第5話 嫌な予感

 着替えもないので、息吹はどろどろに汚れた学ランを着てから名刺の番号に電話を掛けた。鞄の中身は汚れていなくて良かった。

 どうやら清掃業務は営業時間外らしく、朝一番で向かうとのことだった。これ以上息吹にできることはない為、そのままホテルを後にした。

 ネオンが、夜の明るさを無理やり創り出している。冷たさの残る春の風が頬を撫で、成れ果てた女の姿が脳裏をよぎった。

 ──これで五人目? だったかなあ。返り討ちにあうおバカさん。

 藪枯やぶがらしは、あの女が中毒状態だと知っていたのだろうか。それならば何故処分しにいかない?

 自分の女だから?

 わざと放置している?

 藪枯への不信感が募っていく。

 四葩よひらは無事だろうか。

 息吹の不安が、早まる足に表れていた。


「遅くなってすみません……戻りました」

 事務所のドアをノックするが、返事がない。

 ドアノブを捻り、恐る恐る押し開ける。

 人気がなく、煙草の臭いが鼻の奥に突き刺さった。

「四葩ー?」

 無意識の不安から、内ポケットのフォールディングナイフを取り出す。すっかり手に馴染んだが、借りた物はきっちり返すつもりだ。女を殺した証拠として洗わずに持ってきたが、やはり綺麗な状態で返すのが礼儀だろうか。どうでもいいことを考えていると、静かに構える社長椅子と目が合い、奥のドアが半開きになっていることに気付いた。

 嫌な感じがする。

 意を決して覗き、むっと広がる臭いに口元を押えた。ベッドに転がる人には見覚えがある。

「四葩……!」

 駆け寄って、血の気が引くのを感じた。震える手で触れた四葩の身体は冷たい。腫れ上がった顔も、傷だらけの身体も、腹部から流れ出た漆黒の血も、何もかも痛々しい。

 誰が見ても分かる。もう助からないと。

 それでも、一縷の望みをかけて救急車を呼んだ。

「あ? 誰かいんのか──って、金髪の兄ちゃんじゃねえか。おいおいおいおい、どうやって生き延びたんだ……」

 背後からの声に振り返り、幽霊でも見たような顔をする藪枯と目が合った。買い物に出ていたのか、まだフィルムに包まれた煙草を持っている。

「……なんで、なんで四葩が死んでるんですか? おれ、あなたの言った通りに殺してきましたよ? 話が違いますよね……!」

 つい言葉に熱が籠る。しかし息吹の顔色は悪いままで、ふらついた。

「ああ……処分免除って言ったっけか。鵜呑みにすんなよ。オジサンは掃除屋だぜ? 殺処分対象者に慈悲なんてねえよ」

「は……? そんな……酷い……」

 地面に座り込んだ息吹に、ひたひたと足音が迫ってくる。

「ええ? 泣いてんの? 可愛いねえ」

 力なく顔を上げれば、向けられたノコギリの先端と目が合った。ベッドに落ちていたものだ。四葩もこれでやられたのだろうか。

 息吹は、もうどうにでもなれと目を瞑った。

 数秒の間の後、金属が跳ねる音が響く。反射で目を開け、藪枯の手からノコギリが落ちた音だと気付いた。同時に、顔の前にむさ苦しいものが突き付けられていることに気付いた。

「兄ちゃんの可愛い顔見てたらよお。こんなんなっちまったワ」

 必死で顔を背けるが、髪がちぎれる勢いで引き上げられる。

「さっさと死んでもらおうと思ったが、予定変更だな」

 無理やり口をこじ開けられ、致し方なく受け入れた。

「よしよし、お利口さんだ。噛みちぎるのはナシだぞ」

 雄臭さに嘔吐く。

 何でこんな目に……。怒りが悲しみに、悲しみが怒りに、感情がぐるぐると激しく混ざり合う。

 無意識の聴覚が、遠くのサイレンを捉える。そういえば救急車を呼んでいたなと思い出した。大きくなっていく音に、藪枯が怪訝な顔をした。

「おい、なんかうちの前で止まってねえか? ちょっとどけ」

 息吹は唐突に突き飛ばされ、床にべしゃりと転がった。何かが手に触れ、それがフォールディングナイフだと分かった。四葩に駆け寄った時に落としたのか。

 藪枯は小部屋から出て、窓の外を確認している。


 隙だった。


 息を殺し、ナイフを振り下ろした。

 のだが、

「おっと、痛えじゃねえか」

 藪枯は咄嗟に腕で受け止め、致命傷にはならなかった。流石に掃除屋だ。そう上手く殺されてはくれない。刺したお礼にぶん殴られ、鼻血と共に起き上がれなくなった。

 窓の外から救急隊員が向かってくるのが見えたのか、藪枯は舌打ちを零して逃げて行った。

 おれはこんなにも無力なのか……。

 駆け寄る隊員の呼び掛けが遠のく。息吹の意識はふわりと途絶えた。

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