無自覚な利用 「クララは歩かないといけないの? 少女文学にみる死と障害と治癒」/ロイス・キーツ

 原題は、「Take Up Thy Bd and Walk」。


 これは聖書からの引用文で、邦訳は「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」というもので、イエスが病人に対して言ったこの言葉により、起き上がれなかった病人がイエスの言葉通り、床を担いで帰っていったというエピソードです。

 著者によればこのエピソード(「言葉」)は、「信仰を通して自分自身の回復と人生に責任を持つという意思の例えである」とされます。

 

 レビューで多く見受けられたのが、邦題を「クララは歩かないといけないの?」と書き直したところに、本書が優秀な翻訳者と出会ったことの証があり、読者としての益があります。

 簡単に読み解ける本ではないですが、「障害」(あるいは、「困難」という言葉をあててもいいかもしれません)を文学作品の中に置くとき、あるいはこれまで文学作品の中に置かれた「障害」は、どのような変遷を辿っていったのか。そして、その教訓と結末の源流はどこにあったのか。

 これらは、「障害」のみならず、広く『困難』を描く現代文学作品(プロアマ問わず)においても共通するテーマと思います。

 (※この他、本作では少女小説の内容や変遷を通して、抑圧された女性の問題についても扱っていますが、本エッセイで両立して扱うことは筆者の力量に余るため、「障害」に焦点を当てたいと思います)

 

※あらすじ

 大部分の章において、題材として取り上げられているのは、主にヴィクトリア朝時代の少女小説です。具体的には、「ジェイン・エア」(1847)、「若草物語」(1868-69)、「すてきなケティ」(1872)、「ハイジ」(1880)、「リバーハウスの虹」(1894)、「秘密の花園」(1911)、「少女ポリアンナ」(1913)、「ポリアンナの青春」(1915)です。


 自身も身体に障害を持つ著者が本書において指摘するのは、“これらの文学作品やその時代背景において、「障害」はそれを持つ人物ごと抹消される(死なせる)か、奇跡的に治癒するかのどちらかしか選択肢がなかった”ということです。


 その理由のひとつは、暗黙の、けれど純然たる(「障害」=悪いものの証)という差別や、忌避したいという意識や、社会的認識の存在。もうひとつは、信仰による救済を強化するためのいわば“教材”として「障害」が利用された、そしてそのことが自然である時代だった。あるいは、登場人物の「ハッピーエンドへ移行するための道具」として、「障害」が利用されていた、というものです。


 著者は第一~六章において、前述の八作品を例示し、その主張を展開します。そして続く七章「作家が次にしたこと 二十世紀後半の障害者の描写」、そして「結論」において、ヴィクトリア朝時代の文学作品が人々に与えた影響が、現代においても、文学を超えた広い社会現象の中に、根強く残っていることを例証していきます。


※見どころ

 “困難”を利用することと、描くことの違いは何でしょうか? 


 本書で扱っているのは脊椎損傷などの、主に身体的な支障をきたす障害ですが、「障害」の語義、「物事の達成や進行の妨げとなること、または妨げとなる原因のこと」に近しいものとして、ある人物が直面する“困難”という言葉をあてた場合、さまざまな“困難”がその対象となりえることが考えられます。


 単純化して煩雑な議論を避けるのと(個人的なエッセイですので、ご容赦ください)、筆者自身の混乱を避けるために以降は「困難」に統一しますが、「困難」には「克服するべきもの」「取り除かれるべきもの」というニュアンスを、私たちは疑いなく付与してはいないでしょうか。

 また、そうでないとしても、その選択にどこまで自覚的なのでしょうか。


本書の著者・キース氏は、やみくもに障害の受容や、共生を説いているわけではありません(その肯定的な可能性については、触れていますが)。ですが、彼女のいう「障害」に健常者が過度な期待を押し付け、社会もそれを後押しし、ありもしない幻想を押し付けて、障害を持つ当事者を健常者の成長のための養分にしている可能性。

 

 言い換えれば、障害者を生の世界から「脇役の物語」(パット・トムソン)に追いやっている可能性は、おそらく「障害」に限らず、(それこそ「困難」と言い換えられるような範囲にも)広く敷衍することのできる危険性なのではないでしょうか。


 もっといえば、これは私たちのような『書く』人間にも当てはまることです。


 書き手は、物語のキャラクターを通して、「困難」を出汁だしに使うことが正当化されている立場です。健常者が障害者に非現実的な、あるいは奇跡的な治癒(しばしば、信仰を土台に考えられます。冒頭の「床をかついで」の記述を思い出してください)、キースが引用した「肉体を乗り越えた精神」や「積極的思考の力」、はたまた「決断と楽観の素晴らしい見本」を障害者に無邪気に見出すことのそら恐ろしさに、わたしたちは一切加担関係していないと言い切れるでしょうか。


 仮にそれがどこかしら間違いを含んだものであっても、あるいはその可能性を摘み切れないものであっても、物語の結末は必然的に訪れ、そしてそれは、自由に思考されたうえで、慎重に選ばれたものであるべきです。

 そうして出来上がった物語は、読まれるものは読まれるし、読まれないものは読まれない。当然のことです。


 ですが、「クララは歩かないといけないの?」という本書の問いには、書き手として自覚的である必要があると思います。


 


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