第4話 全裸での遭遇

 ✂︎ ︎


「おえっ」

 突然嘔吐いた女は、真っ白なベッドを吐瀉物で汚した。

 息吹の喉元からナイフが遠のく。咄嗟にナイフを奪い返し、不安定なベッドから飛び降りた。

「えと、だ、大丈夫ですか」

 苦しむ女の吐瀉物を見て分かる。漆黒の液体、あれはブレンドドラッグ中毒者の血だ。

 尋常ではない苦しみ方に思わず駆け寄ると、強烈なパンチで吹っ飛ばされた。ローテーブルに背中を打ち付け、一瞬呼吸が止まる。

「痛っ…………うわっ!」

 目の前の光景に目を疑った。

 女の姿がおかしい。溶け出した眼球が二つの穴を創り出し、その穴から植物のツルようなものが伸びてきた。小さな蕾がもう時期の開花を予想させる。

 なんだこれは。

 もしかしてこれが、ブレンドドラッグ中毒者の成れの果て……。

 学校で聞くのと実際に見るのとではまるで違う。

 ストレスケアドラッグという身近なものの裏側に、こんなおぞましいものが隠れているなんて。まぜるな危険の表示を無視すれば取り返しのつかないことになると深く理解させられる。

 息吹は全裸のまま、ただ呆然としていた。

 無数に伸びたツルが、息吹の方に向かってくる。

「ちょっと! 来るな!」

 振り下ろしたナイフがツルに当たり、漆黒の血が吹き出した。土と花と鉄が凝縮されたような強い臭いに頭痛がしてくる。

 切ったツルが痛むのか、大声で叫ぶ女の声は最早サイレンというかマンドレイクで、息吹の頭痛は増すばかりだ。部屋が植物園になりそうな勢いで壁から天井までツルで覆われていく。

 女はベッドの上で完全に動かなくなり、胴体はまるで木の幹だ。

 とにかく逃げなくては。

 ツルを潜り抜け、何とか部屋の外へ出て一息ついたところで、隣の部屋に入ろうとしている若い男女に見つめられた。

 息吹の今の格好は、全裸でナイフを構える不審者だ。

「どうしたんだ、それ」

 男の方が抑揚のない声でぽつりと言う。

 焦った息吹は、「ちょっと服着るの忘れて! 変なプレイをしているわけじゃないので!」と変な説明をしてしまった。

「いや、返り血の話だ」

「あっ、そっち……」

 色んな羞恥で死にかけたが、人とすれ違ったのは寧ろ幸運だ。

「あの! 掃除屋に通報してもらえませんか! 部屋の中大変なことになってて!」

「そうか。俺が行こう」

「へ……?」

 こんな都合良く掃除屋と出会えるのかと息吹が間抜け面を晒していると、

「ええっ! しきみん行っちゃうのお」

 豊満な胸を揺らす女が男の腕を引っ張った。

「悪い。一人でしててくれ」

「やだあ! せっかく二人きりになれたのにい……」

「……ん、これでいいか」

 平然とした顔をしているが、男は自分の爪を一枚噛みちぎってそのまま渡していた。痛々しさに目を瞑りたくなる。

「もお。しょうがないなあ。今度は絶対相手してよね」

「分かった」

 息吹は一連のやり取りに唖然としたが、世の中には色々なカップルがいるのだととりあえず飲み込んでおいた。


 指から血を流す掃除屋の男を連れて戻った部屋は、最早植物園というか密林だった。大きく膨らんだ蕾が痙攣しているかのように動いている。これほど開花が待ち遠しくない花は初めて見る。

「俺が動きを止める。あんたは蕾を切り落とせ」

「えっ! やったことないですけど!」

「そうなのか? じゃあそのナイフは何なんだ」

「あ……えっと……」

 説明している暇はなかった。ツルがゆっくりとだが身体のいたるところに絡み付いてくるため、油断していると身動きが取れなくなって閉じ込められてしまう。

「いくぞ」

 男がつけていたブレスレットを外し、勢いよく振ったかと思えば真っ直ぐに伸び、先端から細い針が出てきた。よく見ると、雑貨屋にある光るブレスレットのように液体が中に入っている。それをツルの一部に刺すと、緩やかに動きが止まった。

「わ、すごいですね」

「今のうちだ」

 蕾は二つ、眼球のあった位置にある。息吹はツルを潜り抜け、なんとかなれ! とナイフを振り下ろした。それは脆く、朽ち果てたという言葉がしっくりくる感触だった。

 漆黒の血が吹き出し、蕾がぼとりと落ちる。

 途端にどろどろとツルが溶けていく。それらは部屋中を汚し、女だったものごと染み込んでいった。

 酷い臭いの中から微かに感じたシャンプーの香りが、息吹の心をじわりと刺激した。


「あの、ありがとうございました。おれ一人だったら多分死んでました……」

 掃除屋にきっちりお辞儀をすると、「ああ」と抑揚なく返された。表情の変わらない淡泊な人で、少し怖い。人形のように整った横顔が余計にそう感じさせるのかもしれない。前髪から覗く瞳もどこか遠くを見ているようで不気味だ。

「なんだ」

 男の冷ややかな瞳が息吹を捉え、「なんでもありません!」と咄嗟に叫んだせいで裏返ってしまった。

 差し出された厚紙を反射で受け取り、名刺だと気付くのに三秒かかった。

「そこに電話して片付けてもらえ」

「あ……ありがとうございます」

 背中を見送り、名刺に目を落とす。

しきみさんっていうのか……」

 ごく普通にポケットに入れようとして、改めて気付く。

 全裸だったことに。

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