第5話 ヒルデガルト・フォン・ファルケンシュタイン

 馬車の振動で、視界の髪の毛が揺れていく。


 空はあいにくの曇天模様。鈍色の空が広がっていた。


 私の左目が失ってしまった色だ。


 窓枠に肘をついて空を眺めながら、これからを考えていく。


 私は十四歳。あと一年で成人だ。


 貴族なら、高等教育を二年間受けているはずの年齢でもある。


 さらに貴族の教養や振る舞いの習得。


 そこに加えて、領主様は私に『魔術』を教え込むつもりらしい。


 大魔導士が仕込む魔術がどれだけ高度なのか、想像もつかなかった。


 勉強量が膨大過ぎて、許容量がパンクする。


 どう考えても無理がある。


 私の口から、思わず憂鬱なため息が漏れていた。


「お嬢様、旦那様は立派なお人柄をしてらっしゃいます。

 ご心配には及びませんよ」


 隣に座るウルリケさんが、私に告げた。


 お嬢様か。私の柄じゃないなぁ。


 私は彼女に振り向いて応える。


「領主様のことは心配していません。

 どんな人なのか、だいたいわかりましたから」


 ウルリケさんは驚いたように目を見開いた。


「ではなぜ、そのようなため息を?」


「これから勉強しなければならない知識の量に、圧倒されていただけです」


 勉強は嫌いじゃない。


 だけど責任が重たすぎる。


 成人するまでに、どれだけ身に付けられるだろうか。


 小市民が修める知識なら、自信があった。


 ただの平民として生きて行くなら、困ることはないだろう。


 だけど貴族は別だ。


 肩にのしかかってくる領民の人生。


 そんな重たいものを背負って生きる覚悟なんて、まだ持てなかった。


 私の言葉を聞いていたウルリケさんが、優しく微笑んでくれた。


「それを理解しているだけでも及第点です」


 なんでも、そんな『当たり前』を理解しない貴族子女も珍しくないらしい。


 勉強を嫌い、遊びほうけて、貴族の責務を忘れる子供たち。


 彼らに比べれば、私は『貴族の素質』があるのだと言われた。


 ウルリケさんの期待に満ちた目をプレッシャーに感じて、私は再び窓の外を見る。


「ほめてくださったのは感謝します。

 でもその期待に応える自信はありません」


 孤児院ははるか遠く、もう見えなくなってしまった。


 私に『戻る』という選択肢は残されていない。



 私たちを乗せた馬車は、グランツ伯爵邸に向かい進んでいった。





****


 馬車が大きな屋敷の前に止まると、外から使用人が扉を開けてくれた。


 先にウルリケさんが降りて、その手を借りながら私も降りる。


 顔を上げると、屋敷の入り口から正門まで、身なりの整った使用人たちが整列していた。


 彼らは同時にお辞儀をして「お帰りなさいませ、お嬢様」と、声をそろえた。


 『一糸乱れぬ動き』っていうのを、私は初めて見た。


 これからお世話になる人たちだ。


 孤児の私に仕えるなんて、きっと不満だらけだろう。


 私は精一杯の気持ちを込めて、使用人たちに深々とお辞儀した。


「みなさん、よろしくお願いします!」


 そんな私に、玄関の方から領主様の声が聞こえてくる。


「ハハハ! そんなに硬くならなくていいよ!」


 顔を上げると、玄関に黒いスーツの領主様が立っていた。


 そのままゆっくりと使用人たちの間を通って、私に近づいてくる。


「君はまだ貴族見習いだ。

 そんな君を笑う者などここには居ない。

 だから安心をしなさい」


 使用人たちの顔に目を走らせてみても、私を馬鹿にする様子はない。


 少なくとも、顔に出すような人たちは居ないということだ。


 私の前に辿り着いた領主様が、私の頭に硬い手のひらをポンと置いて告げる。


「君――いやヒルダだったね。

 ヒルダは正式に私の娘となった。

 お前はこれから『ヒルデガルト・フォン・ファルケンシュタイン』として生きて行く。

 私のことは『お父様』とでも呼びなさい」


 ――父親か。


 義理だけど、生まれて初めて自分に『家族』と呼べる存在ができた。


 孤児院の仲間や院長先生とは違う、『父親』と呼べる存在だ。


 私の心は舞い上がって、思わず大きな声が出る。


「――はい! お父様!」


 心から漏れていく微笑みを浮かべると、お父様は満足そうにうなずいた。


「食事の前に話がある。

 着替えたら書斎に来なさい」


 そう言い残して、お父様は私に背中を向けて、玄関の中に消えていった。


 背後からウルリケさんが私に告げる。


「さぁお嬢様。お召替えをいたしましょう」


 私は振り返ってうなずく。


 ウルリケさんに背中を押されながら、使用人たちの間を歩いていった。





****


 赤い絨毯が敷き詰められた玄関ホールを抜け、階段を上っていく。


 二階の角部屋に通されると、侍女と呼ばれる人たちが何人か待っていた。


 ウルリケさんは彼女たちと一緒に私の服を脱がしていく。


「ひ、一人で着替えられますから!」


「貴族の衣装は一人で着るのが難しい服もございます。

 短時間で手早く着替えるためにも、慣れてください」


 孤児院のワンピースを脱がされると、今度はオレンジ色のワンピースを着せられていく。


 光沢があるから、きっと高い生地なんだろうなぁ。


 肌触りがつるつるして、なんだか気持ちが悪い。


 着慣れないと貴族の服って、着心地悪いんだな。


 着替え終わると髪の毛を整えてもらう。


 すべてが済むと、ウルリケさんが私に告げる。


「旦那様の書斎へまいりましょう」


 私はうなずいて、先導するウルリケさんの背中を追いかけた。





****


 一階の一室の前で、ウルリケさんが中に声をかける。


「お嬢様をお連れしました」


 中から「入りなさい」とお父様の声が聞こえ、ウルリケさんが私を部屋の中へ誘導した。


 部屋には大きな机の前に座るお父様が居て、書類にペンを走らせていた。


 お父様はペンを置くと、部屋にあるソファを手で示して告げる。


「そちらに座りなさい」


 私はうなずいて、ウルリケさんに誘導されながらソファに腰かけた。


 お父様も椅子から立ち上がり、私の向かいのソファに座る。


 侍女がお茶を入れてくれて、私たちの前に置いた。


 私は緊張をまぎらわすため、お茶を一口飲む。


 ――うわ、これが紅茶? コクがあるし香りが強いなぁ。


 カップをテーブルに戻すと、お父様が軽く手を打ち鳴らした。


「早速だが、これからの方針について話しておきたい」


 私は黙ってうなずいた。


 お父様が言葉を続ける。


「ヒルダは社交界について、どのくらい知ってるかな?」


 ――社交界。貴族を象徴する世界だ。


 昼間はお茶会を開き、夜は夜会を開く。


 おしゃべりしたり食事をしたり、ダンスを踊って他の貴族と交流する。


 童話や御伽噺にも、よく出てくる世界。


 だけど院長先生は言っていた。


 あそこは華やかだけど、本当は戦場なのよって。


 楽しいことより、辛いことや苦しいことが多い場所なんだって。


 貴族はそこで、他の人に負けちゃいけないんだと教えてくれた。


 私の話を聞いていたお父様が、楽しそうに笑った。


「ヒルダは良い教師に恵まれたね!

 そう、社交界は戦場だ。

 華やかに見えて、陰湿で血なまぐさい場所なんだ。

 お前は社交界に通いたいと思うかい?」


 私は素直に首を横に振った。


「そんな怖いところ、近づきたくないです」


 またしても楽し気な笑い声をあげたお父様が、再び両手を打ち鳴らした。


「よしわかった。これからお前がするべきことを告げよう」


 最初に、私は『貴族の教養と所作』を覚えなきゃいけないらしい。


 次に、お父様が教える魔術を覚える。


 それが終わったら、私は魔導の才能を生かした職業に就く。


 働きながら、恋愛結婚を目指せばいいと言われた。


 社交界には近付かなくていいそうだ。


 私は小首をかしげてお父様に尋ねる。


「私はお父様の、伯爵の娘ですよね?

 貴族は社交界に通うものじゃないんですか?」


 お父様はうなずいて応える。


「ああ、そうだよ」


 社交界は貴族の世界。


 貴族として生きて行くなら、そこに関わって生きて行かなきゃいけない。


 でも、ただの魔導士として生きて行くなら、社交界は不要なんだって。


 そうやって社交界とは距離を取って生きる魔導士は、珍しくないそうだ。


 魔術を勉強し、研究をして仕事に生かすだけなら、関わらずに済む。


 そうして平民同然の生活をすればいいと言われた。


 はて? なんだか言ってることがチグハグだ。


「でもお父様、私が最初に覚えるのは、貴族の教養と振る舞いなんですよね?」


 お父様がうなずいて応える。


「そうだよ? お前には『グランツ』に通ってもらうからね」


 ……グランツに、通う? ここって、グランツ伯爵の家だよね?


 通うって、何が?


 私がきょとんとして小首をかしげていると、お父様が苦笑交じりで応える。


「――ああすまない。

 グランツ中央魔導学院。通称を『グランツ』と呼ぶんだ」


 この小さな領地に唯一ある、大きな施設。


 王侯貴族が通う、エリート養成機関。


 領地を代表する施設だから、『グランツ』と呼ぶらしい。


 在校生や卒業生が『グランツ』と言ったら、魔導学院を意味するんだとか。


 ――まぎらわしいなぁ?!


 って、私がそこに通うの?! エリート養成機関に?!

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