中
「……冬弥さん、冬弥さんっ」
弾むような声と共に、頭ががくがく揺れる。どうやら、肩を揺すられているらしい。
意識が浮き始める。まぶたを差す山吹色の光……これは、陽の光か?
薄っすらと目を開けると、眼前に詩乃の顔があった。さっきのことは夢かと錯覚するほどに満面の笑みを浮かべている。
「なんだよ」
「冬弥さん、窓の外を見てくださいっ」
詩乃が窓のほうを指差す。その向こうは濃紺ではなく、青空だった。
身体を起こして外を覗くと、自然に、感嘆の息が零れた。
「すごいな……」
眼下には、瑠璃色の海が広がっていた。巨大な鯨やイルカの群れが飛び跳ね、それが水平線まで続いている。緑の生い茂る小さな島が点々と存在していることもあり、まるでリゾート地にでも来てしまったかのような感覚を抱く。
果てのない満天は雲一つなく、透き通るようなスカイブルー。死者には似つかわしくない、楽園のような景色がそこにはあった。
「ここは本当に、あの世なのか?」
「車掌さんに聞いてみたんですけれど、この世界にも朝や海があって、そこに差し掛かっているのだそうです。私もさっきまで寝ていたので日の出は見れませんでしたけど」
「そうなのか。サーフィンしてるやつもいるし……タイタニックみたいな船も……あれはホエールウォッチングでもしてるのか」
絶景だが、同時に現実的なものも見せられ、なんだか複雑な気分である。実は、生前の世と大して変わらない生活を送れるのかもしれない。……本当に、俺は死んでいるのだろうか。夢を見ている可能性もあるんじゃないか。
隣ではしゃいでいる詩乃は、素直に感動しているようだ。イルカが可愛いとか、鯨が格好いいとか、あの船に乗ってみたいとか……子どもみたいだな。
「綺麗ですね……ずっと見ていたいです」
「ああ、そうだな」
頷いたけれど、たぶん、彼女とは違うものに対しての感想だ。
まばゆい陽光を受けながら爛漫と咲き誇る詩乃の横顔が、俺にはとても輝いて見えた。
「……嬉しそうだな」
「はい。私、本物の海を見るの初めてなんです。だから、嬉しいです」
「この海が本物かどうかも微妙だけどな」
「……意地悪です、冬弥さん」
詩乃が小さな頬を膨らませる。……可愛い。
「言ったろう、俺は優しくない」
「それは、嘘です」
不意打ちの否定。俺の一瞬の驚きは、詩乃の微笑に掻き消される。
「冬弥さんは、言葉遣いは乱暴ですが、とても優しい人です」
「……少し話しただけでなに言ってんだ?」
「それで十分です。私を信じてコートを預けてくれました。お礼も言ってくれました。名前も教えてくれました。私が悪いのに、謝ってくれました。この景色を見て、一緒に感動してくれました。だから冬弥さんは、優しい人です」
「おめでたいやつだな。たったそれだけのことで」
「それだけのことでも、私はとっても嬉しかったです。心が暖かくなりました」
「そうかよ……」
それはきっと、俺が抱いた気持ちと同じものではないだろうか。俺が名乗ったときの、あの暖かな感情と。
詩乃が優しい笑みを向けてくれただけで……俺の心は、少しだけ揺れ動いた。たったそれだけのことで。久しく見なかったその温もりを、僅かに感じただけで。
俺は、こんなにも弱かっただろうか。こんなにも、情けなかっただろうか。
だとしたら、初めてそれを自覚させたこの人はいったい、何者なのだろう。
「あんたは、おかしなやつだな」
俺の呟きに、詩乃が眉根を寄せる。
「それは、どういった意味合いでしょう。面白くて笑える、ということでしょうか」
きっと違う。全く面白くないし、笑えない。ただでさえ最後に笑ったのがいつか思い出せないほど笑顔から縁遠いのに、今はもう死んだ身だ。これからどうなるのかなんて、いくら考えても分からない。
蒼海を見て生まれた小さな期待も、相変わらず燻っている不安を完全に覆い隠すことなんてできない。そんな状態で笑顔になれる強さを、俺は持ってはいなかった。
それでも……すでにそこにある笑みを消すなんてことは、しなくてもいいだろう。
「そうだな。たぶん、そういうことだ」
「それは良かったです。笑ってもらえているのなら、私も嬉しいです」
「……やっぱり、変なやつ」
俺の曖昧な答えも意に介さず咲いている、詩乃の心地いい温もり。
それを、わざわざ捨てる必要はないんだ。
「では冬弥さん、もっとお話ししましょう。それで、たくさんたくさん笑ってください」
「俺にはあんたの目的がいまいち分からない」
「目の前にいる誰かに笑っていて欲しいと思うのは、自然ではありませんか?」
「自然というか天然だな。それが本心なら、あんたほど純粋な人間、そうはいない」
「そうでしょうか」
「ああ。少なくとも俺の周りには、他人の幸せを願えるような人間なんて一人もいなかった。誰一人……俺に笑いかけてくれるやつなんて、いなかった」
生前の記憶がフラッシュバックする。コンクリートよりも固い壁が、俺と両親との間にそびえ立つ。会話のない家族。空っぽの器。奪われていく僅かな希望と安らぎと、思い出。
全てが変わっていく。崩れていく友情。募る不信。肥大化する猜疑心。
天野冬弥という人間の人格、その全てが。
「俺の周りに笑顔なんてもの、存在しなかった。だから俺も笑えないんだ。笑い方も遠い昔に忘れてしまった」
今更なにを言っているんだ、俺は。こんなこと言ったって、なにも変わらないのに。
詩乃の笑顔を、曇らせてしまうだけなのに……。
「俺には分からないんだ。あんたが……いや、誰かが他の誰かに対して笑みを向ける理由が、方法が、意義が。どうしたら笑える? どうして笑うんだ? ……俺には、全然分かんねぇよ……」
「冬弥さん」
気がつけば俺の拳は、爪が食い込むほどきつく、握り締められていた。その上に暖かな手が重ねられている。詩乃の手だ。俺のものより小さくて細いくせに、何倍も大きくて、柔らかい。
彼女の顔を見つめる。優しい瞳だった。
「辛いことが、あったのですね」
「別に。たぶん、よくある話だ」
「……」
詩乃は俺の手を包み込んだまま立ち上がると、なにを思ったか俺の隣に腰を下ろした。
「なにしてんだ」
「冬弥さんの真似です」
「いや、そうじゃなくて」
距離が近いんだよ。手で触れ合うことだって慣れていないのに。詩乃の温もりが、より荘厳な波となり、俺の身体に浸透していく。甘ったるくて、くすぐったい。
そういえば……腐臭とか、しないんだな。
「なにがあったのかは、聞きません。聞かれたくないでしょうから」
「まあ、そうだな。それこそ棺桶まで持っていくつもりの、俺だけの記憶だから。あんたに愚痴っても仕方ない」
「はい。でも……冬弥さん」
傍らに、詩乃の顔がある。……頬も唇も、柔らかそうだな……。
長閑に佇む大きな瞳の中には、今まで散々見てきた不機嫌そうな表情が映っていた。
「冬弥さんがこれから、この世界で〝生きていく〟ことを望むなら……きっと、その隙間を埋めることはできると思います」
「隙間?」
「はい。例えば笑い方とか。理由や方法なんて、ちょっとずつ覚えればいいんです。こんなに綺麗な世界なら……笑い合えるような優しい人たちもたくさんいます、きっと」
「誰かと笑い合うってのは、楽しいことなのか?」
「はいっ!」
「そうか……」
そんな状況、耐えられるのだろうか? 目の前にひまわりのような笑顔が一つあるだけで、こんなにも眩しいのに。
「他にもたくさん、やりたいこと、楽しいことを想像してみてください。それを望んでみてください。それが、隙間を埋める第一歩になります」
「難しそうだな」
「そんなことないです。いつだって想像することが、自分の力になっているはずですから。楽しいと思える未来を想像する。生きていくことを望むというのは、そういうことではありませんか?」
想像か。生きていたいと思うのは、その先に自分の欲するものが一つでもあるはずなのだと想像し、願い、諦め切れずに手を伸ばす……そんな、人間臭い気持ちだろうか。
俺は、なにを思って生きていたのだろう。どんな願いを持っていたのだろう。希望なんて持ち合わせていなかったはずだった。だから、楽しい未来なんて知らない。
……でも、だからこそ。死んでしまった今ならば、新しい望みを持ってみてもいいのかもしれない。詩乃が言うように、隙間を埋めるために生きたいと思っても。
「……しかし、死後の世界で〝生きていく〟か」
「変でしょうか?」
「かなりな。けど不快じゃない。なんというか、あんたが言うとむしろ自然に感じる」
「それは、褒められているのでしょうか」
「どちらかと言えばな」
「そうなんですか。ありがとうございますっ」
本当に……変だ。彼女も、俺も。もう、俺の心は忙しなく躍っていて、そんな感覚は何年ぶりかも分からなくて。感情の揺れを、彼女に悟られないか心配で。
人と話すってのはこんなにも楽しいことだったのかと、内心で首を傾げている。生前は皮肉と罵倒ばかりで……俺にもたらされる言葉も、真っ黒なものしかなくて。
死と同時に書き換えられてしまった世界は、新しい気持ちを次々と生み出していく。
笑ってくれなんて、今までに誰が微笑んだだろうか。
少しずつ覚えていけばいいなんて、誰が言ってくれた。
優しい人だとか、喜んでもらえてよかったとか、ありがとうとか。
最初に感じた通り世辞なのか、それとも本心なのかは、どうだっていい。この温もりを、偽物なんかにしたくない。
ああ、俺は本当に、どうしてしまったのだろう。
「それでは冬弥さん。この列車から降りるまで……このまま、お話ししてもいいですか」
「いいよ。あんたの話、もっと聞きたい」
「はい! ……でも、私の話って……なにを話せばいいのでしょうか」
「なんでもいい。あんたの思い出でも、家族のことでも、友達のことでも、世間話でも。あんたの話を聞けるなら、なんでも」
詩乃の笑みが、太陽みたいな笑顔に変わる。今までで一番、明るい。
ずっと忘れていた暖かな感情が、彼女の言葉一つ一つに呼び覚まされていく。
そんな小さな幸せを傍に感じながら、彼女の声を聞いていた。
俺は、随分とやんちゃなガキだったと思う。
とにかく立ち止まることが嫌で、年中走り回っていた。転んで怪我をしても気にせず、友達と大声で笑って、笑って、みんなで笑い合って。優しい両親と一緒に、幸せな……そう、間違いなく幸せな時間を過ごしていた。
けれど、俺が小学校に入学する日――あの日。入学式へ向かう道程で、俺の両親は交通事故であっけなく死んだ。二人とも即死だったそうだ。
俺を引き取った母方の叔母は、気性が荒い女性だった。外面がいいので他人からの評判はよかったのだが、家では大酒飲みで毎日のように俺に暴力を振るっていた。旦那のほうも同様で、どうやら俺の成績が実の子より上であることが気に食わなかったようだ。
その実の息子は秋良という名で、俺と同い年。彼は嫉妬深い人間で、学校では俺に関する与太話をしょっちゅう触れ回って、俺の評判を下げようと画策していた。
一方の俺はというと、元来が社交的な性格ではなかったこともあり、すっかり捻くれてしまった。中学生になる頃には彼らの扱い方というものを熟知してしまい、わざと成績をガタ落ちさせることで機嫌を取り、それによって高校への入学を許可してもらった。
とはいえ……それでも相変わらず、俺たちの間に家族らしい会話など皆無で、結局のところ高校へ行くために利用しただけだ。
根拠のない噂話のお蔭で俺の友達はゼロのまま。捩れに捩れた俺はいつも機嫌の悪そうな顔で、いつの間にやら他人に関わることを拒否するようになり、今に至る。
全て彼らの責任、などと言う資格がないことは分かっている。けれど、だからといって彼らを恨むまいと思えるほど、俺はできた人間ではなかった。
そういや、秋良のやつ。高校にまで付いてきて、俺の噂を流布してやがったな。
あのとき、俺を駅のホームから突き落としたのは、秋良だったんじゃないだろうか。雨に濡れる線路に落ちながら振り向いた視界の隅に、確かにあの顔が映っていた。いきなり後ろから押されたから確証は持てないけれど、そのくらいには俺は嫌われていたと思う。
まあ、なんにせよ。俺の死は、彼らのためにもなるだろう。俺という余計な重荷から解放されたのだから、これからは三人で幸せに生きていって欲しいものだ。
そういう想像ができたのも、きっと、詩乃のお蔭なのだろうな。
「では冬弥さんは、猫派なのですね」
「ああ。子どもの頃、近所で飼われてた犬に思いっきり腕を噛まれたんだ」
詩乃が嬉しそうに、俺に語りかける。俺の思い出も引き出しながら。
小さい頃の思い出、家族で遊園地へ出かけたこと、友達とかくれんぼをしたこと……。
食べ物や動物の好き嫌い、得意だった科目、特技、感動した映画……。
そんな他愛のない話が続く。俺にも友達や恋人や……本当の親がいたら、きっとこういう会話を楽しんでいただろうなって、そんな想像をした。
詩乃が紡ぐ言葉は、ただ聞いているだけで心が安らぐ。話し上手かつ聞き上手で、結局俺自身のことも、だいぶ喋ってしまった。
やがて陽が落ち始め、橙色の光が車内を照らしたとき。曇りも穢れも一切感じさせない微笑みでその光を受け止める詩乃はやっぱり可愛くて、目が離せない。
そうして、自分たちが死者であることを完全に忘却してしまうほどに……俺は彼女の語る世界に、引き込まれていった。
けれど……この世界は、忘れてくれてなんかいない。
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