1-12 ユリウスの決意(ユリウスサイド)

 ユリウスは、ラファエラ・グラッセ侯爵令嬢にしつこく付きまとわれて、心底迷惑していた。この女は性根が腐っていて、なんとかユリウスの婚約者に収まろうとあらゆる手段を講じてきたという経緯がある。ダンスの間中、ユリウスに必要以上にくっついて、その胸の脂肪をこれでもかと押し付けてくるが、ただただ嫌悪感が強い。というか、とにかく臭い。特に動物臭――ムスクの匂いが強すぎて、ユリウスは彼女の顔に向かって吐いてしまいそうだった。

 

 アデルのことが心配だったが、ダンスを踊るうちに見失ってしまった。バルコニーに行くと言っていたが、きっと精神的に疲れ果て、心細いだろう。

 しかしユリウスは、そのまま次々に舞い込むダンスの申し込みを断りきれず、何曲か令嬢達に捕まってしまった。


 やっとダンス会場から抜けたところ、そこには父と母が待ち構えていた。父は難しい顔をしていて、母は激怒しているのを隠そうともしていない。何かあったのだろうか。


「ユリウス!お前、自分が何をしたか、わかっているのか!」

「何があった?アデルに何かあったのか?」

「アデルなら、たった一人で帰った!令嬢達に寄ってたかって心無い言葉をぶつけられた上、ドレスに赤ワインをぶちまけられたらしい……ああ、可哀想に……。お前がきちんと守らないからだ!ユリウス!!」

「!?」

 

 詳しい話を聞けば、父と母もたった今、見回りの騎士から経緯を聞いたところらしい。

 傷心したアデルがたった一人で帰ってしまったと知って、ユリウスは頭が鈍器で殴られたようなショックを受けた。

 

「何故アデルを一人にした!今日は彼女の公爵夫人デビューの日だったんだぞ!警戒して当たり前だろうが!この馬鹿者が!!」


 母は完全に騎士の顔になっており、ピシャリとユリウスを叱りつけた。ユリウスはアデルが心配で堪らなくなって、今すぐ追いたいのを必死に堪えながらも、何も反論できない。

 

「返す言葉もありません」

「あの子は一人で帰ってしまったんだ、この意味がわかるか?あの責任感の強い子が、私たちに一言の断りもなく、だ……!一体どれだけ、傷ついていることか……!少しは想像しろ!この朴念仁!!」

「……!!」

 

 ユリウスは血の滲みそうなほど強く、拳を握りしめた。それでも足りないと思った。アデルの負った心の痛みに比べれば。

 ――騎士として、一番大切な一人の女性も守れないとは、情けない……!

 

「そのくらいにしなさい、ブランカ」

 

 寡黙な父、元公爵のアドルフが母を嗜めた。そして苦々しい表情を俺に向ける。

 

「もう今日は、すぐに家に帰れ。アデルのフォローをしっかりとするんだ、ユリウス」


 ユリウスはそこが夜会の会場であることも忘れ、駆け出すようにして帰路についた。

 家に帰ると使用人達もが、一斉にユリウスに詰め寄って来た。たった一人で帰ってきた奥様の様子が随分おかしかった、一体何があったんだと。口々に言うその様子は、とても心配そうだ。

 最後に家令であるグスタフが、重々しく言った。


「旦那様。今日はくれぐれも奥様を労って、そっとしておいて差し上げますよう。あの方がこれまでどれだけ尽くして来られたか、今一度考えてみてください。何故、我々があの方をこんなに想っているのかも含めて、です」

 

 ユリウスはその言葉の意味を考えて、目の覚めるような心地だった。

 そもそも公爵夫人という肩書きは、軽いものではない。そしてアデルは、肩書きの旨味だけを享受して満足するような女性ではないのだ。

 使用人達にも分け隔てなく親切で、彼らの名前を一人も漏らさず覚えているアデル。彼らの懐きっぷりは、彼女が今まで公爵夫人として、いかに家の掌握を頑張ってくれていたかを物語っていた。伯爵家出身の彼女には、きっと相当な重荷であったに違いないのに。

 

 俺は彼女を、十分に労ってこれたのだろうか?彼女の努力をきちんと評価して、言葉を尽くしてきたのだろうか。――――いや、ダメだ。全然、足りなかった。

 しかも今日、大一番の仕事を見事にこなしてみせたアデルを一人にして、ユリウスは手酷く傷つけてしまったのだ。

 


 小さくノックしてから、夫婦の寝室にそっと入る。返事はない。アデルは頭から布団を被って、眠っているようだった。

 刺激しないように注意しながら、布団をそっと剥がす。眠るアデルの頬には、沢山泣いた涙の痕があった。ユリウスの胸は引きれるように痛んだ。


「ごめん………………アデル。守るって、言ったのに…………」


 返事はない。よほど疲れたのだろう。深く眠っているようだ。


「今まで、ずっとごめん…………アデル………………」


 思いつきで持ちかけた『契約結婚』が、彼女に与える負荷を――――ユリウスは、全然理解していなかった。

 ユリウスは眠る彼女の涙の痕を拭いながら、小さく謝罪の言葉を繰り返すしかできなかった。


 

 ♦︎♢♦︎

 

 

 翌朝のことである。目をそっと開いたアデルははっとした様子で、ユリウスに謝罪しようとした。


「あ、あの。おはよう……。昨日は勝手に帰ってごめんなさい、ユリウス……!」

「謝らないで。悪かったのは全面的に俺だ。何があったのかも、あらましは母から聞いた。君から離れて本当に申し訳なかった」


 恐縮するアデルを押しとどめ、ユリウスは起き上がって深く深く頭を下げた。これでも、全然足りるとは思わないが。

 

「俺は公爵夫人になるということの大変さや重みを、しっかりと理解していなかった。昨日は、俺が離れたのが一番の間違いだった。君は立派にこなしてくれたのに、すまない」

「そんな…………」

「母は俺に激怒していた。恐らく、父も。それに、家令にも苦言を呈されてしまったよ。使用人達も、すっかり君を気に入っているんだ。アデル……全て、君が今までずっと頑張って来たからだよ」

「え…………」


 ユリウスはアデルの手をとった。白魚のような小さな手を両手で包み込んで、言葉を続ける。

 

「俺の家族や使用人達に優しく丁寧に接し、信頼を勝ち取って来たのは君自身だ。公爵夫人に相応しくあるため君がどれだけ頑張ってきたのか……いや、どれだけ頑張らなければならなかったのか。俺は……きちんとわかっていなかった」

「そんな……私は特別なことはしていないわ」

「そんなことはない。それに昨日、貴族達と会話しながら、君の機智には随分と助けられた。ダンスだって完璧だった。君はずっと堂々としていて、素晴らしかった。公爵夫人に相応しい姿だったよ」


 アデルのクリスタルのような大きな瞳は、ずっと揺れていた。だんだんそれに、涙の膜が張っていくのを見つめる。アデルは震える声で絞り出した。


「昨日……ユリウスに全然釣り合ってない、って、言われて」

「そうか……」

「私…………その通りだって、思っちゃって…………」

「そんなことはない。君は立派にやっている。君以上にこなせる人なんていない」

「そうなの、かな…………」


 アデルの瞳からは、一筋の涙がこぼれ落ちた。その涙すら美しいと思う。愛しいと、思う。


「私……昨日、嫉妬、してしまったの……」

「…………え?」


 思いもよらぬ言葉に、俺は呆然とした。


「契約結婚なのに、全然ダメよね…………ごめんなさい。ユリウスとラファエラ様があんまりお似合いだったから、辛くなってしまったの。ごめんなさい」


 ――――アデルが、嫉妬してくれていた。

 

 ユリウスはいけないと思いながらも、歓喜で全身が戦慄わななくのを感じた。

 契約結婚とはいえ、少しは自分を男として見てくれているのだと……そう、捉えていいのだろうか。

 ――俺は、少しは希望を持っても良いのだろうか。

 

 改めて決意を固める。ベッドから降りて膝をつき、騎士の礼を取りながら、昨日から伝えようと決めていた言葉を続けた。


「アデル、この結婚が例え、契約のものであろうとも…………俺は君を守る。もうこの言葉を、二度と違えない。もう今回のように、傷つけないと誓う」


 ユリウスは厳かに、静謐せいひつに宣言した。

 片手でアデルの手をうやうやしく取りあげ、ゆっくりと口づけを落とす。これはユリウスの、心からの誓いだった。

 

「もう二度と、他の女性とは踊らない」

「そんな!それは公爵として……幾ら何でも……」

「君を溺愛しているから、ということにすればいい。夜会では君から二度と離れない」

「でも!それで公爵家に不利益が生じたら……」

「それでもいい」


 ユリウスははっきりと告げた。


「それでもいい。勿論俺は、殿下に忠誠を誓ってはいるけれど。それより他には、何より君を一番に優先すると誓う。これからは、絶対に」


 それはユリウスの、心からの望みでもあった。

 当たり前だ。

 だって、誰より素敵な女性であるアデルを――――心の底から、愛しているのだから。

 

「俺は気が利かないし、女心にも疎い。朴念仁だともよく言われる。だから嫌なことがあったら、遠慮なく言ってくれ」

「もう…………ユリウス、そこまで、言わなくても」


 アデルは、そこでやっと微笑んでくれた。やっぱり、どんなものよりも愛らしい笑みだと思う。


「ありがとう。ユリウスが誓いをしてくれて……私は、嬉しい」


 ああ、どうか。

 アデルのこの笑顔を、守りたい。

 

 契約結婚を持ちかけてしまった手前、愛しているとは、さすがにまだ伝えられないけれど。

 これから先、俺がしっかりと誓いを守って。もしもアデルの心が自分に向いてくれるなら、その時は……と思った。


 

 ――ユリウスは、それからもう二度と。

 アデルにした誓いを、破ることはなかった。



 ♦︎♢♦︎

 


 その夜のことである。ユリウスは仕事のあと、騎士団の一室に親友のアレックス・ギルバートを呼び出した。

 アデルを守るため、信頼できる味方を確保したいと考えたからだ。この際、アレックスには洗いざらい、全部話してしまうことに決めたのである。


「急に改まって、どうしたんだよ。ユリウス」


 アレックスはその派手な顔立ちを怪訝そうにしかめていた。夜会明けだからか、その赤い長髪はいつもよりボサついているように見える。

 まあそんなことは、どうでも良い。ユリウスは間髪をいれず、アレックスに次々と打ち明けていった。

 

 アデルとの結婚が、契約結婚であること。

 でも結婚初夜になって、彼女を好きだと初めて自覚したこと。

 昨日の夜会で彼女が傷つき、彼女を守ると改めて誓ったこと。

 それでも一度約束した以上、今はアデルに自分の気持ちを打ち明ける気がないこと。

 彼女の夢を全面的に応援しながら、白い結婚を継続するつもりでいること。

 これからは何よりも、愛する彼女を優先して、大切にするつもりだということも。

 

 アレックスは、話の途中その大きな口をまん丸に開けて驚いていたが、特に言葉を挟まず、黙って聞いていた。

 そして段々、その表情は呆れに変わっていき、最後にはまるで、まるで可哀想なものを見るような目つきになった。

 話が終わった後、彼は大袈裟に伸びをして見せながら、大声を出した。

 

「はあ〜、わかった。全部、わかったよ!!俺はお前を応援する。しっかし、本当に不器用なやつだな、お前は!!」

「感謝する。アデルを守るのを手伝ってくれると助かる」

「了解だ。ってか、先に俺に相談しろよな。契約結婚って、お前……馬鹿か?いや、馬鹿だったな。あのお前が一目惚れしたって聞いた時はたまげたけど、やっぱり事情があったか…………」

「お前も疑問に思っていたか?」

「そりゃあね。誰よりもお前の事情は理解しているつもりだったし?でもいいじゃないか、愛する人ができたのは、喜ばしいことだ。でもな……お前は公爵夫人っていう肩書きを、甘く見過ぎだったよ。契約結婚なんてしちまった以上、これからは彼女を泣かせるなよ」

「ああ、絶対にそのつもりだ」


 ユリウスは力強く頷いた。そしてアレックスと一度、拳をぶつけ合う。二人の昔からのルーチンだ。

 

「……なあ、今すぐ正直に話して、本物の夫婦になる気はないのか?」

「それはダメだ。こんなに早く……彼女の信頼を裏切りたくはない。もし彼女の気持ちがしっかり俺に向くようなら、その時は……と思うが。契約の約束を違えるには、今はまだ早すぎると……そう思う」

「はあ……本当にそうかな〜?お前ってほんっっと、超がつくほどバカ真面目だな。絶対損してるわ」

 

 アレックスは一度頭を抱えて唸ってから、ユリウスの肩をポンと軽く叩いて言った。

 

「まあ女性の扱いは慣れてるつもりだ、これからは遠慮なく相談しろよ。ううん、俺の見立てでは、アーデルハイト様も満更ではないと思うんだけどなあ……」

「それは当てにならない。お前は遊び人だからな」

「失礼な!俺は後腐れないご婦人方としか遊んでないからいいだろ!」

「よく上手くやるな、と感心する。俺にはできない芸当だ」


 生真面目に頷いてみせる。こいつのまめまめしいところを、ユリウスは密かに尊敬しているのだ。ユリウスには絶対にできないことだから。

 

「はあ〜、よく他人ひとにも言われるけどさ。俺とお前、足して二で割れたら……ちょうどいいのにな?」

「それは、同感だ……いつも言ってるな、これ」


 ユリウスはアレックスと二人、一緒に苦笑した。

 

 それからというもの、ユリウスは暇があれば、アデルがいかに可愛いかを熱弁して見せるようになった。

 「惚気もう勘弁して、てかそれは本人に言えって」と、アレックスはげんなりしながら言うようになったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る