第5話
明くる日はよく晴れて暖かかった。陶子と咲子は朝ごはんを急いで食べ、片付けると、身支度して、赤ん坊を綺麗な服に着替えさせた。ミルクをやって、オムツも替えた。抱っこ紐で抱っこして、タクシーを呼んだ。鞄の中にオムツを三つ、液体ミルクを二つ、おくるみを入れた。それから母子手帳と添えられていた手紙も一応持って行くことにした。
タクシーに乗り込むと、二人は無口になった。この子を今日、施設に預けることになるのかもしれなかった。
施設は最寄りの駅からは随分と離れた閑散とした山の中にひっそりと建っている。駐車場でタクシーを降り、正面の玄関に赤ん坊を抱いた二人の老婆が辿り着いた。扉を開けて中に入ると、受付があり、管理人のような人がこちらをみて声をかけてきた。
「ご用件は?」
陶子は、
「ええ、代表の方にご相談したいことがあります。」
「お約束はありますか?」
「いいえ。」
「そうですか。ちょっとお待ちください。」
施設の中は薄暗くて、なんかじめっとした陰気臭い匂いが立ち込めていた。そして後で気づくのだが、これがここにいる子供達にまるで体臭のように染み込んでいるのだった。
しばらく薄暗い廊下にあるベンチで待たされた。壁に貼ってあるポスターや貼り紙をなんとなく眺めていた。赤ん坊が泣き出した。抱っこ紐で抱いていた咲子は、液体ミルクを取り出して、与えた。
そのうち、洗濯をしているのだろう、洗剤の匂いが立ち込めて来た。その匂いが強すぎて、二人は少し気分が悪くなるくらいだった。
「すごい匂いね。嫌な匂いじゃないけど、ここまで強いと気持ち悪くなりそうだわ。」
陶子は小さな声で咲子にささやいた。咲子も鼻先を指で押さえてうなずいた。
いつまで待たされるんだろう。少し中を覗きたくなった。管理人さんに尋ねた。
「すみません。見学ってできるんですか?」
管理人は見ていた書類から目だけ挙げて、「ここに名前と連絡先書いてください。」
と言いながら、古びた大学ノートのページを開いて、ボールペンを差し出した。
陶子は黙って名前と住所を書き、咲子の分も書いた。管理人にノートとボールペンを返すと、管理人は、
「二十分ぐらい、見てくださっていいですよ。ここに戻って来てください。」
と言った。咲子は呆気にとられた。あまりのセキュリティーの甘さに驚いたのだ。陶子も驚いている。二人は顔を見合わせた。
施設の中は、暖房が効きすぎていて、ボーッとして、頭が痛くなりそうだった。洗剤の匂いも鼻をついた。そして、何やらじめっとしたカビ臭い匂いもして、二人は不快であった。
「なんだか匂うし、暑すぎるわね。」
「うん。」
黙ってまっすぐに廊下を歩いた。食堂のような大きな部屋が右手にある。子供たちが揃っておやつを食べているようだ。そこで不思議だったのが、団欒というものが全くないことだった。みんなまっすぐ前を見て、黙々とプラスチックのマグカップの中の飲み物を飲み、クッキーらしいおやつをかじっている。やはり、暖房が効きすぎていた。
「あまり楽しそうに見えないわ。」
「そうね。なんだか、暗い雰囲気ね。」
窓は大きくて、日の光が燦々と降り注いでいる。職員は無口で無表情だった。
食堂を通り過ぎ、洗濯室に来た。例の洗剤の匂いが強くして、業務用の洗濯機が数台、動いていた。中に職員はいなかった。
隣は風呂場だった。男湯と女湯に分かれている。そっと女湯の暖簾を開けて、中を覗いた。ロッカーがたくさんあった。家庭の風呂とはかけ離れている。湯船は大きいのだろうが、果たして、この赤ん坊はどうやってお風呂に入れてもらえるのだろう。不安になった。
「私、嫌だわ。ここにこの子預けるのは。」
咲子の口をついて出た言葉に、陶子はうなずいた。
「私もよ、こんな変な匂いがして、暗くて、ジメジメして、温度調節もしてないようなところにこの赤ちゃん、入れられないわ。」
「帰ろう、お姉さん。」
「うん。帰ろう。」
二人はそそくさと正面玄関へ戻り、管理人に、
「もう、帰ります。ご相談も、もういいです。」
と言い終わると、急いで施設を後にした。タクシーを拾えないので、駅までバスに乗り、電車に乗って家に帰った。
「やるだけやってみよう、二人で。」
「そうね。あの施設より良い環境を与えられるわ。大丈夫よ。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます