学部付属病院に搬送されました。容態は悪く一刻を争う状態です』

「なに?」


 妹だ。顔写真とともに搬送された病院が映し出されている。


 病院は市内の病院だ、自転車で走ればそう時間は掛からない!


 優輝は家から飛び出した。マンションの階段を駆け降り駐輪所へと急ぎ自分の自転車にまたがっていく。そのまま勢いよくペダルを漕ぎ出した。


 不安が心を覆い頭は嫌な想像を生み出して止まらない。妹は無事なのか?


 取り返しのつかないことになってはいないか? 晴れない疑念が胸を押し潰す。


 夕暮れの影が大きく傾き茜色の光が地平線に降りていく。闇が勢力を伸ばし世界に広がっていく。


 優輝は走る。車が走り人々が歩道を歩く。


 そこには人のいる街、活気がある。しかしいつしか周囲から音はなくなっていた。


 道路を走る車の音も聞こえなくなり見かける人もぽつ、ぽつとまばらになっていく。


 いつしか完全になくなっていた。十分くらいか、それくらいの間もう誰ともすれ違わない。その間ずっと一人で自転車を漕いでいた。


 無音だ。無人の街だ。


 夜が、どんどん濃くなっていく。もうここは昼ではない。もうここに光はない。


 もう、ここは人間の居場所でない。


 一心不乱に自転車を走らせ優輝は道を曲がりその先にある病院の敷地へと入っていく。


 時刻はもう夜で外灯の光が周囲を照らしている。優輝は駐輪所に自転車を止め正面入り口へと向かう。


 愛羽が心配だ、すぐにでも入ろうとする優輝だがその足が一旦立ち止まり代わりに病院を見上げていた。


 犬會病院。いわゆる総合病院であり市内で一番大きな病院だ。


 敷地内にはいくつもの病棟があり四階建ての建物には多くの医療従事者と患者が病気や怪我と戦っている。


 人の努力と技術と想い。それらが最も集まる場所と言っても過言ではないだろう。


 そうした輝かしい面がある一方で最も死に近い場所であるのも事実だ。それが最善の結果であったとしても亡くなる人はいる。


 むしろ病院が持つイメージはそっちの方が強いかもしれない。


 死。ここにはそれが集積している。そこにある人々の無念と共に。


 夜の病院はどうしてこうも不気味なのだろう。周囲の静けさもそう。木々と塀に囲まれたこの場所は街と区切られている。


 それに風すら吹かない。無音。あまりにも静かだ。それがまた不気味さに拍車をかける。


(そういえば)


 そこであることを思い出した。


 それはここにまつわる黒い噂だった。


 なんでもこの病院には使われていない部屋がありそこで表沙汰には出来ない死体を隠しているとか。


 それを裏付けるように普段使わない搬入口があるらしい。他にも様々な噂がここにはある。


 いつしか、見上げるこの病院に言い知れないものを感じていた。


「…………」


 どんよりとした重苦しい雰囲気。この病院からはそれが漂っている。


「なに考えてんだ俺」


 雰囲気に呑まれ過ぎだ。馬鹿馬鹿しい。優輝は自分を叱り足を動かした。そんなあいまいな恐怖感で怯んでどうする。


 そんなことより妹の方だ。この病院に愛羽はいる、早く会いに行こう。


 優輝は正面入り口前へと立つ。透明なガラス扉が開き中に入ると病院のエントランスに出る。


 総合病院というだけあってかなり広い。外科や内科など受付がいくつもありどこを受診すればいいのか案内を兼ねた総合受付もある。


 休憩場所もあり多くの長いソファが並ぶ場所にはテレビが壁に備えつけられ自販機も近くに置かれている。これだけでも立派な病院だと分かる。


「あれ?」


 しかし違和感が優輝を襲う。そんなはずはない、そう思い今一度見渡してみても変わらない。


(いない?)


 そこには誰もいなかった。


 そんなことあるか? と思うも誰も見当たらない。


 ここは総合病院、夜に患者の搬入もあるだろうし利用者や医者の往来だってあるはず。それが一人もいない。


 沈んでいた、それは奥底に沈んでいたはずだ。しかしそれは小さな気泡となって水面に顔を出す。


 恐怖が、ぞわりと現れた。

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