1-7 アデルという女性(ユリウスサイド)
ユリウス・ローゼンシュタインは、代々優秀な騎士を輩出する、公爵家の長男として生まれた。ユリウスの叔母は王族に嫁いでおり、現在の第一王子の母にあたる。由緒正しい家柄である。ただ、騎士の家系であるため、その性質はどちらかといえば無骨であった。
兄弟はおらず、母もまた騎士であり、サバサバした男のような性格だった。
だからだろうか。女性というものがよく分からないまま、ユリウスは思春期を過ごした。
ユリウスが成長するにつれ、年頃の貴族女性は皆競うようにして、きつい香水を身に
ともかく、鼻の効くユリウスはその、香水の匂いを嗅ぐたびに、強い嫌悪感と吐き気を感じていた。あとで独り、こっそりと吐いて、何とかごまかしながら過ごして来たのだ。
そして、無骨な家で育ったユリウスは生真面目で、あまりにも朴念仁だった。
結婚候補の女性たちが気まぐれにドレスや宝飾品や、貴族の噂話をしていても、何が面白いのかさっぱり分からず、ただただ苦痛ばかりが伴ったのである。
ユリウスが十九歳の時のことである。
王立騎士団の元団長だったユリウスの父は、戦場で足を負傷し、杖をつかないと生活できない身体になった。父は潔く騎士を引退し、若くして公爵位をユリウスに譲った。「騎士でないローゼンシュタイン公爵など、その存在を許されない」というのが、父の言い分だった。
それからはとにかく、本格的に結婚相手を探さねばならない日々が続いた。
ユリウスにとっては、まるで地獄のような日々だった。
美人と称される女性に会っても、正直皆同じに見えたし、違いが全く分からない。そして皆、香水臭い。だから女性と面会しては、後で何度も吐くという日々が続いた。
『女性嫌い』と称されるようになったのは、その頃だ。何があっても無表情だから、『凍てついた公爵』とも呼ばれるようになった。でも、ユリウスは、きっとその言葉の通りなのだろうと思った。自分はとても冷たい人間で――女性という人種自体が嫌いなのだろうと、そう思っていた。
ユリウスはいつしか、結婚からとにかく逃げ回るようになっていった。やがて父と母ももう、諦めの境地に達したようだった。
そう。
自分は女性というものが皆嫌いなのだろうと、そう思っていたのだ。
アーデルハイト・オットー…………アデルという女性に、出会うまでは。
♦︎♢♦︎
初めて夜会で彼女を見た時は――――夜会に精霊が紛れ込んだのかと、自分の目を疑った。
見る角度によって色を変えるクリスタルのような瞳は、ほの暗い夜会の中でもキラキラと輝いていた。けぶるようなまつ毛とまっすぐな髪は、まるで濡れたプラチナであった。
しばらくぼうっと見惚れた後、本物の精霊のはずはないと、ユリウスは思い直した。それから遅れて、彼女が随分と小さいことに気がつき、もしや夜会に子供が紛れ込んではぐれたのかと、思わず声をかけたのだ。
「し……失礼ですね!私は十七です!!お酒も飲める年齢です!!」
そう言った時の彼女の目の真っ直ぐさを、今でも覚えている。
だって、初めてだったのだ。自分に媚を売らず、あるいは怖気付きもせず。ただ真っ直ぐに、見つめて返して来た女性は。
彼女に無礼を謝りたい、咄嗟にそう思ったが、その場では叶わなかった。ユリウスはすぐに彼女を追えず、呆然と突っ立ってしまったのである。けれど彼女が落として行った家紋入りのハンカチを頼りに、彼女がオットー伯爵家のアーデルハイト嬢であると知ることができた。
次の日の朝、ユリウスはすぐにオットー伯爵家に向かって馬を飛ばしていた。今思えば、先ぶれもなくそんなことをして、自分でもどうかしていたと思う。
そこでアデルが無理やり馬車に入れられそうになっているのを見て、ユリウスは思わず頭に血が上った。
突然訪問したのは自分の方なのに、伯爵に対して威圧するような態度を取ってしまった。そのことは、少し反省している。
アデルは、とても不思議な女性だった。
近づいても、甘いお菓子の香りがほんのりするだけで、全く苦痛じゃなかった。
そしてユリウスに、手ずから作ったというお菓子を出してくれた。男性が甘いものを好きだとは大声で言えない世の中だが、ユリウスは大の甘いもの好きである。内心大喜びでそれを食べて――――ほんの一口で、そのとりこになった。
彼女の夢を応援したいと思い、その場の思いつきで契約結婚の話を持ちかけた。今思えばやはり、自分でもどうかしていたと思う。
きっと、あの時からもう既に、彼女に惹かれていたのだ。
♦︎♢♦︎
本物の恋愛結婚ではないのに、結婚前からアデルの家には通い詰めた。そして、彼女とはどんどん親しくなって行った。
はきはきと論理的にものを喋るところも、良い意味で女性らしくなくて、一緒にいて楽しかった。一を言えば十返ってくるのが、アデルという人だ。なんて聡明な女性なのだろうと、いつも感心していた。
お菓子を食べたいから、というのを表向きの理由にして、その実、ユリウスはアデル本人に会いたくて――彼女の元へ足繁く、通っていたのだ。
そうして結婚初夜。
――ユリウスはアデルの弱いところを、初めて知った。
ナイトドレス姿の彼女を見た時は、正直心臓が跳ねて落ち着かなかった。あまりにも無防備な姿で、彼女のスラリとした身体のラインがはっきりとわかってしまったから。女性に対してこんな気持ちになるのは初めてで、混乱し緊張していたが、持ち前の無表情を取り繕って事なきを得た。サッと厚手のガウンを羽織らせたのは、他でもない自分の気持ちを落ち着けるためだった。
この結婚は白い結婚にすると、初めから約束している。騎士が約束を違えるわけにはいかなかった。
だから敬語を止めさせた後は、速やかに間接照明を全て消した。真っ暗になった部屋で、ベッドの端と端。お互い、背中を向けあって眠る。
しかし、すぐ後ろにアデルの体温があるのだと思うと、ユリウスは何故だか落ち着かず、全然眠れそうになかった。だから狸寝入りを決め込んで、アデルをどうにか安心させようとしたのである。
そうして、しばらくした後のことだ。アデルが雷への恐怖で、泣いていることに気がついたのは。
「ゔぅ…………っ」
「アデル?泣いているのか?」
そう問えば、アデルは雷が苦手なのだと白状した。そしてユリウスに、咄嗟にしがみついてきた。彼女のほっそりした手が頼りなさげにユリウスの服を掴み、その細い身体がブルブル震えているのを見て、ユリウスは唐突に――――彼女を守らなければならない、という衝動にかられた。そうして思わず彼女を抱き締めたのだ。
ふわり。
その途端感じた、彼女のやわらかさ。お菓子のものだけではない、彼女自身の甘い香り。そして、簡単に手折ってしまいそうな、あまりの細さに絶句した。ユリウスは心臓が煩いくらい高鳴って、痛いほどだった。
彼女は半ばパニックになっていたようだ。しゃくりあげながら、幼少期に恐ろしい目にあって雷が苦手になった経緯や、自分が転生者であることなどをぽつぽつと語った。あまりに悲しくて、寂しそうで、痛々しくて……ユリウスは彼女を落ち着けようと、懸命に背中を優しく叩いたり、撫でたりした。彼女の身体があんまりやわらかいので、少しでも乱暴にしたら壊れてしまうんじゃないかと思い、
「ふふっ…………ユリウスって、変な人ね」
だからようやく彼女が笑ってくれた時、ユリウスは飛び上がりそうなほど嬉しかった。いま、自分は彼女を助けられる。守ることができる。そのことに幸せを感じた。
「変でいい。君のことは――――俺が、守るから」
それは、ユリウスの心の真ん中から自然に出て来た、願いだった。
♦︎♢♦︎
翌朝、目を覚ますと、すぐ目の前に眠る精霊がいた。
いや、精霊ではない――アデルだ。彼女は泣き疲れて、そのまま眠ってしまったらしい。
どうやらユリウスもアデルを抱き締めたまま眠ってしまったのだと気づき、体温が僅かに上がるのを感じた。
「…………ユリウス………………?」
「……アデル、目が覚めたか?おはよう」
ユリウスは、少しどぎまぎした。手を一切出さないと誓ったくせに、結果として一晩抱き締めて眠ってしまったのだ。これでは、嘘つきと
けれど、アデルの反応は、ユリウスの予想とは全然違った。
「ユリウス…………私を守ってくれて、ありがとう」
アデルは泣き腫らして赤くなった目を細めながら、笑ってそう言ったのだ。
そのふにゃりとした笑顔の――――なんと、愛らしいことと言ったら。
ユリウスの心臓はドクンと、一度大きな音を立てた。昨晩の雷よりもずっとずっと、大きな音を。
その瞬間、走馬灯のように、頭の中を今までのできごとが流れていく。
夜会に紛れ込んだ精霊かと見紛った、美しいアデル。
自分の夢を持ち、それに邁進していこうとする、真っ直ぐなアデル。
はきはきと物事を喋り、ユリウスにも怖気付かない、賢いアデル。
ケーキを美味しそうに食べるユリウスを見つめる、優しいアデル。
知らない世界に一人迷い込み、孤独を抱える、か弱いアデル。
さっきまで自分の腕の中で、安心したように眠っていた――――愛しいアデル。
その瞬間、ユリウスは気づいてしまった。
自分がとっくのとうに、この人に恋をしていたことに。
女性がずっと苦手だった自分が、アデルに出会って初めて、恋に落ちたのだとということに。
『
ユリウスは、自分がとんでもない過ちを犯してしまったことに――――今更、気がついたのだった。
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