くるくる星のトレイン

夏川はち

 ああ、俺はこれから死ぬんだな。

 その瞬間に俺が抱いた感想は、そんなふうに、ひどく薄情なものだった。

 これまで何度、死にたくなっただろうか。けれどそのたびに楽しかった思い出が頭の真ん中に浮かび上がり、身体を竦ませる。確かに幸せだと思えた時間があったこの世界を捨てたくない……そんな郷愁と、自殺することへの恐怖に、俺は勝てずにいた。

 だからだろうか。誰かが臆病な俺の背中を押してくれた。

 数え切れないほどの後悔を抱いたまま……俺は、どこかへと旅立っていく。



 唐突に聞こえてきたのは、喧騒だった。それも、大音量の。

 ゆっくりと目を開ける。まず視界に飛び込んできたのは、目の前を行き交う無数の人々だった。それぞれが不安そうな、あるいは吹っ切れたような気持ちのいい表情で、なにやら語り合っている。悔しそうに足踏みする者、憎しみを湛えた瞳で周囲を睨む者、奇声をあげて暴れる者(警官らしき服装の男に取り押さえられていたが)、胸に抱く赤ん坊と共に泣きじゃくる者。人種や年齢、性別、境遇、地位……そういった差別は全くないように見える。

 とにかく多種多様な人間が視界を埋め尽くすそこは、朝のラッシュアワーのようにも見えるが……ここは、いったいどこなのだろう?

 地面は雨上がりの直後のように柔らかく、靴が泥に沈みかけていた。四方に壁はなく、頭上には星々で満たされた濃紺色の空が広がっている。地面に打ち立てられた無数の木の柱にランタンが吊るされ、それらが辺りを照らしている。

 そんな異様な光景の中で最も奇怪なものが……墓石の存在だ。大小様々な形状の墓石が所狭しと配置され、枝分かれした道を成している。刻まれた名前もまた多様で、東西南北の国を網羅しているようだ。


「なんなんだ、ここは」


 零れた俺の呟きに、答える者がいた。


「なんだと思います?」


 振り返ると、純白のタキシードに金色のシルクハットという風貌をした髪の長い男が笑顔で立っていた。左手に握られたステッキまで金色で、だいぶ派手な装いだ。


「……墓場みたいだ」

「そう! ここはまさに墓場ですよ!」


 俺の感想がお気に召したのか、男はその場でくるくると回転する。


「あんたは誰だ? 俺は、どうしてこんなところにいる? 俺は……死んだはずだ」

「その通りでございます。だからこそ、あなたはここにいるのですよ」

「どういう意味だ?」

「ここは正確に言えば、〝駅〟なのです。この世発、あの世行の列車のね」

「駅?」

「そうです。ここにいる人たちは皆、死んだばかりの方々です。あの世行の列車が来るのを、この駅でお待ち頂く決まりになっているのですよ。ここへ来る前に説明があるはずなのですが……」

「いや、俺は聞いてない」

「そうでしょうとも! 我々の手違いです、すみません。そういうわけで、慌ててワタクシが直接参った次第でございます」


 回転しながら謝られても苛々するだけなのだが……。

 けれど、そうか。死という経験を終えたはずの自分が置かれている状況を鑑みれば、非現実的な説明だって簡単に受け入れられる。国籍がばらばらなのも納得できるし、それぞれの心情が大きく異なるのも、本人が命を落とした状況が関係しているのか。


「で、あんたは?」


 ワタクシですか、とこちらに視線を向け、男は足を揃えた。寒気がするような満面の笑みで、嬉しそうに、高らかに、宣言する。


「ワタクシは当駅の駅長を務めております、モグリと申します」

「駅長なのか。そうは見えないが」

「ふふ、よく言われます。……おや、到着のようですね」


 モグリが空を見上げる。その視線を追うと、何両編成なのか想像もつかないほどに長大な列車が、宙を駆け下りてきていた。


「すごいな」

「あれが、この墓場とあの世を繋ぐ列車。名前は……まあ、適当にスリーナインとでも」

「あれに乗ればいいのか」

「ええ。こちらが乗車券になります」


 モグリが手のひらサイズの紙切れを差し出す。それには、なにやら達筆な文字が並んでいた。かなり読み辛い。


『あの世・第一万五十七番街・二百三番地・二の二・この駅から七十時間です』


 あの世とは、どうやらとてつもなく広大な土地を有しているらしい。


「これ、俺の新しい住所かなにか?」

「その認識で構いません。ちゃんとそこで降りないと、この駅に戻ってきてしまいますのでご注意を」

「分かった」


 列車が、墓場の傍らに滑り込むように停車する。大量に並ぶ扉が一斉に開き、人々が雪崩れ込む。俺もその流れに倣い、列車に乗り込んだ。

 窓の外を見ると、モグリが満足そうに手を振っていた。



 車内は心地いい木の匂いで満ちていて、揺れもほとんどない。座席は四人一組で、二人ずつ向かい合って座れるようになっている。乗車券の裏には指定席の番号が書いてあるが、ここからは少し遠そうだ。溜息をついてから、とぼとぼと歩き出した。

 みんな死んだばかりで疲れているのか、先ほどの喧騒は鳴りを潜めていた。これからのことを憂い、不安げな表情を浮かべているやつがほとんどだ。まあ、どんな場所へ行くことになるのかも分からないのだ。不安を感じないほうが可笑しいか。

 窓の外は濃紺のまま。そこで瞬く星たちは、俺たちの旅立ちを祝福しているようにも見えるし、すでに死している俺たちを嘲っているようにも思える。あるいはこの列車なんて眼中になく、好き勝手に光っているのかもしれない。

 ……なんだか、夜行列車みたいだ。

 不安ながらもどこか落ち着く車内の静謐な雰囲気に、そんなことを考えた。

 そうして俺が指定席へ辿り着いたのは、すでに駅をいくつか通り過ぎた頃だった。


「七十七の十の二……ここだな」


 呟いてから、思わず動きを止めた。

 一人の女の子が目に入ったからだった。クリーム色のセーターとピンク色のエプロンをまとった彼女は俺の席の向かいに腰掛け……なぜか膝の上に小さな台を置き、白いYシャツにアイロンを掛けている。四人一組のはずだけれど、他の二人はすでに下車したのか、そこには彼女しかいなかった。

 というか、なぜアイロン? なんでここで?

 その死者らしからぬ光景に面食らっていると、彼女が顔をあげた。ウェーブのかかった漆黒の髪が肩まで伸び、ふわりと揺れる。歳は十代半ばといったところ。日本人だ。


「どうかしましたか、きょとんとされていますけれど」


 心をくすぐられるような、淡いせせらぎみたいな声だった。


「いや。少し驚いただけだ」


 首を傾げる彼女から視線を逸らし、斜向かいの席に腰を下ろす。指定席はその隣だが、なんとなく彼女の前に座るのは気が引けた。使われていない席なら問題もないだろう。

 これでようやく落ち着ける。肘掛けに腕を立て、そこへ顎を乗せ、目を閉じる。乗車券によると俺が下車する駅までは時間がかかるようなので、少し眠ろう。

 ……が。彼女のほうから、話しかけてきた。


「その席、さっき降りた人が使ってました」

「いいだろ、別に。空いてんだから」

「でも、決まりごとは守ったほうがいいと思います」

「別に、誰かに迷惑かけてるわけじゃない。それに、あんたには関係ないだろ」

「……すみません」


 それで黙ってくれた……と思いきや、静寂は一分ほどで破られた。


「あの、お名前はなんとおっしゃるのですか」

 

 見ると彼女は、少し控えめな微笑みで俺を見つめていた。


「なんで」

「いえ、その。折角の相席ですので、良かったら……」

「さっきまでいたやつらとも、仲良くしてたのか?」

「あ、はい。お二人とも、優しい方でした」

「俺は優しくない」


 素っ気なく言い放つ。ここまで言えば黙ってくれるだろう。


「そうですか……では、服を脱いでください」

「なんでそうなるっ!」


 勢いよく突っ込まずにはいられなかった。彼女は身体をびくっと震わせ、頭を下げる。


「すっ、すみません、コートが濡れているようなので、アイロンをと……」


 そう言われて、初めて自分の服装に意識が向いた。紺色のダッフルコート――確かに、かなり冷たく湿っている。生前の俺のお気に入りだったから、これを着たまま死ねたことはせめてもの救いだ。


「あの。そのままだと、風を引いてしまいます」

「死んでるのにか?」

「そうですけれど、寒くありませんか?」

「……少し」

「では、貸していただけませんか」


 真剣な瞳。本当に、心から、俺のことを心配しているのか。

 初対面だというのに馴れ馴れしい女だ。さっきの駅長のようなやつと違って真面目に見える分、こちらも適当な対応で返せないのが面倒臭い。

 ……けれど。そんな瞳を見るのは、いつ以来だろう。

 コートを脱いで手渡すと、彼女は柔らかく微笑んだ。


「少々お待ちくださいね」

「丁寧に扱ってくれよ。それ、大事なものなんだ」

「分かりました」


 さっきまで掛けていた白いYシャツを足元の籠へ入れ、俺のコートを台に乗せる。生地をか細い指でそっと撫で、それからゆっくりとアイロンを滑らせる。

 ……コードレスか。スタンドが見当たらないが……。


「学生さんですか?」


 不意に、彼女が問う。


「なんで」

「学生服を着ていらっしゃるようなので」


 自分の服装を見下ろす。着慣れた黒のブレザー。これからも世話になるはずだったもの。


「とりあえず生前の俺は、高校生だったよ」

「そうなんですか。それにしては、大人びて見えますね」

「老けてるってことか?」

「いいえ。大人の男性っぽくて素敵、という意味です」


 素敵か。世辞だろうが、初めて言われた。


「まあ、学生らしくないってのは言われ慣れてるから、別にいいけど」

「そうですか……。私は、大学生でした。アイロン掛けは趣味で……アイロンを持ったまま死んでしまったので、掛けていたお父さんのYシャツと一緒にここへ来てしまったみたいです」


 どんな状況で死んでんだよ……ていうか、年上だったのか。

 それにしても、俺みたいな無愛想な男に向かって、構わず話しかけてくる女はかなり珍しい。それも、優しげな顔で。変わった女だ。


「じゃーん。できました。ぽかぽかですよ、どうぞ!」

「ああ……悪い」


 コートを受け取り、羽織る。アイロン掛けをしただけなのに、暖かないい匂いがした。


「暖かいな」

「よかったです、喜んでもらえて」


 緩やかに奔る渓流のような笑み。……こんなふうに笑う人間も、いるんだな。

 俺の周囲にいた人間は、こんなに優しくなかった。暖かくなかった。だからだろうか。


天野冬弥あまのとうや

「え?」

「俺の名前。あんたは?」


 そんなことを、口走ってしまったのは。

 名前のことは諦めていたのか、俺が名乗ったことに彼女は目を瞠った。それから、穏やかで嬉しそうな笑顔に戻る。


春日野志乃かすがのしの、です。よろしくお願いします、冬弥さん」

「よろしくすることなんかないだろ。どちらかが降りるまでの付き合いだ」

「では、それまではこうしてお話ししていてもいいですか?」

「……勝手にしろ」


 本当、変わってる。どうしてそんなに、楽しそうに微笑んでいられるんだ。

 俺たちはもう、死んでいるのに。辿り着く先が天国だろうと地獄だろうと、今までとはまるで違う世界しか待っていないと、分かっているのに。


「では、そうですね……生前は、どちらに住んでいらっしゃいましたか?」

「なぁ」

「はい」

「あんた、どうしてそんなに楽しそうなんだ?」


 勝手にしろと言っておきながら即座に話の腰を折る俺の問いに、詩乃は苦笑を浮かべた。


「死んでしまったものは、仕方ないじゃないですか。どうせなら、これから待っている新しい暮らしをどう豊かに過ごしていくか……それを考えるほうが、いいと思います」

「そうかよ。あんたには未練ってものがないのか」

「ないとは言えないです。けれど、それに思いを馳せることで生き返ることができるわけではありませんし」

「そんな簡単に手放せるほどの未練しかないのか。俺には……俺には、切り捨てられない後悔や未練がたくさんあるんだ。他のやつだって、きっとそう。あんたみたいに気楽に構えてるやつのほうが……変だ」


 言い捨ててから、気づく。彼女にも、忘れることのできない悔いがあることに。

 心の底から楽観視しているやつが……こんなにも、悲しそうな顔をするはずがない。


「……悪かった」

「い、いえ、その……私も無神経でした。すみません」

「いや。あんたは悪くない。俺が笑えないだけだ」


 死に対する考え方も、その乗り越え方も、人それぞれだ。俺は後悔や未練を引き摺っているままだけれど、詩乃は笑うことで乗り越えようとした。それだけなんだ。

 俺は、どうやって乗り越えればいいのだろう。

 笑い方なんて、忘れてしまったのに。

 疲労の溜まった頭で考えても答えは見つからない。俯いたままの詩乃にかける言葉も見つからず、いつの間にか、俺の意識は闇へ落ちていった。

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