1-6 結婚初夜
十歳の小さなアデルは、どこかとも知れない深い深い森の洞穴の中、独りきりで泣いていた。
「ひっ、ひっ……ひっぐ、うぅ〜……!!」
それは奇しくも、アデルが『前世』を思い出してから、間も無くのことだった。まだ記憶と心が混濁していた状態のアデルは、街で人攫いに
結局、馬車で運ばれる最中、メイドのリナが間一髪で助け出してくれたのだが。アデルはその際に、足を大きく負傷してしまい、森の中で身動きが取れなくなってしまった。
リナは「必ず助けを呼んできますから、ここから動かずに待っていてください」と言い、アデルを洞穴の中に置いていったのだった。
その日は朝から酷い大雨で、曇天は何度も激しく光り、雷が轟いていた。
「ひっぐ。うぅ〜……お母さぁん…………お父さぁん…………!!」
嗚咽を上げながら何度も呼び続けたのは、前世の父と母のこと。その日アデルが恋しく思い浮かべたのは、前世で自分を目一杯、愛してくれた人たちの顔ばかりであった。
アデルはその日、自分の前世の大切な人々にはもう会えないのだと――――初めて強く、実感した。
こうしてどんなに泣いて呼んだって、叫んだって、あの人たちはもう誰も、迎えに来てくれるはずもないのだ。ここは、自分の知らない別世界。もう、誰にも二度と、会えないのだ。懐かしい父も母もいない。友人たちも、お世話になった教授たちも、お菓子教室の生徒たちも、誰一人いない世界なのだった。
悲しくて、苦しくて、怖くて仕方がなかった。まるで知らない世界に独りきり、放り出されたみたいだと思った。
ゴロゴロゴロ……ピシャン!!
森に大きな雷が轟くたび、アデルの体は小さく跳ね、ブルブルと小刻みに震え続けた。嗚咽が止まらず、ただ小さく、大好きな人たちの名前を呼び続けていた。
十歳の精神にはあまりにも強い喪失感と悲しみ、そして恐怖が、アデルの心を覆い尽くしていた。
――――その日からアデルは、雷が大の苦手になった。
♦︎♢♦︎
「うぅ……どうしよう。緊張する……」
月日は流れ、本日は結婚初夜である。
昼間快晴だった空は急変し、外は豪雨になっていた。今にも雷が鳴りそうな天候に、アデルは不安を覚え、薄い絹のナイトドレスをぎゅっと掴む。伯爵家のものよりも、ずっとずっと大きなベッドの端っこで、アデルは自分の腕を抱き、小さく縮こまっていた。
本来は初夜の新婦の体を飾り付けるための、オーガンジーのドレスを着せられていたのだが。それは肝心なところがスケスケで、下着としてはほとんど機能していないようなものだった。そこで、この結婚が契約結婚だと知るメイドのリナが、普段着用のナイトドレスをこっそり持って来てくれたのである。
公爵家のナイトドレスは手触りの良い絹でできており、さらりとして気持ちの良い着心地だったが、身体のラインがすっかり出てしまうのが難点だった。その防御力の低さに、アデルは心底不安になる。しかも今は、胸を覆う役割の下着をつけていない状態なので、乳首の部分が尖ってぽつりと目立ってしまう。ただでさえこの子供体型が嫌なのに、こんな姿を憧れの人に見られるなんて、恥ずかしくて耐えられない。アデルはなるべく胸の部分を隠すように腕で覆いながら、ユリウスが来るのを今か今かと待っていた。
「アデル?入るよ」
「ひゃ、ひゃいっ!!!」
控えめなノックと共にユリウスの声が聞こえ、アデルはその場で跳ね上がって奇声を発してしまった。それからドアがゆっくりと開いていく。
そこに現れたのは、胸元の開いた夜着を纏ったユリウスだった。昼間とは全然雰囲気が違う。入浴したばかりのようで、ぬばたまの黒い髪が少し濡れていて、首に張り付いている。そしてその白磁の肌は、少し上気していた。あまりの壮絶な色気に、男性経験皆無のアデルは、カッと身体中の温度が上がるのを感じた。
「ああ、そんな薄着で待たせてごめん。ガウンを持って来たよ」
「は、は、はいっ!!ユリウス様っ!!!」
「…………アデル。さっき言ったことを忘れた?」
ユリウスはアデルのナイトドレス姿を見てもさして動揺せず、落ち着いているようだった。すぐにサッと厚手のガウンを羽織らせてくれる。白い結婚だと決めているとはいえ――――女として、全く意識されていないことを少し悲しく思ってしまう。
ユリウスは続けて、アデルを諭すように優しく言った。
「俺たちは夫婦になったんだから、もう敬語はなしだって言ったよね?」
「…………そ、そうですよね。じゃなくて……そうだったわね」
「さあ呼んで。アデル。俺の名前は?」
「……………………ユリ、ウス」
何とか震える声を絞り出して、自分の夫、ユリウスの名前を呼ぶ。するとユリウスは、良くできましたと言う風に目元を緩め、アデルの頭をポンと撫でた。優しくて大きな手の温度に、やっと少しだけ安心することができた。
「君からは離れて眠るし、事前に約束した通り、一切手は出さないと誓うよ」
「うん……」
「明日、ナイフで血を少し垂らして工作はする。初夜だからね。良いね?」
「うん、何から何までありがとう、ユリウス……」
「いいんだよ。じゃあ、おやすみ」
ユリウスは本当に、一切何もする気がないようで、あっさりと間接照明を全て消してしまった。真っ暗になった部屋で、公爵家のとても大きなベッドの端と端。お互い、背中を向けあって眠る。
しばらくして、ユリウスからは小さな寝息が聞こえて来た。しかし、アデルは何度目を閉じても眠れないままだった。男の人と共に眠るのが初めてで、緊張するだけでなく――――豪雨の中、恐ろしい雷が鳴り始めてしまったのである。
ピカッ!…………ゴロゴロゴロ……!!!
轟音が鳴るたびに、アデルの体はあの日の恐怖を思い出し、小さく跳ねる。抑えようとしても全くダメだった。恐ろしくて、寂しくて、眠るどころじゃなくなってしまったのだ。実は、雷の日はいつもこうで、普段はリナに抱きしめてもらって眠っていた。
けれど、結婚初日からユリウスに迷惑をかけるわけにはいかない。何とか耐えようと試みるが、心に刻みつけられた恐怖で、目にはみるみるうちに涙が溜まっていき、抑えきれない分が雫となってこぼれ落ちていく。
ゴゴォ…………!!ゴロゴロゴロ!!!!
「ひぃっ………………」
とうとうアデルは、小さく悲鳴をあげてしまった。
「……アデル?」
騎士のユリウスは目ざとくアデルの気配を察し、声をかけてきた。目を覚まさせてしまったようだ。
――ああ、ダメなのに。
これ以上、あなたの負担になりたくないのに。
けれど、そう思えば思うほど、寂しくなる。目にはどんどん涙が溜まって、嗚咽を抑えられなくなってしまう。
「ゔぅ…………っ」
「アデル?泣いているのか?」
はっきりと漏れ出てしまった声は、もはや隠しきれなかった。ユリウスはとうとう体を起こし、こちらに近づいてアデルに呼びかけた。アデルは自分の顔を無理やり覆っていた手を優しく取られ、剥がされてしまう。暗闇の中でユリウスと目が合った。きっといま自分は涙まみれで、酷い顔をしているに違いなかった。とても恥ずかしい。
「……もしかして、雷が苦手なのか?」
「はい、実は……。………………ひっ!!」
また大きな雷が鳴り響き、アデルは思わずユリウスにしがみ付いた。ユリウスの大きな体躯はそれぐらいじゃびくともせず、力強くアデルを受け止める。
「ほら、俺に捕まってていて良いから」
「ひぅっ…………うぅ、ごめん、なさ……ひっぐ」
「言ってくれれば良かったのに……。雷がおさまるまで、こうしているから大丈夫だ」
その言葉を合図に、アデルの小さな体は、ユリウスの大きな体に包み込まれた。気がつけば、雷から覆い隠すように抱きしめられている。胸いっぱいに、不思議と安心するユリウスの香りが広がり、アデルは酩酊したような心地になった。嗚咽を上げながら、半ばパニックになり、白状してしまう。
「実は。む、むかし、人攫いに拐かされてっ、その時、動けないほど怪我して……森の中に置いて行かれて……」
「そんなことが……」
ユリウスはアデルを落ち着けるように、背中をポン、ポン、と一定のリズムで叩いた。まるで子どもをあやしつけるみたいに甘く、優しい手つきだった。それでアデルの心は、もっとぐちゃぐちゃになっていく。この逞しい、優しい人に何もかも、全部預けたくなってしまう。
「その時雷が鳴っていて。それで、雷が怖くなって…………っ」
「そうか。それは怖かったな。早く気づかなくてごめん」
「それに、あのっ……私、言うタイミングを逃してたけど……実は。稀人……転生者、なの…………」
「!そうだったのか……」
曝け出すみたいに、心の内がポロポロ溢れていく。アデルを包み込む力が少しだけ強まった。そうされると酷く安心するのに、心臓が狂おしいほど痛むのは、どうしてなのだろう。
「その、攫われた時はっ……転生したことを、思い出した、ばかりでっ……ひっぐ」
「うん」
「寂しくて……悲しくて…………もう、あの世界には帰れないんだって思ったら……っ、世界で独りきりになったような気がしてっ…………」
「うん…………」
「私、この見た目で侮られたり、変な人に目をつけられることが多くて。この世界が、ずっと……好きになれなくて……苦しくて…………っ、ぐすっ」
「うん…………それは、苦しかったな」
「お前みたいな見た目の奴と結婚しようと思うのは、
「どこのどいつだ」
ユリウスの声が一気に怒気を帯びたので、ひゅっと体がすくんでしまう。それに気づいたユリウスが、慌てて声の調子を落とした。
「すまない、君を怖がらせて」
「いいえ……私こそ、ひっぐ、ごめんな、さい……」
「君が謝ることは、何もない」
優しいテノールが、ひどく心地よく鼓膜を揺らす。ポンポンと背中を叩いていた手は、今度はゆっくりと背中を撫で始めた。まるで、アデルを励ますみたいに。
「俺は、君の見た目も、その…………素敵、だと、思う」
「ま、まさか」
「本当だよ。初めて見た時は、精霊が夜会に紛れ込んだのかと思ったんだ」
その言葉にびっくりして、少し顔を上げると、再びユリウスと目があった。夜の闇の中でも濡れたみたいに光っているルビーの瞳は、とてもやわらかく細められていた。目元が少しだけ赤らんでいるのが見える。彼は、本当の本心で言っているようだ。身体中が歓喜で
「男の人に、そんな風に言われたの…………初めて」
「見る目がない奴ばかりだな」
「ふふっ…………ユリウスって、変な人ね」
アデルはそこで、思わずクスリと笑ってしまった。トラウマの雷が鳴っている中で笑うなんて、自分でもどうかしていると思うが。ユリウスの大きな腕に包まれていると、何だか心が緩んで、ふにゃふにゃになってしまうようだった。
「それに……見た目だけじゃ、ないの。私は何でもハッキリ言うし、口が悪いから…………。生意気だって、言われるのよ?男の人に、嫌われやすいの…………」
「そうは思わない。君は頭が良いし、はきはき喋るから、話していてとても気分が良い」
「ふふふ……やっぱり、変な人だわ」
「変でいい。君のことは――――俺が、守るから」
アデルが笑うと、ユリウスの目も少しだけ笑みの形になって、そう言った。よくよく見れば、口角も少しだけ上がっている。
それは初めて見る、彼の微笑みだった。
――――誠実でやさしい、彼の小さな微笑みだった。
アデルの心臓はドクンと、一度大きな音を立てた。雷よりもずっとずっと、大きな音を。
その瞬間、走馬灯のように、頭の中を今までのできごとが流れていく。
アデルを子供と勘違いして声を掛けてくれた、親切なユリウス。
父から初対面の私を守ってくれた、正義感の強いユリウス。
丁寧に頭を下げて謝罪してくれた、生真面目なユリウス。
ケーキを食べて少年みたいに声を弾ませた、無邪気なユリウス。
アデルを丸ごと救うための契約結婚を持ちかけてくれた、優しいユリウス。
今、アデルを包み込んで、こうして守ってくれている――――大好きなユリウス。
アデルはもう、気づいてしまった。
自分がとっくのとうに、この人に恋をしていたことに。
今アデルを包んでいる温かな彼は、ゲームの『推しキャラ』なんかじゃない。
アデルは、気づいてしまった。
ここに生きて、自分を守ってくれている、力強く優しいユリウスを――――アデルはもう、大好きになってしまったのだと言うことに。
アデルはもう一度、しばらく大きな嗚咽を上げ続けた。
もう既に、雷の音は耳に入っていなかった。
ただ、好きになってはいけない人に、恋をしてしまったことが苦しくて――――しばらく、泣いてしまったのだ。
ユリウスは、そんなアデルが泣き止むまでずっと、その大きな体で包み込み、背中を撫で続けてくれていたのだった。
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